眠るきみのもとへ
僕は馬で街を、野山を、駆けた。王都を出て、領境をいくつも越える。直線で考えてもドルッシオ伯爵領まで、規模は違えど六つは領地があるものだから、一朝一夕で辿り着ける距離ではなかった。
転送門を利用出来れば距離なんてないようなもののはずだったが、婚約を解消し関係性が遠くなった今、利用を申請したところで許可証が発行されるまでの時間を考えると、じっと待つだけというのは堪え難かったのだ。ほんの数年前には高位貴族であれば自由に通行出来ていたというのに、規制されるきっかけとなった悪用した馬鹿を恨む。それでも寝込むより先に手続きをしていれば今頃は許可が下りていたのだから、自分の落ち度であることは間違いなく、これは現実逃避の逆恨みだ。
馬を乗り継いで乗り継いで、一人の供とともに昼夜なく駆け続ける。
ようやく、……ようやく伯爵家からの返事が届いたのだ。
僕からの手紙は託したメイドの手によって、郵便舎から手紙鳥で出していた。鳥になって飛んでいくため普通郵便より転送門を使うよりも速く届いているはずで、それなのに音沙汰がないのはバタバタしているからか、もしかすると、もう返事など返ってくることはないのではないか……と考え始めていたところだった。
――メリッサは領地で眠っている。放っておいてほしい――
普通郵便で届いた返事。メリッサに関する直近の噂は事実なのかと、直接問いかけた手紙への。
ただ簡素に、殴り書きのような文章だった。もしくは複雑な感情を堪えながら書いたものだったのかもしれない。僕に対して思うところは、当然あるはずだと理解している。
何にせよ、それは僕のもとへと届いた。
メリッサはドルッシオ領にいること、僕は歓迎されないことがわかり、それでも僕は行かずにはいられないことも自覚した。
訪問の許可を請う手紙を再び手紙鳥で飛ばし、間を置かずに自らも出発した。転送門を使うようにと、体力の落ちているところに身体に鞭打つようなことは反対だと、両親にも使用人たちにも止められたけど、振り切って飛び出した。
「このような姿で申し訳ありません」
伯爵家の邸宅に辿り着いた時には、曲者か押し売りかと門前払いされかける様相。馬は何度となく乗り換えたものの、僕自身は薄汚れ、さすがにこのままではと宿を取り湯を浴びて取り急ぎ用意した服に着替えはしたが、連れた供は無骨な護衛だったために身だしなみは本当に最低限といったところだった。
持ち物から、そして顔見知りの使用人がいたことで、不審がられながらも身元が確認されたとはいえ、そのまま当主、つまりはメリッサの父親との対面を果たすことが出来たのは運がよかったと言える。
「お越しは不要と、便りを出させていただいたはずですが」
「その後訪問したい旨を……いや、そちらへの返事のことでしょうか、だとすれば届く前に出てきてしまったもので」
応接間へと通された僕は、正面に立って迎えた伯爵の、ひさしぶりに顔を合わせたその憔悴した様子に息が詰まる。
闊達とした人だった。領地が長く安定していたところ、積極的に様々な施策を行っては時に失敗しつつも、他領とも盛んに交流しては試行錯誤を重ねて、領民に支えられているからには一層の還元をしたいのだと語っていた。
それが今では実年齢よりもずっと老け込んで見えた。姿の見えない夫人も、聞けば倒れて寝室から出てこられない状態だという。無理もないのだろう、愛する一人娘が、親より先に儚くなったのだから。
「君は、娘に会いたい、と」
静かで、低く響く声。
僕はまっすぐ向けられた眼差しを受け止める。
「葬儀が済んでいるにせよ、まだにせよ、許されるなら最後に会わせていただきたい」
墓の下なら墓標に祈りを、まだなら別れを告げたいと願う。それが、二度目の手紙に記していたこと。
「最後、ということは、君にとってはすべて終わった話なのだな」
「……そんなつもりでは、」
吐息とともに吐き出されたのは、ため息よりもずっと重い言葉。僕は何を返すことも出来ない。
お互いに立ち尽くしたまま、沈黙が落ちる。
過去、沈黙なんて気にしたこともなかった。幼い頃からもう一人の父親として接してきたものだから、何を気兼ねするような関係でもなかったのだ。
しかし今は、沈黙が肌を刺すかのように感じられた。
「…………、」
続ける言葉を失って、唇はただ空気を食む。
伯爵の、痩せた身体に反し鋭利なほどに強い眼光に射すくめられる。
今更、と思われているのだろう。
婚約を解消したとはいえ、幼なじみとしても顔を見せなかった。それは会っていることが目撃でもされればまた噂になってしまう、会わないことで世間のほとぼりが冷めればと、そうすればいずれ会って話が出来るだろうと、……僕なりに考えてのことだった。
しかしそんなことは伯爵にしてみれば知ったことではない。メリッサ本人にさえ、言葉にして伝えたわけでもないのに。
本当に今更だと、自分で思う。
いずれ、なんて日はもう来ない。勝手に想像していた不確かな未来は消え去った。
きちんと話を聞けばよかった。理由もなく他者を害したり裏切るような子ではないと誰より知っていたのに。彼女が変わってしまった、話そうとしなかったから、そんなものは言い訳でしかない。どうせ泣かせるのなら、無理矢理にでも問い詰めればよかった。
「……僕は、メリッサの最期を知らなければならないと、その義務があるのではないかと、思います」
過去は取り返せない。わかっている。
それでも、だからこそ、何か大事なことを見落としているのではないかと、焦燥感が腹の底を焦がすような心地がどうにも止まず、突き動かされてここまで来た。