Day1「まっさら」
朝3時。鳴り響く目覚ましを手探りで止めて、重い体を布団から引きはがす。
ぬるくなる気配のない水で顔を洗い、歯を磨いてから、店のトラックに乗り込む。エンジンをかけると窓と眼鏡が白くなった。曇った眼鏡を拭いていると、助手席のドアが開いた。
「おはよう、藤乃。今朝は寝坊しなかったのね」
「はよ。そんなしょっちゅう寝坊してねえよ」
母親の軽口に肩をすくめて、黙ってシートベルトを締める。
「じゃ、行きますか」
少し走ると空が白みはじめて、まっさらな今日が静かに動き出す。
着いた先は花市場で、実家の造園屋兼花屋で扱う品を仕入れに来た。
トラックを定位置に留めて降りると、一歩踏み出した瞬間、濃密な花の香りが全身を包んだ。
たくさんの人の気配と、それ以上にたくさんの花がカゴ台車に並んでいる。
毎朝の風景なのに、やっぱりこの熱気には圧倒される。汗と白い息が混じって、場内はほのかに湯気がかっていた。
「おはよー藤乃ちゃん! フリージア見てってよ!」
「止めてよ、この子まだ見る目ないから!」
顔見知りの農家と母親が軽口を叩いている。
仕入れはもう一人でやらせてほしい。じいさんも親父も「任せてみたらどうだ」って言ってくれるけど、母親だけは「私のテストに全問正解してからね」って譲らない。
「あ、藤乃だ。おはよ」
「おはよう、瑞希」
瑞希はじいさんの代から付き合いのある由紀農園の跡取りで、よく親父さんと一緒に花を卸しに来ている。
子どもの頃から家族ぐるみの付き合いで、瑞希とは高校が一緒だったから、数少ない友達でもある。
瑞希は毎日畑仕事をしてるから、体つきがしっかりしていて羨ましい。二の腕も太ももも、俺とは比べものにならない。……いいなあ。
そんなことをぼんやり考えていたら、瑞希が「由紀農園」と書かれた黒いキャップのつばを持ち上げた。
「なあ、花音見かけなかった?」
「花音ちゃん? 今日来てるんだ?」
「うん。親父が腰をやっちゃってさ。代わりに手伝わせようと思って連れてきたんだけど、ラナンキュラス取りに行かせたら戻ってこないんだ。見かけたら呼んでくれ」
花音ちゃんは瑞希の妹だ。たしか瑞希の二つ三つ下だったはず。
「って言っても、俺が花音ちゃんに最後に会ったのって、たぶん幼稚園か小学校の低学年の頃だから、顔覚えてないんだよね」
「そんなに会ってなかったっけ? まあ、見たらすぐわかると思うよ。やたら背が高いんだ、俺と同じくらい」
「えっ、そんなに大きくなったの? ちょっと探してくる」
俺は背の高い女の子が好きだ。自分が180を超えてるせいか、自然と目がいってしまう。でも、なかなかいないんだよな……。
でも、瑞希と同じくらいの背なら、170は軽く超えてるはず。……なんだか急に探す気になってきた。
「こら、藤乃! しゃべってないで早く手伝って!」
「いって……」
せっかく気分が上がってたのに、母親にどつかれた。瑞希はにこやかに母親に頭を下げて、チューリップやヒヤシンスを勧めていた。
「藤乃、このチューリップならどっち?」
瑞希が勧めたチューリップを母親が指さした。
「右。花びらの形がきれい」
「正解。ヒヤシンスは?」
「右。つぼみがぎゅっと詰まってる」
「残念。そっちは葉っぱがちょっと大きすぎるかな」
「うちの商品に“残念”はひどいなあ」
ふてくされた顔の瑞希に、母親が笑って手を合わせた。
「ふふ、ごめんね。じゃあ、黄色のチューリップとピンクのヒヤシンスを30ずつお願い。藤乃、運んで」
「へいへい」
「瑞希ちゃんにはお詫びにおにぎりあげるね。藤乃の朝ごはんだけど」
「え、それ俺の……ひどくない?」
「外したお前が悪い。ほらよ、ピンクのチューリップもおまけしてやる」
差し出されたチューリップは、花びらの先がひらひらと波打っていて、レースのフリルみたいに広がっていた。ブーケにすれば華やかだし、アレンジメントに入れても目を引く。きれいな花だ。
「あら素敵な形。色もいいわね」
「へえ、こんな品種もあったんだ」
「最近育て始めたんだけど、まだ出来が安定しなくてさ。本格的に卸すのはたぶん来年。それは試作品ってことで。こういうの、好きだろ?」
「うん、好き。ありがと」
チューリップとヒヤシンスの箱を抱えて、トラックに向かう。もらったピンクのチューリップは大事に箱の上に乗せて、揺れないようにそっと支えながら歩いた。
箱を荷台に積み込み、ピンクのチューリップは折れないようにビニール袋に入れて手に持つ。
母親ののもとへ戻ろうと足を速めた瞬間、並んだカゴ台車の向こうから、ラナンキュラスの丸い花束がふいに飛び出してきた。
「うわっ、大丈夫?」
ギリギリセーフ! なんとか間に合って、はじけた花束と、それを抱えていた人ごと支えるように受け止めた。
花も崩れていないし、相手もケガはなさそう。
「……は、はいっ……すみません……!」
色とりどりのラナンキュラスの向こうから顔をのぞかせたのは、目を丸くした女の子だった。黒いキャップに見覚えがある。瑞希にそっくりな、すっと通った鼻筋と長いまつげの二重まぶた。寒さに染まった頬はりんごみたいに赤くて、小さな口がぎゅっと結ばれている。
「……花音ちゃん、か?」
「えっ、あの……なんで名前……?」
花音ちゃんは、俺の腕の中で小さく首をかしげた。肩に触れた髪から、花と草と土が混ざった、いい匂いがふわりと漂う。
「さっき瑞希に、行方不明だから探してこいって頼まれてさ。一緒に戻ろっか」
「兄をご存じなんですか……? あ、すみません、支えていただいて……」
「……あ、うん。こっちこそ、ずっと支えっぱなしでごめん」
慌てて手を放す。
ほんの少し、腕がひんやりした気がした。
「ごめんなさい、重かったですよね」
申し訳なさそうに眉を下げる顔を見て、思わず声が漏れた。
「そんなことないよ。庭石持つより、ずっと軽かった」
「……なんですか、それ」
くすっと笑って、花音ちゃんが前を向いた。
「そっちじゃないよ」
「え、あれ……?」
「こっち」
花音ちゃんの、だぼっとした袖口を指先でつまんで引く。
人の波の中を、二人で言葉もなく並んで歩く。
「あの……そのチューリップ、うちのものですか?」
もう少しで瑞希のところに着く、そんなときに花音ちゃんが声を上げた。俺の腕には瑞希にもらったチューリップが袋に入って下がったままだ。
「うん。さっき瑞希がくれた。試作って」
「……それ、どう思われましたか?」
不安そうに視線を向けてくる花音ちゃんに、そんなに怯えるような目をしないでほしくて、できるだけやさしく答えた。
「すごく素敵だと思う。形が華やかで、花びらの縁がレースみたいに波打ってて、かわいらしい。ブーケにもアレンジにも映えると思う。発色もきれいだし……うちの店で扱えたらいいな」
……母親が首を縦に振れば、だけど。まあ、これだけ良い花なら、きっと大丈夫だろう。あとで瑞希に、色のバリエーションも聞いておこう。
「……そうですか。よかった……」
花音ちゃんが、ふわっと笑った。華やかで、どこかあどけなくて。赤く染まった頬と唇が、やけにきれいに見えた。
「そのチューリップ、私が育ててるんです。まだ安定しなくて……でも、そう言っていただけたなら、もっと頑張れそうです」
にこっと笑った花音ちゃんが、ふっと視線を外す。目で追うと、少し離れたところで瑞希が手を振っていた。
「あ、瑞希……ありがとうございました。わざわざ、連れてきてくださって」
花音ちゃんは軽く頭を下げて、離れていった。
気づけば手が伸びていて、彼女の服の裾をつまんでいた。
花音ちゃんが、不思議そうに振り返る。
「その……チューリップ、花音ちゃんみたいに素敵だから……育つの、楽しみにしてる」
「……っ、な、なんですか、それ……」
……いやほんと、俺、何言ってんだ。
手を離すと、花音ちゃんは眉を下げて行ってしまった。
頭を抱えたいけど、市場のど真ん中だ。瑞希が手を振ってるのに気づいて、軽く手を上げて、くるっと背を向ける。
……母親探さなきゃ。
手に下げてたチューリップを、そっと胸の前に抱き直す。
一通り仕入れを終えたら、トラックに戻る。
帰りは母親の運転で、俺は助手席。市場の近くで買った朝飯をのんびり食べた。
「プリザーブドフラワー用の保存液って、まだあった?」
「あるけど、使うなら残量見といて。減ってたら、他の資材と一緒に注文しておいてね」
「はいはい」
店に戻ったら、仕入れた花を水を張ったバケツに移す。
ピンクのチューリップだけは、乾燥剤入りの容器にそっと収めた。
店頭の花の水を替えて、店内を掃く。エプロンをつけて、シャッターを上げれば営業開始だ。
「あら、今日は藤乃くんが店番なのね」
「おはようございます、鈴木さん。いつもありがとうございます」
「ずいぶんしっかりした、いい男になったわね」
「鈴木さんも、昔から変わらずおきれいですね。今日のおすすめは、今朝仕入れたヒヤシンスです。たしか、ご主人が黄色い花がお好きでしたよね」
「商売上手ねえ。じゃあ、藤乃くんのおすすめで、千円くらいの花束お願いね」
「承知しました」
午前中は常連客が顔を出してくれて、そこそこ賑わう。
昼過ぎに母親と交代して昼飯をとり、そのまま庭師のじいさんと、お客さんの家の庭木の剪定に向かう。
夕方、店に戻ると、バイトの葵が店番をしていた。
「あ、藤乃くん、おかえり」
「ただいま。売れ行きはどう?」
「この美少女が店番してるんだよ? 売れないわけないじゃん」
「それは心強い」
実際、店先に葵がいるかいないかで、売れ行きはちょっと変わる。大学を卒業したら看板娘になってほしいくらいだけど、こいつ、警察になるって決めてるんだよな。
「今日、何時まで?」
「18時。そんくらいに朝海くんが迎えに来るよ」
「へいへい。過保護だな、お前のダーリンは」
「こんな美女を夜ひとりで歩かせられる?」
「……確かに」
葵は、うちの常連客でもある神社の孫娘。じいさん同士が幼なじみで、俺も小さい頃からじいさんの現場についてって、神社によく出入りしてた。
俺が小学校に上がるころ、神主さんの娘さんが赤ん坊の葵を連れて、神社の裏にしばらく住んでた。だから、このやかましい自称美女のおむつを替えたこともあるし、一緒に風呂に入れられたこともある。
顔はきれいだけど、とにかくうるさいし、あの赤ん坊がこんなに大きくなったんだな……っていう、親戚みたいな感慨があるし。細くて小さいから、余計に、
「俺の嫁になって、うちの看板娘になってくれ」
なんて、言う気にはならない。
葵には、世界一いい男を捕まえて、ずっと幸せに暮らしてほしい。俺はその結婚式で、号泣する予定だ。
ま、世界一かどうかはさておき。ベタ惚れの彼氏をちゃんと連れてきたんだから、あとはそいつに任せたい。
葵が学校の話や授業の愚痴、朝海くんがどれだけいい男かを延々しゃべってるのを聞き流しながら、店番に入る。
「このチューリップは?」
めざとくピンクのチューリップを見つけた葵が袋を覗き込んでいる。
「それ、俺の一生の宝物にするから、触んないで」
「ふうん」
興味なさそうに、葵はすぐ袋から離れた。
売れ行きを確認して、減った花を足し、しおれ気味の花に水をやる。
葵が作ったブーケを手直ししていると、細身の青年が店に入ってきた。
スッと背筋の伸びたそいつは鋭い目つきで店内を見回す。
「今日のおすすめは?」
「そこの黄色のチューリップ。あーでも、お前が買うなら紫かピンクかな」
「なぜ?」
「黄色のチューリップは『望みのない恋』、紫とピンクは『誠実な愛』って意味」
「……お前は、どちらがいい?」
青年が店の奥に声をかける。
ちょうどエプロンを外した葵が出てきて、ぱあっと花が咲くような笑顔になった。
……いちゃつきのネタに花を使わないでほしい。
「朝海くん! えっと、えっとね、じゃあ紫がいいな。……花言葉に『不滅の愛』っていうのもあるから」
「わかった」
「へいへい」
紫のチューリップを一本包んで渡すと、朝海がそれをそのまま葵に手渡した。
葵は、顔を赤くしながらも満面の笑みで受け取ってる。
……店の外でやってくれないかな。
寄り添って歩くふたりを見送って、あと2時間くらいで本日の営業は終わり。片付けて夕飯を食べて、ベッドに転がった。
「……連絡、するか」
スマホをつついて、SNSの連絡先をスクロールしていく。いちばん下にあった瑞希の名前をじっと見つめた。
文章を打っては消し、また打っては消しを繰り返して、気づけば30分。やっとの思いで送信した。
「はー……。って、うわ、もう返事きた」
俺が送ったのは、悩みに悩んで絞り出した、たった一行。
『お前の妹、口説いていい?』
返ってきたのは、スタンプひとつ。『OK』って吹き出しがついた、変な犬のやつ。もしかしたら熊か狸かもしれないけど。
「……そうか、OKか」
小さくつぶやいて、目を閉じた。
俺は――あの、かわいらしい女の子がほしい。
最後に見た困った顔を、今度は笑顔に変えてみたくなった。