プロローグ
——初めて見たとき、思わず言葉を飲んだ。
センター分けの重たい前髪に、毛先のピンクがふわりと揺れる。
白いシャツは胸元が大胆に開いていて、緩く巻いたチェックのシャツが腰で揺れてる。
でも、どこか虚ろだった。強気なはずの瞳に、何かを見失ったような影が宿っていた。
夕方の校舎裏。
グラウンドに響いていた硬球の音も、遠ざかる蝉の鳴き声も、彼女の登場で急にフェードアウトしたみたいだった。
「おい、そこの坊主」
低く、かすれた声がした。
目をやると、彼女が俺を睨んでいた。ポケットに手を突っ込んで、脚を肩幅に開いて、まるで喧嘩を売るかのような立ち姿。
「……キャッチャーミット、持ってんじゃん。貸せや」
「え?」
俺は思わず聞き返した。言ってる意味がわからなかった。
彼女は近づいてくると、ぐいと俺の胸元を指さした。
「アンタ、全然ダメ。フォームなってねーし。腕の振りが甘い」
「いや、誰……?」
「遠野青葉。覚えとけ。ここの……まあ、今はフリーランスみたいなもん」
片眉を吊り上げてニヤッと笑ったその顔に、俺はなぜか息を呑んだ。
名前と笑顔がちぐはぐだった。強がってるようで、どこか無理してるようにも見えた。
「どうせこの投げ続けるんだろ?特別にみてやるよ。そのノーコンを矯正してやっから」
「……え、いや、でも……」
「ほら、早く。夕陽沈むぞ」
強引にミットを取り上げられて、俺は気がつけばグラウンドに立たされていた。
照れくさくて、なんとなく反発したかったのに。
でも、不思議と投げたくなった。
彼女のその目が、俺のど真ん中を見てるような気がしたから。
夕陽が西の空を真っ赤に染めていた。
俺の影と彼女の影が、グラウンドの土の上でにじんでいる。
「じゃ、まず一球、投げてみ」
遠野青葉はそう言ってミットを構えた。
慣れてる――そんな仕草だった。腰を落とし、背筋はまっすぐ。ミットの位置もズレてない。
(……なんなんだ、この人)
どう見てもただの不良にしか見えないその見た目と、プロ顔負けのキャッチングフォームのギャップに、俺は戸惑いながらも肩を回した。
「えっと、じゃあ……いくよ」
「いいから黙って投げろ。癖ついてんの、確認したいだけだから」
言われるがまま、投げた一球。
訳もわからず、彼女目掛けて腕を振りかぶる。
ガシャンッ。
ミットじゃなくて、ミットを持ったままの彼女の横、緑色のフェンスに当たって跳ね返った。
「……うわ、やべ……っ!」
「ほら見ろ、だから言ったじゃん。全ッ然なってねぇっつーの」
青葉は呆れたようにため息をついて、膝をついたままボールを拾いに行った。
「体重が後ろに残りすぎなんだよ。リリースが早すぎて抜けてんの。しかも力任せに腕振ってっから、バランス崩れてんじゃん」
まくし立てるような口調だった。
だけど、なんだろう。
その言葉の一つ一つが、耳じゃなくて胸に刺さってくる。
(……なんでそんなにわかるんだ)
「……野球、やってたの?」
思わず訊いた俺に、彼女は一瞬目を逸らした。
「……ちょっとな。まあ、昔の話。……あんま聞くな」
その声は、さっきまでとは違っていた。どこか、遠くを見るような目。
その瞳の奥に、一瞬だけ見えた――ほんの小さな、寂しさの粒。
だけどすぐに、それはいつもの不敵な笑みに塗り替えられた。
「ほら、立て。次の一球いこうぜ」
青葉はそう言って、またミットを構えた。今度は、少しだけ手前に。
「……お前、指導者でも目指してんの?」
冗談交じりに聞いてみた俺に、青葉は口角を上げて笑った。
「は? あたしが? あるわけねーじゃん。……ただ、ムカついたんだよ」
「……は?」
「ヘッタクソなフォームで毎日投げてるアンタが、なんか腹立ったっていうか」
ふてぶてしいようで、どこか照れ隠しのような口調だった。
「……だったら見なきゃよかったじゃん」
「だーかーら、見ないつもりだったのに、目ぇいっちゃったんだよ。そういうの、わかんねぇかな。アンタ、真面目そうだし」
――真面目そうだし。
その一言に、なぜか胸の奥が熱くなった。
何も知らないくせに、何かを見透かされたような気がして。
(……この人、なんなんだ)
わからない。でも、目が離せなかった。
強引で、乱暴で、どこか無茶苦茶で――だけどその全部に、真っ直ぐな温度があった。
その日、俺は何球も、何球も投げた。
うまくいかなかった。でも、投げるたびに、何かが少しずつ変わっていく気がした。
そして投げ終えた頃には、夕陽は沈みきっていて、グラウンドの土が夜の色に染まりかけていた。
「じゃ、またな」
帰り際、青葉がポケットに手を突っ込んだまま背中越しに言った。
「気が向いたら……また教えてやんよ。とにかくちゃんと勉強しろ?まじで腕壊すかんな?そんな投げ方じゃ」
そう言って歩いていくその背中を、俺はしばらく見つめていた。
それが、遠野青葉との始まりだった。
たった一言で、世界が変わった。
――「キャッチャーミット、貸せや」なんて。
そんな唐突な言葉が、俺の人生を変えるきっかけになるとは、この時には思えなかった。
「そこじゃねえ、もっと内角だっての」
「いや、そっちに投げろって言ったのお前だろ」
「だから修正しろっての。お前、記憶力もノーコンか?」
――そんな感じで、青葉とキャッチボールをする時間が、俺の日常に混ざりはじめた。
最初は週に一度だった。次第に二度になり、気づけば毎日のように、放課後のグラウンドに立っていた。
最初は、彼女の存在が怖かった。
なんせ、街でもちょっとした有名人だったからだ。
「遠野青葉に絡まれると、二度と日が昇らねぇ」とか、誰かが言ってた気がする。
だけど実際の青葉は――なんというか、拍子抜けするほど静かなときも多かった。
ミットを構えて、無言でうなずくだけ。
時々、腕を組んで「はぁ……」とため息をついて、ボールを眺めるだけ。
(何を考えてんだろうな、コイツ)
そう思うことは多かったけど、訊けなかった。
訊いたら、たぶん彼女は黙って帰ってしまいそうで。
それが、やけに怖かった。
「……大牙ってさ、なんでピッチャーになろうと思ったの?」
唐突にそんなことを聞かれたのは、三週間目のある夕暮れだった。
その日もいつも通り、グラウンドのフェンス際でキャッチボールをしていた。風が少し冷たくなってきた時期だった。
「んー……なんつーんだろ。投げるのが好きだった…って感じ?小学校の頃、友達いなくてさ。壁相手にずっと投げてたら、なんか落ち着くんだよね」
「ふぅん。ちょっと、わかるかも」
「え?」
「……あたしも、なんかあると、投げてた。モノを。グラウンドの向こうに。ぶん投げて、なんも考えずにさ」
「それ、野球じゃなくね?」
「アホ。……でも、投げるって気持ちよくね?力が、どっか飛んでく感じ」
夕陽に照らされた青葉の横顔が、不意に穏やかで、俺は言葉に詰まった。
彼女は、変な人だった。
口調は荒いし、態度はデカい。だけど、投げるフォームは綺麗だった。
どこで学んだのか、なんでそこまで詳しいのか――聞くたびに、「さあな」と笑って誤魔化された。
だけど時々、ふと沈黙が落ちたとき。
彼女の目が、何かを見ているようで、どこも見ていないような気がした。
その視線が遠くを向くたびに、俺は胸の奥がきゅっとするような感覚を覚えた。
「……お前って、変だよな」
俺はある日、キャッチボールの最中にそう言ってみた。
「は? いきなり何。殺すぞ?」
「いや、そうじゃなくて。こうやってキャッチボールしてくれてんのに、全然自分のこと喋んないし。どこまでが本気で、どこまでが冗談かもよくわかんねーし」
青葉は一拍、黙ったあと――いつものニヤついた顔で、ボールをぽんと俺に投げ返した。
「……別に。お前が野球うまくなれば、それでいいし」
「へえ。じゃあ、俺がうまくなったらどうすんの?」
「……んー。そしたら……」
少しだけ間を置いて、青葉はフェンスの向こうを見た。
「……そしたら、お前がどっか遠く行っても、少しは役に立ったって思えるじゃん」
そう言って笑った青葉の顔は、夕焼けの中に溶けて、やけに綺麗だった。
――聞き逃したふりをした。
本当はその言葉の中に、何かが混ざっている気がしたけれど。
まだその“何か”を、受け止める勇気が俺にはなかった。
だからその日も、俺たちは黙ってボールを投げ合った。
ぽん。ぱしん。ぽん。ぱしん。
同じリズムで、同じ距離を繰り返す。
けれど投げ合うたびに、少しずつ何かが近づいていく気がしていた。
そして俺は、思うようになった。
青葉の球を、もっと受け取りたいって。
高校は別々になった。
俺はスポーツ推薦で県内屈指の野球強豪校へ。青葉は地元の定時制に進んだ。
あのまま、関係は終わってもおかしくなかったと思う。
だけど、終わらなかった。
「キャッチボール、続けるぞ」
そう言ったのは、進学先が決まった中三の冬だった。
もう部活も引退して、皆が受験だ進路だと騒いでいたころ。
制服の裾から見える膝小僧に絆創膏を貼って、青葉は当たり前みたいに、いつもの公園に立っていた。
毎週水曜と土曜。夜七時。
決まった時間に、グラウンドの隅。変わらないルール。誰にも知られず、誰に誇るでもなく。
その習慣だけが、俺たちの“関係”だった。
青葉は変わらなかった。相変わらず口は悪くて、俺が「疲れた」と言えば「へばんの早すぎ」と返してきた。
でも、ときどき唐突に缶コーヒーを差し出してきたり、「お前、今日スライダー冴えてたな」と褒めてくれたりして――
俺はそれが、すごく嬉しかった。
春になって、虫の声が聞こえる頃。青葉は時々、制服の代わりにジャージで現れるようになった。
「あっつ。学校終わって即来たら汗だくなんだけど」
「たまには休めよ」
「うるせぇ。あたしの趣味なんだよ、これは」
その“趣味”に、何度救われたか。
高校に入ってから、野球はきつかった。
先輩は怖いし、周囲のレベルも違った。正直、何度もやめようと思った。
でも、校舎裏のグラウンドで青葉に会うたびに、あの頃を思い出す。
どんなに投げ方が下手でも、どれだけミットを外しても、彼女は「まだいける」と笑っていた。
(また、あいつに投げてぇ)
それだけで、踏みとどまれた。
冬が過ぎ、新しい夏が来て。
気づけば高校3年になっていた。
球速は140を越え、カーブもスカウトに褒められるようになってきた。
だけど、公園ではあいかわらず「その程度か」と青葉に言われる。
「プロ行っても恥かくぞ、そんなんじゃ」
「だったら、もっと褒めて伸ばせよ」
「うるせーな。ほら、いくよ!」
グラウンドの照明がにじむ夜。
投げ合うたび、俺は思ってた。
(ああ、たぶん俺……この人のこと、好きなんだ)
だけど、言えなかった。
怖かった。青葉がいなくなるのが。今の関係が壊れるのが。
そんな日々が続いて――最後の夏が来た。
甲子園出場。地元新聞にも載った。校内は歓声に包まれ、注目されることに慣れていなかった俺は、気づかないふりでやり過ごしてた。
でも、あいつは……言わなかった。
「おめでとう」も、「やったじゃん」も。
ただ、いつもの時間に、いつものようにミットを持って、グラウンドの端にいた。
それが、嬉しかった。
そしてその夜。
甲子園切符を手にした帰り道、どうしても我慢できなくて、青葉を呼び出した。
いつもの場所じゃなかった。小さな河川敷。
ベンチの灯りが壊れてて、月明かりだけがふたりを照らしていた。
「……なあ、青葉」
「んー? なに? スカウトの連絡か?」
「……違う。そうじゃなくて……」
言葉が出てこなかった。
でも、止められなかった。
「お前と、もっと……なんつーか……一緒にいたいって、思ってて……」
「…………」
「俺、お前が好きだ。ずっと、前から」
沈黙。
風の音すら聞こえない気がした。
青葉は、口を開かずに、俺を見ていた。
それが、数秒なのか、数十秒なのかもわからなかった。
「……マジかよ。……冗談じゃねーぞ」
ようやく出た言葉は、そんなひどい言い方だった。
でも、声が震えていた。
「なんで……お前みたいなやつが、あたしなんかに……バカじゃねぇの」
そう言いながら、青葉はふいに顔を背けた。
「でも、まあ……お前が言うなら……しょうがねーか」
俺は、言葉が出なかった。
ただ、その横顔を見つめてた。
河川敷に、虫の声がかすかに響いていた。
月が、少しだけ眩しかった。
付き合い始めた、と言っても、何かが大きく変わったわけじゃなかった。
相変わらず、週に二回のキャッチボール。
やりとりも、これまで通り。
「お前、また食い過ぎたろ」「気合いが足んねーんだよ、気合いが」
ただ一つ違ったのは、その合間に、ほんの少し――触れる時間が増えたことだ。
試合のあと、手を握ってくる青葉の手が妙に冷たかったり。
投げ終えたあと、ミット越しに見せる笑顔が、少しだけ長く続いたり。
「……やっぱ、付き合うって、めんどくさいな」
「なんだよ、いきなり」
「言わなきゃいけないことが、ちょっとずつ増えてく感じがすんの。なんか、疲れんの」
そう言って笑う青葉は、どこか遠くを見ているようだった。
「でもまあ……後悔しないように、とは思うけど」
「後悔って、なにを?」
「さあ? なんだろうね」
問いは、煙のように流されていった。
それでも俺は、その笑顔の奥に、どこか切なさを感じていた。
──そして、夏が来た。
甲子園。
照りつける太陽。歓声。どよめき。テレビカメラ。
あのとき、マウンドに立った俺は、どこかで“青葉に見せたい”と思っていた。
終わってからの電話。
「お疲れ」
「お前、テレビ映ってたぞ。全然かっこよくなかった」
「はいはい、どうもどうも」
少しだけ、声が弱っているように聞こえた。
「……なあ、最近元気ねーけど、なんかあった?」
「……べつに。ちょっと体調崩しただけ。たいしたことない」
でも、そのあとすぐ、
「さ、次はプロだろ? そっち集中しなよ」
と、話を切られた。
その日から、青葉とのキャッチボールは減っていった。
「学校、ちょっと休みがちでさ」
「バイト増えたから、夜がなかなか……」
理由はいろいろあったけど、それが全部“本当”じゃないことくらい、なんとなく分かってた。
それでも俺は、信じてた。
青葉が、きっとまたあの場所に来てくれるって。
──でも、ある夜。
彼女は言った。
「なあ、もしさ――人って、時間が限られてるって分かったら、何したい?」
「いきなりどうした」
「答えろよ、真面目に」
俺はちょっと考えて、答えた。
「たぶん……やり残したこと、全部やる。人に会って、謝ることがあれば謝って、伝えたいことがあれば伝える」
青葉は、ふっと息を吐いて、空を見上げた。
「そっか……」
「お前は?」
彼女は、何も言わなかった。
それが、たぶん“答え”だった。
月のない夜。
風の音だけが、ボールの代わりに、俺の胸を打っていた。
風が少し冷たくなった頃、キャッチボールの球数は増え、距離は自然と縮まっていた。
最初は五メートルくらい離れていた二人の間は、気づけば手を伸ばせば届きそうなほどに。
言葉はそれほど多くない。
でも、沈黙が気まずくない。それが不思議だった。
「…今日は、なんか投げ方が優しいな」
俺がそう言うと、青葉はちょっとだけ照れたように笑った。
「…そうか?…まあ、なんとなく力が入らない日ってあるでしょ。そういう感じ」
それは単なる体調の話として聞き流せる言葉だった。でも、どこか心にひっかかった。
その日、彼女は少し痩せたように見えた。いつもと同じこなれたジャージ姿。変わり映えのない見た目のはずなのに、どこか違って見えた。
「そういや最近、時々来ない時があるけど…なんかあった?」
そう問いかけると、青葉は視線を外し、ほんの少しだけ間を置いた。
「ちょっとね、家が騒がしいだけ。親が、いろいろ心配性でさ」
その言い方には、いつもの皮肉っぽい軽さがあった。でもそれは、どこか“作られた平気さ”にも聞こえた。
「そういうときは、ここに逃げてくるのが一番なんだよ」
彼女はそう言いながら、少し強めにボールを投げてきた。
風に乗ってその球はふわりと浮き、まるで時間が止まったようにゆっくり俺のグローブに収まる。
「ここにいると、ちょっとだけ子どもに戻れる気がするんだ。小さい頃みたいに、何も考えずに遊んでさ」
何も考えずに——。
でも、その言葉の奥に、“何かを考えないようにしている”気配があった。
「あのさ、また土曜もここ来る? 俺、おにぎり作ってくるわ」
「…おにぎり? マジで? 梅干しとツナマヨ入れてくれたら神」
そんな軽口を交わしていると、彼女の顔にほんの一瞬、子どものような無邪気さが戻る。
けれどその笑顔は、少しだけ儚くて、どこか遠くを見ているようでもあった。
その日を境に、青葉はときどき来れない日が増えた。
「用事」とか「家の手伝い」とか、メッセージは届くけれど、何かが変わりつつあるのを俺は感じていた。
その冬、雪が降る直前の冷たい雨の日、青葉はキャッチボールをしに来なかった。
スマホには短いメッセージが届いていた。
《ごめん、ちょっとだけ休む》
それだけ。
何が「ちょっと」なのかは書かれていなかった。
俺は何度も画面を見返しては、意味もなく「了解」とだけ返した。
その日から、青葉に会えない日が続いた。
でも、不思議と「終わった」とは思わなかった。
彼女はきっと、またあの公園にふらりと現れる。そう思っていた。
やがて年が明けたある日、久しぶりに彼女から連絡がきた。
《会いに行っていい? ちょっと歩きたい気分》
もちろんだよ、即座に返した。
あのときの青葉は、風景の一部のように静かだった。
髪は少し短くなり、顔色はいつもより白かった。
でも、笑っていた。まるで何もなかったみたいに。
「ねぇ、ちょっとだけ遠くまで歩かない?」
彼女はそう言って、街の公園の外れの遊歩道に足を向けた。
冷たい風にコートの裾が舞い、肩がふるえているように見えた。
俺は何も言わず、歩調を合わせた。
「最近、夜が長く感じるんだ。前よりも、朝が来るのが遅くて」
「冬だからな」
「うん。でも、春ってちゃんと来るかな。あたしのとこにも」
その言葉に、俺は返す言葉が見つからなかった。
たぶん彼女は、ただ季節の話をしているんじゃない。
でも、それを深く追うのは、違う気がした。
沈黙のまま歩いていると、ふいに青葉が立ち止まった。
「ねぇ、もしさ、あたしがいなくなったら……」
俺は振り向き、彼女を見た。
「……あたしのこと、忘れてくれる?」
その目は、笑っていた。
けれど、その笑顔が悲しすぎて、俺はその場で言葉を失った。
「…急に何言ってんだよ。忘れられる訳ないだろ」
思わずそう言っていた。
感情が喉の奥でつかえていた。
青葉はふっと目を伏せて、足元の石を蹴った。
「そっか。……それなら、もうちょっとだけ、頑張ってみようかな」
その言葉が、どこか決意のようにも聞こえた。
そしてそれは、たぶん“最後の約束”のようでもあった。
春は、まだ少し遠かった。
でも、彼女はその先を見ようとしていた。
俺は、ただその隣にいたかった。
その夜、帰り道で初めて、青葉の手を握った。
冷たくて、細くて、でもちゃんと力があった。
「……あたしね、言いたいこと、ちゃんとあるんだ。でも、もうちょっとだけ待ってて」
「ああ」
「そのときまで、ここ、空けといてね」
俺は頷いた。心から、そう思った。