第5話
バイクのエンジンがかかった後も、青葉はまだ煙草を持ったままだった。
「タバコ、あと一本いけんじゃね?」
「行けねぇっての。指先が死ぬ」
理沙の口調はいつも通り軽く、冗談交じりだった。
青葉の心はそれとは裏腹に微かに重かった。
行き先も決めずにここまで来た。
息が切れるまで走りたかった。
現実から目を背けていたいわけじゃない。
何かから、遠ざかりたかったわけでもない。
ただ、立ち止まって考える時間を持ちたくなかった。
走ってれば、気がまぎれると思っていた。
こうして、日常から少し離れた場所にやってくれば——
そのとき、ジリリとポケットが震えた。
ディスプレイに表示された――ひとつの名前。
青葉の指が少しだけ強張る。
胸の奥に、ゆっくりと黒い水が溜まっていくような感覚。
ここ数週間、わざと連絡を避けていたのは自分でもわかっている。
「……またか」
理沙がちらりと覗き込む。
「出なくていいの?」
「……いい」
即答するが、バイブは止まらない。
まるで彼の声が、体のどこかから聞こえてくるようでもあった。
(…めんどくせー)
そう思う気持ちもどこかにあった。
会うのが嫌とか、そういうわけではなくて…
キャッチボールの約束――
すっぽかしたのは、これで三度目。
年末に会って以来、彼には会っていなかった。
会わないようにしていた。
できるだけ遠くにいたいと思った。
それがお互いにとって一番良いと、彼女なりに考えていた。
少し前からだった。
2人の関係を、考え直そうと思ったのは。
きっかけがあったわけじゃなく、ただ、単純に。
自分の体のことは関係なかった。
——いや、“関係ない”わけじゃない。
気がつけば夏が来て、高校生活も残りわずか。
やかましいほどに鳴り響く蝉の声が、いつになく近くに感じるようになっていた。
通りすぎる6月の向こうには、梅雨曇りの空が流れている。
グラウンドに落ちる木漏れ日を、つい目で追ってしまう日々。
立ち止まってしまう時間。
——少なくとも、彼女の人生にとっては大事なことだった。
今までと同じように暮らせないことは、深く考えなくてもわかる。
同じようにはいかない。
同じようには、“なれない”。
約束をしたつもりはなかった。
最初からそうだ。
大牙をはじめて見かけたのは、彼女が中学一年の頃だった。
当時彼女は学校で問題を起こし、母親が頭を下げる日々を送っていた。
ほっぺたには絆創膏。
耳に開いたピアス。
周りに迷惑をかけてばかりいた。
先生に呼び出されては、毎日怒られていた。
“そんなんじゃダメだ”
“真面目に勉強しろ”
大人の言うことなんて聞けなかった。
聞くつもりもなかった。
授業だの校則だの、しがらみを全部捨てて、自分の思うままに生きてみたかった。
抗っていたかった。
理沙と学校を抜け出したのはいい思い出だ。
ゲーセンに映画館、駅前のバッティングセンター、——河川敷。
制服のまま街の中を歩いてた。
授業なんてほったらかしで遊んでた。
——喧嘩が絶えない日はなかった。
他校の生徒や、先輩とも。
そんな時に見かけたのが、大牙だった。