表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/6

プロローグ



挿絵(By みてみん)




——初めて見たとき、思わず言葉を飲んだ。

センター分けの重たい前髪に、毛先のピンクがふわりと揺れる。

白いシャツは胸元が大胆に開いていて、緩く巻いたチェックのシャツが腰で揺れてる。

でも、どこか虚ろだった。強気なはずの瞳に、何かを見失ったような影が宿っていた。


夕方の校舎裏。

グラウンドに響いていた硬球の音も、遠ざかる蝉の鳴き声も、彼女の登場で急にフェードアウトしたみたいだった。


「おい、そこの坊主」


低く、かすれた声がした。

目をやると、彼女が俺を睨んでいた。ポケットに手を突っ込んで、脚を肩幅に開いて、まるで喧嘩を売るかのような立ち姿。


「……キャッチャーミット、持ってんじゃん。貸せや」


「え?」


俺は思わず聞き返した。言ってる意味がわからなかった。

彼女は近づいてくると、ぐいと俺の胸元を指さした。


「アンタ、全然ダメ。フォームなってねーし。腕の振りが甘い」


「いや、誰……?」


「遠野青葉。覚えとけ。ここの……まあ、今はフリーランスみたいなもん」


片眉を吊り上げてニヤッと笑ったその顔に、俺はなぜか息を呑んだ。

名前と笑顔がちぐはぐだった。強がってるようで、どこか無理してるようにも見えた。


「どうせこの投げ続けるんだろ?特別にみてやるよ。そのノーコンを矯正してやっから」


「……え、いや、でも……」


「ほら、早く。夕陽沈むぞ」


強引にミットを取り上げられて、俺は気がつけばグラウンドに立たされていた。

照れくさくて、なんとなく反発したかったのに。

でも、不思議と投げたくなった。

彼女のその目が、俺のど真ん中を見てるような気がしたから。



夕陽が西の空を真っ赤に染めていた。

俺の影と彼女の影が、グラウンドの土の上でにじんでいる。


「じゃ、まず一球、投げてみ」


遠野青葉はそう言ってミットを構えた。

慣れてる――そんな仕草だった。腰を落とし、背筋はまっすぐ。ミットの位置もズレてない。


(……なんなんだ、この人)


どう見てもただの不良にしか見えないその見た目と、プロ顔負けのキャッチングフォームのギャップに、俺は戸惑いながらも肩を回した。


「えっと、じゃあ……いくよ」


「いいから黙って投げろ。癖ついてんの、確認したいだけだから」


言われるがまま、投げた一球。

訳もわからず、彼女目掛けて腕を振りかぶる。



ガシャンッ。



ミットじゃなくて、ミットを持ったままの彼女の横、緑色のフェンスに当たって跳ね返った。


「……うわ、やべ……っ!」


「ほら見ろ、だから言ったじゃん。全ッ然なってねぇっつーの」


青葉は呆れたようにため息をついて、膝をついたままボールを拾いに行った。


「体重が後ろに残りすぎなんだよ。リリースが早すぎて抜けてんの。しかも力任せに腕振ってっから、バランス崩れてんじゃん」


まくし立てるような口調だった。


だけど、なんだろう。


その言葉の一つ一つが、耳じゃなくて胸に刺さってくる。


(……なんでそんなにわかるんだ)


「……野球、やってたの?」


思わず訊いた俺に、彼女は一瞬目を逸らした。


「……ちょっとな。まあ、昔の話。……あんま聞くな」


その声は、さっきまでとは違っていた。どこか、遠くを見るような目。

その瞳の奥に、一瞬だけ見えた――ほんの小さな、寂しさの粒。


だけどすぐに、それはいつもの不敵な笑みに塗り替えられた。


「ほら、立て。次の一球いこうぜ」


青葉はそう言って、またミットを構えた。今度は、少しだけ手前に。


「……お前、指導者でも目指してんの?」


冗談交じりに聞いてみた俺に、青葉は口角を上げて笑った。


「は? あたしが? あるわけねーじゃん。……ただ、ムカついたんだよ」


「……は?」


「ヘッタクソなフォームで毎日投げてるアンタが、なんか腹立ったっていうか」


ふてぶてしいようで、どこか照れ隠しのような口調だった。


「……だったら見なきゃよかったじゃん」


「だーかーら、見ないつもりだったのに、目ぇいっちゃったんだよ。そういうの、わかんねぇかな。アンタ、真面目そうだし」


――真面目そうだし。

その一言に、なぜか胸の奥が熱くなった。


何も知らないくせに、何かを見透かされたような気がして。


(……この人、なんなんだ)


わからない。でも、目が離せなかった。


強引で、乱暴で、どこか無茶苦茶で――だけどその全部に、真っ直ぐな温度があった。


その日、俺は何球も、何球も投げた。

うまくいかなかった。でも、投げるたびに、何かが少しずつ変わっていく気がした。


そして投げ終えた頃には、夕陽は沈みきっていて、グラウンドの土が夜の色に染まりかけていた。


「じゃ、またな」


帰り際、青葉がポケットに手を突っ込んだまま背中越しに言った。


「気が向いたら……また教えてやんよ。とにかくちゃんと勉強しろ?まじで腕壊すかんな?そんな投げ方じゃ」


そう言って歩いていくその背中を、俺はしばらく見つめていた。


それが、遠野青葉との始まりだった。


たった一言で、世界が変わった。


――「キャッチャーミット、貸せや」なんて。


そんな唐突な言葉が、俺の人生を変えるきっかけになるとは、この時には思えなかった。




「そこじゃねえ、もっと内角だっての」


「いや、そっちに投げろって言ったのお前だろ」


「だから修正しろっての。お前、記憶力もノーコンか?」


――そんな感じで、青葉とキャッチボールをする時間が、俺の日常に混ざりはじめた。


最初は週に一度だった。次第に二度になり、気づけば毎日のように、放課後のグラウンドに立っていた。


最初は、彼女の存在が怖かった。


なんせ、街でもちょっとした有名人だったからだ。

「遠野青葉に絡まれると、二度と日が昇らねぇ」とか、誰かが言ってた気がする。


だけど実際の青葉は――なんというか、拍子抜けするほど静かなときも多かった。


ミットを構えて、無言でうなずくだけ。

時々、腕を組んで「はぁ……」とため息をついて、ボールを眺めるだけ。


(何を考えてんだろうな、コイツ)


そう思うことは多かったけど、訊けなかった。


訊いたら、たぶん彼女は黙って帰ってしまいそうで。

それが、やけに怖かった。


「……大牙ってさ、なんでピッチャーになろうと思ったの?」


唐突にそんなことを聞かれたのは、三週間目のある夕暮れだった。


その日もいつも通り、グラウンドのフェンス際でキャッチボールをしていた。風が少し冷たくなってきた時期だった。


「んー……なんつーんだろ。投げるのが好きだった…って感じ?小学校の頃、友達いなくてさ。壁相手にずっと投げてたら、なんか落ち着くんだよね」


「ふぅん。ちょっと、わかるかも」


「え?」


「……あたしも、なんかあると、投げてた。モノを。グラウンドの向こうに。ぶん投げて、なんも考えずにさ」


「それ、野球じゃなくね?」


「アホ。……でも、投げるって気持ちよくね?力が、どっか飛んでく感じ」


夕陽に照らされた青葉の横顔が、不意に穏やかで、俺は言葉に詰まった。


彼女は、変な人だった。

口調は荒いし、態度はデカい。だけど、投げるフォームは綺麗だった。

どこで学んだのか、なんでそこまで詳しいのか――聞くたびに、「さあな」と笑って誤魔化された。


だけど時々、ふと沈黙が落ちたとき。

彼女の目が、何かを見ているようで、どこも見ていないような気がした。


その視線が遠くを向くたびに、俺は胸の奥がきゅっとするような感覚を覚えた。


「……お前って、変だよな」


俺はある日、キャッチボールの最中にそう言ってみた。


「は? いきなり何。殺すぞ?」


「いや、そうじゃなくて。こうやってキャッチボールしてくれてんのに、全然自分のこと喋んないし。どこまでが本気で、どこまでが冗談かもよくわかんねーし」


青葉は一拍、黙ったあと――いつものニヤついた顔で、ボールをぽんと俺に投げ返した。


「……別に。お前が野球うまくなれば、それでいいし」


「へえ。じゃあ、俺がうまくなったらどうすんの?」


「……んー。そしたら……」


少しだけ間を置いて、青葉はフェンスの向こうを見た。


「……そしたら、お前がどっか遠く行っても、少しは役に立ったって思えるじゃん」


そう言って笑った青葉の顔は、夕焼けの中に溶けて、やけに綺麗だった。


――聞き逃したふりをした。

本当はその言葉の中に、何かが混ざっている気がしたけれど。


まだその“何か”を、受け止める勇気が俺にはなかった。


だからその日も、俺たちは黙ってボールを投げ合った。

ぽん。ぱしん。ぽん。ぱしん。


同じリズムで、同じ距離を繰り返す。

けれど投げ合うたびに、少しずつ何かが近づいていく気がしていた。


そして俺は、思うようになった。


青葉の球を、もっと受け取りたいって。




高校は別々になった。


俺はスポーツ推薦で県内屈指の野球強豪校へ。青葉は地元の定時制に進んだ。

あのまま、関係は終わってもおかしくなかったと思う。


だけど、終わらなかった。


「キャッチボール、続けるぞ」


そう言ったのは、進学先が決まった中三の冬だった。


もう部活も引退して、皆が受験だ進路だと騒いでいたころ。

制服の裾から見える膝小僧に絆創膏を貼って、青葉は当たり前みたいに、いつもの公園に立っていた。


毎週水曜と土曜。夜七時。

決まった時間に、グラウンドの隅。変わらないルール。誰にも知られず、誰に誇るでもなく。

その習慣だけが、俺たちの“関係”だった。


青葉は変わらなかった。相変わらず口は悪くて、俺が「疲れた」と言えば「へばんの早すぎ」と返してきた。


でも、ときどき唐突に缶コーヒーを差し出してきたり、「お前、今日スライダー冴えてたな」と褒めてくれたりして――


俺はそれが、すごく嬉しかった。


春になって、虫の声が聞こえる頃。青葉は時々、制服の代わりにジャージで現れるようになった。


「あっつ。学校終わって即来たら汗だくなんだけど」


「たまには休めよ」


「うるせぇ。あたしの趣味なんだよ、これは」


その“趣味”に、何度救われたか。


高校に入ってから、野球はきつかった。

先輩は怖いし、周囲のレベルも違った。正直、何度もやめようと思った。

でも、校舎裏のグラウンドで青葉に会うたびに、あの頃を思い出す。

どんなに投げ方が下手でも、どれだけミットを外しても、彼女は「まだいける」と笑っていた。


(また、あいつに投げてぇ)


それだけで、踏みとどまれた。


冬が過ぎ、新しい夏が来て。

気づけば高校3年になっていた。


球速は140を越え、カーブもスカウトに褒められるようになってきた。

だけど、公園ではあいかわらず「その程度か」と青葉に言われる。


「プロ行っても恥かくぞ、そんなんじゃ」


「だったら、もっと褒めて伸ばせよ」


「うるせーな。ほら、いくよ!」


グラウンドの照明がにじむ夜。

投げ合うたび、俺は思ってた。


(ああ、たぶん俺……この人のこと、好きなんだ)


だけど、言えなかった。

怖かった。青葉がいなくなるのが。今の関係が壊れるのが。


そんな日々が続いて――最後の夏が来た。


甲子園出場。地元新聞にも載った。校内は歓声に包まれ、注目されることに慣れていなかった俺は、気づかないふりでやり過ごしてた。


でも、あいつは……言わなかった。

「おめでとう」も、「やったじゃん」も。

ただ、いつもの時間に、いつものようにミットを持って、グラウンドの端にいた。


それが、嬉しかった。


そしてその夜。

甲子園切符を手にした帰り道、どうしても我慢できなくて、青葉を呼び出した。


いつもの場所じゃなかった。小さな河川敷。

ベンチの灯りが壊れてて、月明かりだけがふたりを照らしていた。


「……なあ、青葉」


「んー? なに? スカウトの連絡か?」


「……違う。そうじゃなくて……」


言葉が出てこなかった。

でも、止められなかった。


「お前と、もっと……なんつーか……一緒にいたいって、思ってて……」


「…………」


「俺、お前が好きだ。ずっと、前から」


沈黙。

風の音すら聞こえない気がした。


青葉は、口を開かずに、俺を見ていた。

それが、数秒なのか、数十秒なのかもわからなかった。


「……マジかよ。……冗談じゃねーぞ」


ようやく出た言葉は、そんなひどい言い方だった。

でも、声が震えていた。


「なんで……お前みたいなやつが、あたしなんかに……バカじゃねぇの」


そう言いながら、青葉はふいに顔を背けた。


「でも、まあ……お前が言うなら……しょうがねーか」


俺は、言葉が出なかった。

ただ、その横顔を見つめてた。


河川敷に、虫の声がかすかに響いていた。


月が、少しだけ眩しかった。




付き合い始めた、と言っても、何かが大きく変わったわけじゃなかった。


相変わらず、週に二回のキャッチボール。

やりとりも、これまで通り。

「お前、また食い過ぎたろ」「気合いが足んねーんだよ、気合いが」


ただ一つ違ったのは、その合間に、ほんの少し――触れる時間が増えたことだ。


試合のあと、手を握ってくる青葉の手が妙に冷たかったり。

投げ終えたあと、ミット越しに見せる笑顔が、少しだけ長く続いたり。


「……やっぱ、付き合うって、めんどくさいな」


「なんだよ、いきなり」


「言わなきゃいけないことが、ちょっとずつ増えてく感じがすんの。なんか、疲れんの」


そう言って笑う青葉は、どこか遠くを見ているようだった。


「でもまあ……後悔しないように、とは思うけど」


「後悔って、なにを?」


「さあ? なんだろうね」


問いは、煙のように流されていった。

それでも俺は、その笑顔の奥に、どこか切なさを感じていた。


──そして、夏が来た。


甲子園。

照りつける太陽。歓声。どよめき。テレビカメラ。


あのとき、マウンドに立った俺は、どこかで“青葉に見せたい”と思っていた。


終わってからの電話。


「お疲れ」


「お前、テレビ映ってたぞ。全然かっこよくなかった」


「はいはい、どうもどうも」


少しだけ、声が弱っているように聞こえた。


「……なあ、最近元気ねーけど、なんかあった?」


「……べつに。ちょっと体調崩しただけ。たいしたことない」


でも、そのあとすぐ、


「さ、次はプロだろ? そっち集中しなよ」


と、話を切られた。


その日から、青葉とのキャッチボールは減っていった。


「学校、ちょっと休みがちでさ」


「バイト増えたから、夜がなかなか……」


理由はいろいろあったけど、それが全部“本当”じゃないことくらい、なんとなく分かってた。


それでも俺は、信じてた。


青葉が、きっとまたあの場所に来てくれるって。



──でも、ある夜。

彼女は言った。


「なあ、もしさ――人って、時間が限られてるって分かったら、何したい?」


「いきなりどうした」


「答えろよ、真面目に」


俺はちょっと考えて、答えた。


「たぶん……やり残したこと、全部やる。人に会って、謝ることがあれば謝って、伝えたいことがあれば伝える」


青葉は、ふっと息を吐いて、空を見上げた。


「そっか……」


「お前は?」


彼女は、何も言わなかった。


それが、たぶん“答え”だった。


月のない夜。

風の音だけが、ボールの代わりに、俺の胸を打っていた。




風が少し冷たくなった頃、キャッチボールの球数は増え、距離は自然と縮まっていた。

最初は五メートルくらい離れていた二人の間は、気づけば手を伸ばせば届きそうなほどに。

言葉はそれほど多くない。

でも、沈黙が気まずくない。それが不思議だった。


「…今日は、なんか投げ方が優しいな」


俺がそう言うと、青葉はちょっとだけ照れたように笑った。


「…そうか?…まあ、なんとなく力が入らない日ってあるでしょ。そういう感じ」


それは単なる体調の話として聞き流せる言葉だった。でも、どこか心にひっかかった。


その日、彼女は少し痩せたように見えた。いつもと同じこなれたジャージ姿。変わり映えのない見た目のはずなのに、どこか違って見えた。


「そういや最近、時々来ない時があるけど…なんかあった?」


そう問いかけると、青葉は視線を外し、ほんの少しだけ間を置いた。


「ちょっとね、家が騒がしいだけ。親が、いろいろ心配性でさ」


その言い方には、いつもの皮肉っぽい軽さがあった。でもそれは、どこか“作られた平気さ”にも聞こえた。


「そういうときは、ここに逃げてくるのが一番なんだよ」


彼女はそう言いながら、少し強めにボールを投げてきた。

風に乗ってその球はふわりと浮き、まるで時間が止まったようにゆっくり俺のグローブに収まる。


「ここにいると、ちょっとだけ子どもに戻れる気がするんだ。小さい頃みたいに、何も考えずに遊んでさ」


何も考えずに——。

でも、その言葉の奥に、“何かを考えないようにしている”気配があった。


「あのさ、また土曜もここ来る? 俺、おにぎり作ってくるわ」


「…おにぎり? マジで? 梅干しとツナマヨ入れてくれたら神」


そんな軽口を交わしていると、彼女の顔にほんの一瞬、子どものような無邪気さが戻る。


けれどその笑顔は、少しだけ儚くて、どこか遠くを見ているようでもあった。


その日を境に、青葉はときどき来れない日が増えた。

「用事」とか「家の手伝い」とか、メッセージは届くけれど、何かが変わりつつあるのを俺は感じていた。



その冬、雪が降る直前の冷たい雨の日、青葉はキャッチボールをしに来なかった。


スマホには短いメッセージが届いていた。

《ごめん、ちょっとだけ休む》

それだけ。


何が「ちょっと」なのかは書かれていなかった。

俺は何度も画面を見返しては、意味もなく「了解」とだけ返した。


その日から、青葉に会えない日が続いた。

でも、不思議と「終わった」とは思わなかった。

彼女はきっと、またあの公園にふらりと現れる。そう思っていた。


やがて年が明けたある日、久しぶりに彼女から連絡がきた。

《会いに行っていい? ちょっと歩きたい気分》

もちろんだよ、即座に返した。


あのときの青葉は、風景の一部のように静かだった。

髪は少し短くなり、顔色はいつもより白かった。

でも、笑っていた。まるで何もなかったみたいに。


「ねぇ、ちょっとだけ遠くまで歩かない?」


彼女はそう言って、街の公園の外れの遊歩道に足を向けた。

冷たい風にコートの裾が舞い、肩がふるえているように見えた。

俺は何も言わず、歩調を合わせた。


「最近、夜が長く感じるんだ。前よりも、朝が来るのが遅くて」


「冬だからな」


「うん。でも、春ってちゃんと来るかな。あたしのとこにも」


その言葉に、俺は返す言葉が見つからなかった。

たぶん彼女は、ただ季節の話をしているんじゃない。

でも、それを深く追うのは、違う気がした。


沈黙のまま歩いていると、ふいに青葉が立ち止まった。


「ねぇ、もしさ、あたしがいなくなったら……」


俺は振り向き、彼女を見た。


「……あたしのこと、忘れてくれる?」


その目は、笑っていた。

けれど、その笑顔が悲しすぎて、俺はその場で言葉を失った。


「…急に何言ってんだよ。忘れられる訳ないだろ」


思わずそう言っていた。

感情が喉の奥でつかえていた。


青葉はふっと目を伏せて、足元の石を蹴った。


「そっか。……それなら、もうちょっとだけ、頑張ってみようかな」


その言葉が、どこか決意のようにも聞こえた。

そしてそれは、たぶん“最後の約束”のようでもあった。


春は、まだ少し遠かった。

でも、彼女はその先を見ようとしていた。

俺は、ただその隣にいたかった。


その夜、帰り道で初めて、青葉の手を握った。

冷たくて、細くて、でもちゃんと力があった。


「……あたしね、言いたいこと、ちゃんとあるんだ。でも、もうちょっとだけ待ってて」


「ああ」


「そのときまで、ここ、空けといてね」


俺は頷いた。心から、そう思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ