第6話
錆びついた空気のにおいがした。
彼女の周りを取り巻く日常は、いつだって灰色だった。
——学校なんてクソ喰らえ
いつだってその気持ちは変わらなかった。
それが彼女なりの等身大だった。
立ち止まる理由なんてなかったんだ。
グラウンドに差し込む夕陽の向こうで、直向きにボールを追いかけている“彼”がいただけで。
下手くそだなって、思った。
それが最初の印象だった。
投げ方もボールの握り方も。
通りすがりに見ただけでわかった。
お世辞にも、ピッチャーに向いてるとは言えなかった。
(…なんだありゃ)
どこにでもいるただの野球少年。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
そのユニフォームは、青葉もよく知っているユニフォームだった。
地元にある数少ないクラブチーム。
小学生の時に入っていたリトルリーグで、よく合同で練習したりしていた。
それなりに強いチームだったからこそ、レギュラーにはなれないだろうなと思った。
「おい」
──思えば、あれが最初だった。
毎日同じ時間に見かける下手くそなフォーム。
うんざりするほどにぎこちないその姿が、いつしか、目に焼き付いて離れなくなっていた。
「投げろって言ってんだよ。早く」
睨むようにそう言って、青葉はしゃがみ込んだ。
ミットを構え、口元を引き結ぶ。
その仕草はまるで、プロのキャッチャーみたいだった。
大牙は言われるがまま、ボールを握り直す。
あの場所、あのグラウンドで、日が暮れた後も練習しているのは大牙くらいだった。
放課後のグラウンドで黙々と投げ込む毎日。見られてるなんて、思ってもみなかった。
「…あのさ、なんで俺のフォーム、そんなに詳しく分かったんだよ?」
投げる前に、彼はつい聞いてしまった。
すると彼女は少しだけ目を伏せて、ぽつりと答えた。
「…あんたの投げ方、なんとなくうちの親父に似てるから」
「え?」
「元プロだった。うちの親父。……今はもう、ただの酔っ払いだけどな」
そう言いながら、青葉はわずかに顔をそらした。
その声には少しだけ、寂しさのような色が混じっていた。
「……フォームは似てる。でも、腕の振りと体重移動がダメ。そんなんじゃ、いつまで経ってもまともにストライクも投げらんねーぞ」
「ずっと、俺のこと見てたの?」
俺がそう聞くと、彼女は鼻で笑った。
「は? 見てねーし。たまたま通っただけだし」
そう言いながら、彼女の視線がほんの少しだけ泳いだのを、彼は見逃さなかった。
──気まぐれじゃない。
この人は、きっと、ずっと俺を見てた。
「……一球だけ、ちゃんと投げてみろよ」
青葉が言った。
「気合いとか根性とか、そういうのはどーでもいい。
ちゃんと見てやっから。アンタの“本気”、投げてみ」
真っ赤に染まった夕陽のなかで、彼女の瞳だけがやけに透明だった。
どこか突き放すようで、それでも優しさを孕んだその声に、大牙は自然と足を踏み出していた。
肩を回し、息を吸う。
そしてーー投げた。
風を裂くような音がグラウンドに響いた。
パシィッッッ!!
「……悪くねぇじゃん」
そう言ってミットを下ろした青葉の口元には、ほんのわずかに、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
夕陽の下で、彼女と交わしたキャッチボール。
別に、特別な約束をしたわけじゃない。
連絡先を交換したわけでもなければ、次いつ会おうなんて言葉もなかった。
でもそれから、なぜか同じ場所に同じ時間、2人はよく顔を合わせた。
「お、今日も投げんの? 好きだねぇ、ほんと」
「お前が来るなら、投げるしかねぇだろ」
「……あ? 誰が“来てやってる”っつったよ?」
毎回、口喧嘩みたいなやりとりから始まって、
気づけば日が落ちるまで、黙々とボールを投げ合ってた。
あれが、いつからか習慣になっていた。
大牙にとっては、ただの練習じゃなかった。
青葉にとっては、ただの暇つぶしだったかもしれないけど──
あの時間がなかったら、きっと大牙は途中で心が折れていた。
高校に進んでも、それは続いた。
違う制服、違う駅、違う未来を歩き始めた2人。
それでも週に一度、部活帰りに待ち合わせて、グラウンドの隅っこでボールを投げる。
何か特別な話をすることもなかった。
ただ黙って、グローブ越しに心の熱をぶつけ合うような、そんな時間だった。
「お前さ、プロ行けんじゃね?」
ある日、不意に青葉が言った。
その口調は冗談みたいで、でもどこか本気だった。
「お前がちゃんとフォーム直してくれたおかげな」
「……は? 言ったな今、“おかげ”って」
「言ってねぇよ。空耳だろ」
「クッソ……あーもうムカつく! 明日も来いよ、ぶっ壊れるまで投げさせてやっからな!」
そう言って笑ったあの顔が、彼の目に今でも焼きついている。
夕陽に染まった髪のピンクと、うっすら汗のにじんだ額と。
——何より、その瞳の奥にあった“まっすぐな何か”を。