第3話
母親の唇が、何かを言いかけては、また閉じられる。
迷いが言葉を濁らせていた。目の奥に、濁った涙が浮かんでいるのがわかった。
それでも大牙は待った。黙って、ただ、彼女の口から言葉が出るのを。
やがて、母親は震える手でお茶を口に運び、それでも上手く飲みきれず、湯呑みをそっと置いた。
その仕草は、何かを諦めるようにも見えた。
「ねえ……大牙くん」
掠れた声だった。
「私ね、あの子のこと……ちゃんと、育てられてたのかなって……最近、ずっと考えてるの」
ポロッと涙が、一粒だけ頬をつたった。
「あの子があんなふうになってから……ずっと、“ごめんね”って言いたかった。だけど……いつも、言えなかった」
言葉が、堰を切ったように溢れていく。
「暴力を振るう父親から、守ることしかできなかった。夜中に殴られて、泣きながら私の布団に来たあの子に……『大丈夫』って言うのが精一杯で……それでも、離婚して、やっと静かな暮らしができるようになって……。それなのに、今度は……こんな……」
嗚咽が混ざった。
母親は顔を覆うように、両手で目元を隠した。
大牙は言葉を差し挟めなかった。
目の前で泣いている彼女は、「青葉の母親」であると同時に「ひとりの母親」だった。
弱さを見せない青葉に対して、この人もまた、ずっと強くあろうとしてきたのかもしれない。
けれど今は、その強がりが壊れていた。
手の隙間から漏れる嗚咽と、乾いたような涙の音。
そのすべてが、大牙の胸を締めつけた。
「……俺、あいつのこと……ちゃんと見てたつもりだったんです」
絞り出すように言葉が漏れる。
「でも、違ったのかもしれない……。……何があったんですか。青葉に……何が」
それは、問いというより――願いだった。
もう、黙っていないでほしい。
どうか、何かを教えてほしい。
“彼女に、何が起きているのか”。
母親は、泣きながら首を振った。
それは否定じゃなかった。抗いだった。
「……治るなら、何だってした。お願いだからって、何度も言った。……でも、あの子……“いらない”って……!」
喉を震わせ、涙声が部屋に響いた。
「“そんなもん、苦しいだけだ”って、“死ぬまで薬漬けになって、病院のベッドで腐ってくくらいなら、最後まで自分で生きたい”って……」
その言葉に、大牙の鼓動が跳ね上がった。
頭の中が、真っ白になった。
なにを……言っている?
「……いま、なんて」
自分の声が、掠れていた。
母親はゆっくりと顔を上げた。
目は赤く、鼻をすすりながら、それでも、大牙の目を見た。
「――どこから言えばいいかな。…あの子、病気なの。……“ステージ4の肝臓がん”って……医者から、そう言われたの」
時間が止まったようだった。
部屋の空気が、すうっと色を失っていく。
何を言ったのか聞き取れなかったわけじゃない。
言葉の意味がわからなかった訳でもない。
大牙の耳には「音」だけが残っていた。
予想だにもしなかったことだからだ。
——病気
ありふれているようで、ありふれていない言葉。
青葉とは最もかけ離れている言葉。
冗談じゃない、そんなわけがない、と。
言葉は喉まで来て、出てこなかった。
「……病院で告げられたの、ついこの間。本人も、その場で全部聞いて……すごく静かだった。“ああ、そうですか”って、それだけで」
語尾が震えた。
「……治療を勧めた。でも、あの子……“そんなもん、いらねえ”って。……“薬より、今が欲しい”って……私を突き放すのよ」
母親の両手が、机の端を強く握りしめた。
「お願いよ、大牙くん……。あの子、あんな顔で笑ってたけど……本当は……本当は、怖いに決まってる。……誰にも言わず、抱え込んで、ひとりで全部決めて、勝手に……勝手に……!」
言葉が、崩れた。
「お願い……お願い、どうか……あの子を、止めて……!」
母親は、机越しに身を乗り出すようにして大牙の手にすがった。
その手の温度が、涙で濡れていた。
大牙は、頭の中が真っ白だった。
考えられなかった。
病気?
がん?
ステージ4?
……そんなの、知らない。
聞いてない。
教えてもらってない。
でも、確かに今――
「全部」がつながっていった。
連絡が取れなかった理由。
顔を出さなかった冬休み。
母親の沈黙。
この、妙な“気配のなさ”。
全部、答えは最初からそこにあったのだ。
なのに、自分だけが――気づけなかった。
ちゃぶ台の上で、冷めきった緑茶の湯気が、ゆらりと揺れて消えた。
しばらくのあいだ、大牙は沈黙の中に閉じ込められていた。
思考が止まったのではない。むしろ逆だ。頭の中では無数の音が交錯していた。青葉の声、母親の嗚咽、外を走る車の音――けれど、それらはまるで水の中に沈んだように遠く、くぐもっていて、正確に捉えることができない。
“がん”――その二文字だけが、やけに鮮明だった。
音の質感すら感じられるほど、脳内に深く沈み込んでいる。
“ステージ4”という単語に至っては、具体的な意味よりもただ“もう戻れない”という印象だけを伴って、大牙の胸に重くのしかかっていた。
彼は自分の胸のあたりを両腕で抱いた。無意識だった。
心臓が、嫌なリズムで脈打っている。鼓動というより、爆ぜるような震えだ。指先がじんわりと痺れていた。
「……なんで、言ってくれなかったんですか」
やっとの思いで口からこぼれ落ちた言葉は、彼自身でも驚くほど小さく、かすれていた。
怒りでも、悲しみでもなかった。いや、それらすべてが交じり合って、形にならなかったのかもしれない。
母親は答えなかった。ただ視線を膝の上に落としたまま、唇を震わせていた。
その沈黙が、返って多くを物語っていた。
――口止めされていたんだ。
きっと青葉は、このことを知らせるつもりはなかった。
最近あった時もそうだった。
妙によそよそしいというか、どこか他人行儀なところがあった。
変に言葉を濁す時も多かった。
様子がおかしいとまでは思わなかったけど、…ただ、なんとなく彼女らしくないっていうか、どことなく雰囲気が違う彼女がいた。
想像できる。あの気丈な性格。笑い飛ばすような声。
心配かけたくなかったんだ。
1人で戦うつもりだったんだ。
まるで、俺なんて必要ないかのように振る舞っていた。
自分でなんとかできると、——そう言わんばかりに。
「……でも、それでも、俺には……」
その言葉の先を、大牙は飲み込んだ。
それを言ったところで、何かが変わるわけじゃない。彼女が病気だという事実も、治療を拒んでいるっていう理由も、何一つ整理できない。
ただ、…ただ今は。
会いたい。会って、声を聞きたい。息づかいを確かめたい。目を見て、笑っているかどうかを知りたい。
それだけだった。
「今……どこにいるんですか」
その問いかけは、心の底から掬い上げられたような声だった。
もはやそれ以外、何も聞きたくなかった。何も考えたくなかった。
母親は泣き腫らしたような目で彼を見つめ返した。微かに唇を開き、震える声で告げた。
「……友達とバイクで……どこかに。どこに行くのかは言わなかった。…いつもよ。あの子らしいっていうか、いつもそんなだから」
大牙の胸に、冷たいものが突き刺さった。
彼女がどこか遠くに行ってしまいそうな気配が、その言葉の奥に感じられて。
椅子が軋む音と同時に、大牙は立ち上がった。
音もなく――それは怒りからでも、焦燥からでもなかった。もっと根の深い、根源的な“喪失への恐れ”が、大牙の背中を押し上げていた。
彼女が行こうとしている場所はわからない。
けれど、それでも探しに行かなくちゃいけない。今すぐに行かなくちゃ、二度と会えないような気がした。
「ありがとうございました」
軽く頭を下げた。
母親が何か言おうと口を開いたが、その声はもう大牙の背中に届いていなかった。
玄関のドアを開けた瞬間、陽光が洪水のように差し込んできた。
空が異様なほど澄み切っていた。冬の風は新しい空気の匂いを含み、優しく肌を撫でた。
大牙は靴紐も結ばず、走り出した。
行き先など分からない。ただ、青葉がどこかで空を見上げていると信じて。
世界のどこかに彼女の姿がある限り――その場所へ、きっとたどり着ける気がした。