第4話
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朝の空気は、驚くほど澄んでいた。夜が明けた瞬間の空気は、世界から一切の感情が剥がれ落ちたように冷たく、清らかだった。
玄関の扉を静かに引いた青葉は、背中で眠る母の気配を感じながら、心のなかでそっと「ありがとう」と呟いた。声に出せば何かが壊れそうで、ただ靴音だけが静かに、朝露の染みたアスファルトに吸い込まれていく。
家の前に停まっていたのは、真紅のCB。ハンドルにもたれかかるようにして、細身の少女が立っていた。
「……遅い。寝坊か?」
その声に、青葉はふっと笑った。
「うるせーな。そんなに待たせてねぇだろ」
その子の名前は理沙。青葉が物心ついた頃から、ずっと一緒だった。
まともに通わなかった学校の制服も、煙草の火のつけ方も、生まれて初めてバイクに乗った時も。
この子と共有してきた。誰よりも信じられる相手、同じ時間を過ごしてきた仲だった。
ただの幼馴染じゃない。
――だけど病気のことは、まだ話せていない。
理沙の目が、何も聞かずに青葉を見つめている。
その無言が、今はただありがたかった。
エンジンをかける音が、静かな住宅街に反響する。
赤と黒の2台のバイクが、同時に夜明けの道を滑り出した。
目指すのは、総社。
行き先を選んだのは青葉だ。なんとなく“あのあたりに行きたい”と口にしただけで、理沙はそれ以上何も言わなかった。
目的地があったわけじゃない。ただ、地図を指でなぞったとき、心がその方角に少しだけ揺れた。それだけだった。
風が肌を切る。
ハンドル越しに伝わる振動は、骨の芯に届く。青葉はその感覚が好きだった。身体のどこか、——心のどこかで、“まだ生きてる”って強く感じられるから。
川沿いの道に入ると、並走する理沙のバイクが軽くクラクションを鳴らした。
顔を向けると、彼女はヘルメット越しに親指を立てて笑っていた。
「――今が一番、生きてるって感じがするんだよね」
そんな言葉が喉元まで上がってきたけれど、言わなかった。
代わりにスロットルを少しだけ捻り、風を切って走る速度を上げた。
青葉の病状は、着実に進行していた。
階段を上るだけで息が切れ、夜中にひとりで泣いた日もある。誰かに相談したいという気持ちがなかったわけじゃない。したかった。打ち明けたかった。だけどそうしなかったのは、迷惑をかけたくないという気持ちが大きかったから。
部屋のベッドの上じゃなく、こうしてアスファルトと風の中にいる自分を、今は一番誇らしく思えた。
エンジンが低く唸り、朝の光の中を駆け抜けていく。まだ朝露の残るアスファルトを、2台のマシンがタイヤを鳴らしながら進んでいく。
走るたび身体は確かに痛む。でも、その痛みすらも、青葉にとっては“生”の実感だった。
備中国分寺の五重塔を遠くに仰いだ。
田園のなかへと溶けていく光。
——湿った空気と、緑。
乾いた排気音が、静かな田舎町の空気を引き裂いた。
二人のバイクは、まるで呼吸を合わせるように同じリズムでギアを上げ、カーブを抜けていく。
アクセルをさらに捻る。速度が増す。
風が強くなる。目の奥が、乾いた風で滲んでいく。
——気持ちいい
青葉の中で、その事実だけが唯一の確かだった。
今日もバイクに乗れていること。
理沙が隣にいてくれること。
空が広がっていること。
田畑の緑が、陽光に透けてまぶしいこと。
それだけが、目の前にある確かな“現実”だった。
「どこまで走る気だよ……」
後ろから聞こえた理沙の声は風にかき消されそうだったが、青葉にははっきり届いた。
「――行けるとこまで」
返した声は喉の奥から滲み出るような声だった。
「走って、全部、置いてきたい」
理沙は何も言わなかった。
友情とか、信頼とか、そんな言葉すらも不要だった。
その走りの中に、全部が詰まっていた。
走り続けることでしか掴めない何かを、青葉はずっと探していた。
答えなんてきっとない。
手で触れるようなものじゃない。
それが近くにあるのものかどうかさえ、わからなかった。
——でも、探さずにはいられなかった。
止まるわけにはいかないと思った。
止まったら、もう二度と引き返せない気がする。
そんな気がしたからだ。
エンジンの鼓動が、長く身体に染みついていた。
気がつけば、二人は吉備中央町へとたどり着いていた。
豪渓の岩間を縫うように走り抜け、鬱蒼とした杉木立のトンネルを抜けた。
峠をいくつも越えてきたはずなのに、青葉は途中の景色をまるで覚えていなかった。
ただただ、アクセルを開ける手に力を込めていた。
何を追っているのかも分からず、ただ胸の奥の掴めそうで掴めない不安と衝動を、エンジン音に塗り潰していた。
エキゾーストノートが小さくなっていく。
畦道の入り口、小さな電柱の下で、二人のバイクは並ぶように停まった。
ヘルメットを脱ぎ、冷たい風が額の汗をすくう。
湿った風の中に混ざるのは、山の裾野から漂ってくるのどかな気配。
遠くには低い山々が重なって見えた。
川と田んぼと、錆びれたガードレール。
「…ずいぶん飛ばしたな」
理沙がそう言って、照れたように笑った。
その顔には、息を切らしながらもどこか満たされたような、妙な清々しさがあった。
青葉はポケットからタバコを取り出し、一本咥え、理沙にライターを差し出す。
二人のタバコに火が灯る。
火種が風に揺れ、薄い煙が上空へと吸い込まれていく。
「……昔さ」
青葉はぽつりと話しはじめた。
「このへん、よく親父が走りに連れてきてくれてた。軽トラに積んだオフ車で、ダートの林道とか」
「私がまだガキだった頃。……あの頃は、こんなふうにただ風感じてるだけで、すげえ楽しかったのにな」
理沙は返事をしない。
黙って、隣で同じ風を吸っていた。
「走ってるとさ」
青葉は空を見上げた。薄雲が、いくつも層になって浮かんでいた。
「なんか、自分がまだ“ちゃんといる”って感じがするんだよ。うまくは言えねーけどさ?」
冬の空はどこまでも薄く、どこまでも遠い。
まるですべてがすり減ったような白っぽい雲が、風に押されて流れていく。
その下、小高い丘の上に、二人は腰を下ろしていた。
二台のバイクと、二本の煙草と。
それだけが静寂の中に佇んでいた。
2人だけの時間が、しばらく続いた。
「……ようやく落ち着いたな。風、ちべてぇけど」
青葉がぼそりと呟いた。
「冬はな、背中が空になる。骨で風を受けるから冷えが心に来んだよ」
「なにそれ、ポエム?」
隣に座った理沙が、くくっと笑って煙を吐き出す。
紫煙が曇天の空へと溶けていく。
理沙の煙草の火は強く短く、まるで彼女の気質そのものだった。
「……でもまぁ、わかる気ぃするけどな」
「でしょ? こうしてると、なんか全部どーでもよくなる。寒いけど、生きてる気がすんの」
「そーか。あんたもだいぶ丸くなったな。昔はすーぐキレ散らかしてたのに」
「お前が言うなっつの。バイクのミラー折ったの誰よ」
「ありゃ折れたんじゃなくて、ぶっ壊したんだよ。愛の力でな!」
「バカか」
二人は笑った。
くぐもった笑い声は冬の空に溶けていき、また静けさが訪れる。
その静けさはどこか、居心地のいい空洞だった。
「……なぁ、理沙」
「ん?」
「最近さ、変な夢を見るんだよ」
「夢?」
「なんかさ、駅の向こう側が全部、別の世界になってんの。……空が紫で、みんな影みたいに虚でさ。なんか、バカみてぇだけど――」
「…ふーん」
青葉は煙草を見つめる。火の赤が、風に煽られて揺れていた。
「このままどっか誰も知らんとこに行けたらって、思うことねーか?」
「逃げたいんか?」
「そういうんじゃねーよ。…ただ」
「ただ?」
「知らない世界を知ってみたいっていうかさ?」
「なんだそりゃ。メルヘンチックだなー」
「なんだよ、わりーかよ」
理沙は言葉を選ばない。
ただ煙草を深く吸い込み、吐き出す。
その動作にだけ、彼女なりの思考が込められていた。
「でも、あたしは好きだけどな。今のお前」
「は?」
「余裕ぶっこいてるけど、内側ぐちゃぐちゃなんバレバレだし。……そーいうの、ウチもたまにあるから」
「……一緒にすんなよ」
丘の上から、遥か彼方まで田園の風景が広がっている。
その先には川があり、日々があり、長閑な田舎の町並みが続いている。
でも、今日この場所だけは、そういった日常や風景とは切り離された時間のようだった。
冬の冷たい風が、二人の間を静かに撫でていく。
やがて、理沙が立ち上がった。
「そろそろ行くか。あんま長居すると、バイクも機嫌損ねるし」
「そーだな」
青葉も立ち上がる。
足元の霜がシャリ、と音を立てた。
「次は、どこ行く?」
バイクのエンジンがうなりを上げる。
その音に包まれながら、青葉は振り返って空を見た。
その空の向こうに、なぜか――“終わり”ではなく、“始まり”がある気がした。