戸惑う日々、「涅槃」にて
♠♠夏のホラー2018提出予定作品(#1-2)です。ホラー自体私の守備範囲ではないのですが、精一杯書きました。構想半月、創作六日の苦労作です。
初日:八月十七日(木)十五時十分、快晴
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私はもう一時間近くも高温注意情報が出ている白茶けた街を歩いている。片側二車線で両側に五階建て以上の高いビルがほとんどない街路、エアコンの恩恵を受けて窓を閉め切った自動車が数珠繋ぎになり、不快な熱い排気ガスを吹き付けて通り過ぎて行く。
その上、JRの駅を出た直後は街路の南側の歩道を選んでいたのだが、渦巻き状という、東京が江戸と呼ばれていた時代の都市計画のせいで、いつの間にか街路の北側を歩かされており、禍々しい日光が左側頭を、左半身を射すくめて来る。
私が仕事でもないのに木曜日午後の日差しに焼かれているのは、昨日の夕方に大学の二期先輩でもある社長が、私のデスク前へやって来て「このふた月は土・日も毎日のように出勤しているじゃないか、仕事のし過ぎだ、たまには休め。そうだな明日・明後日と休んで四連休にして旅行でもしてこい。副社長である君が休まないと若い連中が気易くは休めないだろう。かりに若手が過労死や過労自殺などしたら、労務担当である君の立場がなくなるぞ。いいか、明日から四日間は出社に及ばずだ。」と無理やり木・金曜日を休暇扱いにされてしまったからだ。
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私は共同出資者で役員なのだから本来出退勤は自由なのだが、総務課や経理課といった内部管理部門も担当範囲にあることから、ほぼ毎日出社している。
月末などは部下達と同様に残業もするし、その後の「一杯」も「呑み直し」も「〆め」さえも厭わず付き合う。
一方、営業が主担当の社長は少なくとも週に三~四日は昼食後に行き先も告げずに一人で外出し、夕方に帰社すれば良い方で、電話を架けて来て「直帰するから、後片付けは宜しく。」のようなことが日常である。
未だに独身の彼の嗜好や行動パターンは二十年も前から知っているので、おそらく「女」、しかも複数を並行処理しているのだと思うのだが、そんなことはおくびにも出さない。
日頃彼が社内にいないものだから、社員達は私を代表者の如く敬い、指示に従っているのである。それが四日も連続して不在にしたら、社長自身が困ると思うのだが、一応は上司の命令だから、大人しく従った訳だ。
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旅行をしろなどと独身の社長は気楽に言うが、夏真っ盛りのトップシーズンはどこでも混んでおり、昨日の今日で宿や交通手段が簡単に確保できるはずはないし、一緒に行く筈の三歳下の看護師である連れ合いは、一人息子の手を引き、一年半前に出て行ったきりだ。多分実家に戻ったのだろうが、連絡も来ないし、追いかける気にもならない。
そうかといって独り暮らしの身には広すぎるマンションに四日も籠っていては気が滅入りそうなので、今日は久し振りにゆっくりと朝寝をして、昼過ぎから大学時代に毎日のように通った、場末の繁華街周辺をトボトボと歩いているという寸法だ。
最初の目的は、夏用の帽子~できれば淡色のギャバジーンかストロー~を買うことで、先程のJR駅と目と鼻の先にある、昔よく通った洋品店を目指して行ったのだが、先代の孫だという私より歳下の店主に代替わりしていて、置いてある品々が妙に若向きになっていた。結局、眺めるだけだったが、何も買わないわけにもいかないので、フェイスタオルを一枚だけ購ったのだ。
これから、こんな暑い日にもっと大きな繁華街へ出て、人混みに紛れながら歳相応の帽子を探そうなどという気にはとてもなれない。そうなると四十歳近い、しかも仕事中毒人間が平日の昼日中にやることなど簡単には思い付かないものだ。
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行く当てもなく歩き続けていると時折、交差点で赤信号に停められてしまう。ほとんど無風で遮る物がない場所で、まるで悪戯した子供への罰のように立たされて、シリジリと焼かれていると、無性に腹が立ってきた。そうはいっても誰に苦情を言えるものでもないので、肩にかけたキプリングの黒バッグ~連れ合いからの数少ないプレゼントの一つ~を開け、買ったばかりで、まだタグが付いているフェンディのフェイスタオルを取り出して、額と首筋の汗を拭く。
思わず「そろそろ限界だ。」そう呟いてから四囲を見回して、取りあえずの避難場所を探す。交差点を渡った先にある、淡黄色で三階建ての雑居ビルの左角から三つ目の路面店が喫茶店のようだ。今時、エアコン未設置なんて店はそう無いから、多分大丈夫だと思うが、ドアを開けて冷気が漏れてこなかったらその場で踵を返すことにして、やっと青信号になった横断歩道を渡った先のビルの角~そこは花屋の店先~を曲がり、二軒隣の店のドアへ斜めに近付いて行く。置き看板には濃緑色に薄いベージュで「占い喫茶 ニルヴァーナ」と書いてある。
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私は占いに全く興味がない、というより大嫌いだ。他人に訊かれて「蠍座のB型。」と応えると、相手の顔色が漏れなく、引きつった哀れみに変わるからだ。その「占い」の二文字が気に掛かり、ドアノブへすんなりとは手が伸びない。
それに店名が「ニルヴァーナ」だ、六十年代の英国のサイケデリックバンド名だったり、前世紀末の仏・伊合作映画の題名だったり、たしかそんな名前のディスコがあったような気もするが、元々は梵語で「涅槃」のことを指し、仏教において煩悩を滅尽して悟りの菩提を完成した境地などという小難しい言葉だったはず。高校時分の一番親しい同級生が寺の一人息子で、そんなことを聞かされた思い出がある。
重そうな木製ドアを開けると冷気どころか、抹香臭い熱風が吹いてくるように思われ、伸ばしかけた右手を本格的に引っ込め、改めて右顧左眄すると、今渡ってきた横断歩道のちょうど向かい側近くに、チェーンのアイスクリームパーラーが見える。
中年が独りでカラフルなアイスクリームでもないけれど、何か私のような年恰好の者が注文してもおかしくないメニューがあるだろうし、何より窓上に室外機が鎮座しているのでエアコン完備なのが分かる。
「あっちにしようか、その方が無難だ。」と再び独白して木製のドアを離れようとした瞬間に、目の前の「焦げ茶色で武骨な板」が内側に引かれ、隙間から二十歳前後と思われる女の顔が覗いた。
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「お客様、今の時間は『占い』ができませんが、よろしかったらお入りください。」と声を掛けられた。
私と同じ程に背が高く、長い黒髪、色白細面で薄化粧している、なかなかの美人だし、どうやら印度人などではないようだ。
流れ出てくる空気も線香やカレースパイスのような匂いはしないし、何といっても生き返るほどに涼しい。
女と目が合ってしまったし、断ってまた日向の横断歩道を渡るのも億劫になり「独りですが良いですか。」「もちろんです、お席に御案内いたしますね。」と誘われ、成り行きで入店してしまった。
十二~三坪はありそうな店内には、他の客が一人も居らず、客席は四人掛けのテーブルが四つとカウンターにスツールが五脚あり、その向こう側は厨房になっている、いわゆるオープンキッチンだ。
女は日が差し込む窓際ではなく、少し離れたテーブルへ誘導した。私は窓越しに眩い外が見える席に腰掛けて、目を細めて内装を見回す。
ベージュの壁紙にしみや汚れはなく、印度テーストの布など掛かっていない、テーブルの間隔がやや広めだが、普通の喫茶店に思える。ただし入口の反対側の一番奥は壁ではなく、天井から看板と同じ濃緑色の遮光カーテンが下がっている。
女は冷水とおしぼり、メニューを銀盆に載せて来て「夕方までは母達がいないので、『占い』ができません。」と再びの詫びを言いながら、持参した物をテーブルにセットしていく。私は受け取ったメニューを開いて、気の利いたコールドドリンクを探す。アイスコーヒーという気分ではないし、炭酸飲料も何だかさもしい様に思える、そこで「アールグレイをアイスにできますか?」と訊く。
女は「もちろんできます。アールグレイはアイスにするとフレーバーが一層引き立ちますものね、少しお待ちください。」と言って、カウンターの向こう側へ回り込んだ。見ていると女はアイスピックで板氷を割り始めた。お世辞にも器用とは言えない手付きだが、アイスティー一杯分の氷は間無しにできたようだ、大きめのゴブレットに半分強くらいのクラックドアイスを入れ、その上から濃い目に淹れた紅褐色の液体を注いでいる。それを銀盆にのせて、コースター、ストローと個包装のガムシロップとともに持って来ると、目の前のテーブルに置いて、カウンターの中へ戻ろうとするので、その背中に「お店は何人で営業しているのですか?」と訊いた。
今は十五時半過ぎで喫茶店としては閑散期だろうが、メニューには軽食もあったので、店の広さや席数から見て満席状態になれば、とても一人で回せるとは思えないし、女の「母親」は出勤しても占いをしている間には接客すらできないであろうと考えたからだ。
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女は「二組の母と娘が勤めています。『占い』ができる母親達は夕方六時頃出勤してきますので、それまでは普通の喫茶店で、日が暮れると『占い』のお客様が中心になります。」と答えて、私の眼を覗き込む
ようにして「お客様は『占い』を御希望ではないのですか?」と訊くので「いいえ、どうせ蠍座のB型なので、碌な結果は出ないですよ。」と吐き捨てるように言うと、女は「母親達の『占い』は印度式なので、西洋占星術や血液型は用いません、それに良く当たると評判なんです。『占い』の料金は内容によって違いますが、一回二千円からです。ぜひ、夕方にもう一度お見えになることをお勧めします。」と言いながら白エプロンの前ポケットから紙燐寸などという古臭いものを出してきた。それは看板と同じ濃緑色にベージュの字で、店名と住所・電話番号、営業時間が書いてある。
私は煙草を嗜まないので、燐寸など不要だが、おそらく名刺代わりのつもりなのだろう。
何だか女の話を聞いているうちに印度式の「占い」というものが妙に気になり出し、それにおそらく私と同世代であろう、この女の母親に逢ってみたくなり、授業員が四人揃っている時に来ようと思った。
冷気に浸り、のんびりとそんなことを考えているうちにゴブレットの中身が氷だけになったので、女がテーブルの端に置いて行ったビルを見ると「800円」と書いてある。少し高いなとは思ったが、古風な板氷の代金や冷房料金込みだと思えば納得できるので、五百円硬貨と百円硬貨三枚をビルの傍に積み上げると、「御馳走様でした、陽が落ちたらまた来て見ます。」と言い置いて店の外へ出た。
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相変わらず陽光が厭らしいほどの熱度をもって絡みついて来る。五分も歩かないうちに先程、全身に浴びた冷気も呑み込んだ紅茶の冷感も雲散霧消、かえって汗となって額や首筋に浮かぶのが分かる。フェイスタオルをまた出して拭くが、出し入れが面倒くさいので首筋の後ろに差し込んで置くことにした。
「さて、日暮れまでの三時間をどこで潰そうか。」と自問しながらも、二百メートルほど先にある地下鉄の入口を目指す。
やっとその入口に辿り着くと、意外に急な階段だった。眩い地上から覗き込むと真っ暗闇の奈落へ落ちて行きそうな気がする。ただし、うれしいことに冷気が吹き上げてくる。昔の地下鉄はトンネルの中に熱気が籠るというので、冷房が全く無かったが、今は駅も電車内も冷房完備という訳だ、こういう技術の進歩はありがたい。
階段を降りながら、「さてどこへ行こう」と本格的に思案する、「なるべくなら日向は歩きたくない」、正しくは「日向に出たくない」かつ「これ以上歩きたくない」であり、さらに言えば「人が少なく、静かで、薄暗くて、心休まる」といった場所が理想だ。私の感覚では、博物館・美術館・水族館あたりということになるが、これらは涼しくても、展示物の前を歩き回らなければならず、そうかといって図書館では読書もせずに転寝をするというのも如何かと思うし、映画館はそもそも騒々しいし、それに周囲のカップルにいちゃつかれたら暑苦しい限りである。
ここまで考えて「プラネタリウム」という単語が頭を過った、天井が高いので涼しいだろうし、静かだし、薄暗いし、座りっぱなしで転寝をしていても咎められないだろうし、上を向いていれば周囲の人間は気にならないし、今の状況では最適に思えた。ただ問題はどこにあるかだ、かといってスマートフォンを引っ張り出して調べるのは鬱陶しい。
たしか小学生時分にそれを父親と一緒に見た思い出があり、渋谷~強盗慶太の街~へ行ったはずだ、今でもあるのか分からないが、取りあえず渋谷を目指すことにして、途中一回だけ地下鉄を乗り換えた。
原宿もそうだが、昔の渋谷は「田舎の子供達」が大挙してやって来て騒ぐような街ではなく、二十歳前後の大学生でさえ少し気後れするような大人びた場所だった。
渋谷駅を出て、懐かしい「青蛙」電車近くの観光案内所で場所を訊くと目的地は意外に近かった。
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なるべく日陰を選って五分ほど歩き、教えてもらった建物に入り、エレベーターで十二階まで一気に昇る、次は十七時~十八時の回で、大人料金は六百円とのこと。ロビーのソファーで少し待っていると、前の回が終わったのでホールの中に入り席に着く。
こうして、理想的な温度、暗さ、広さ、座席の硬さの中で、静かな声で解説してもらいながら星空を見上げていると、睡魔が襲ってきて、一時間の残り半分は穏やかな女性の声を夢うつつで聴いていた。
急に照明が明るくなり、周囲の人々が一斉に動き出す気配で目を覚ました私は、すっかりリラックスして、口をあんぐりと開けていた。まさか鼾は掻いていなかっただろうと、周りを見回すが、意外に多かった観客は誰一人私には興味を示さず、出口へと急いでいる。
時間を持て余している私は急ぐことはないので、最寄りの列の最後尾についてゆっくりとホールの外へ出て、エレベーターで地上に降り、渋谷駅近くまでぶらぶらと歩く。
このままさっきの「占い喫茶」へ行くのでは少し早いので、とりあえず近くの本屋に入り、「印度式占い」の本を探してみた。占いのコーナーには「印度推命術」と「印度占星術」の分厚い物が一種類ずつあったが、価格を見てあまりに高いので買うのをやめた。結局何も買わずに本屋を出ると、今度こそ地下鉄のホームへ向かい、来た時と反対の経路で、場末の繁華街に戻った。
こうして再び「占い喫茶 ニルヴァーナ」に入店した私は得も言われぬ違和感に包まれた。窓には黒のロールカーテンが掛けられて夕暮れの街は全く見えなくなっているし、カウンターの両端と四つのテーブルにはそれぞれ燭台が置かれ、蝋燭が三本ずつ灯っている。その替わり天井の蛍光灯は一つおきにしか点灯しておらず、全体に薄暗くて何となく怪しい雰囲気だ。
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カウンターの中には昼間居た若い女とその母親と思われる黒髪で色白の四十がらみの女、さらに背が低くて肌は褐色で白髪交じりの縮れ毛という日本人離れした~もしかすると印度人かもしれない~老女の三人が立っていた。
先客は男性客が三人で、別々のテーブルに座っている。私が残りのテーブルに座った時にカウンターを出た若い女が近づいてきたので、「今度は占いをお願いします。飲み物は何かお勧めの物を、それともう一人の娘さんはまだ出勤していないのですね。」と訊いた。
女は「占いは四人目になりますのでお待ちください、占いを受けるお客様のお飲み物は『特製ラッシー』をお勧めしています。それから店内には、もう二組の母と娘が居ますよ。」と言ってカウンターの中に戻って行った。
でも私の眼には、「女は三人」しか映らないし、内訳は「母親と思しき二人に対して娘は一人だけ」にしか見えない。
そこで立ち上がり、他の客に同じ質問をしてみる、ところが三人とも異口同音に、「店内には四人の女性がいて、そのうちに二組の母親と娘がいる。」と答える、私は見えていない人物がいるのかと店内を見回したが、そんなことはなく、訳が分からなくなった。
そうこうするうちに娘が「特製ラッシー」を持って来て、印度人?の老女は客をひとり連れて深緑の遮光カーテンの向こうへ消えた。
仕方なしに元の席に座り、目の前に置かれた「特製ラッシー」を一口飲む私、「ラッシー」が印度ではごく一般的な飲み物でヨーグルトを薄めた様な物であるという知識はあるし、これまでも印度料理屋で何回か口にしたこともある。でもこの「特製ラッシー」は今までの物とは違い、妙に青臭いし、色も乳白色ではなく薄緑色をしている。緑色の正体は何だろうと推測してみるが、複雑な味と香りなので思いつく物がない。 四十年近く生きて来て、いろいろな物を口にしてきたし、味覚には自信がある方ではあるけれども、その私が判別できないとしたら、「もしかして大麻か何か?」という疑問が浮かぶ、一旦打ち消して、一口二口飲んではまた考え直すがやはり同じ結論に戻ってしまう。
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そうするうちに気分が悪くなってきた。そこでカウンターの中の娘に「占いは時間が掛かりそうなので、また明日来ます。」と言い、ビルに書かれた金額に見合う青い紙幣を一枚テーブル上に置くと、そそくさとドアを引き、すっかり陽の落ちた街へ出て、地下鉄を一回乗り換え、さらにターミナルから私鉄で郊外の自宅マンション最寄り駅にまで、席に着くこともできずに、吊革にぶら下がりながら吐き気と眩暈をこらえ続けた。マンションのエントランスにあるオートロックを開けて、エレベーターで八階へ上がり、自宅である八〇六号室に入り、やっとの思いでベッドルームへ辿り着くと、ルームウエアに着替えて、胃の辺りを擦りながら寝た。
二日目:八月十八日(金)十九時十分、晴れ
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「印度式占い」は受けてみたいが、永く待たされるのは嫌なので、わざと遅く行くことにして、今日は夕方まで自宅マンションでゴロゴロしていた。
そこで夏の日が暮れたこの時間に昨日と同じ地下鉄駅で降りて「占い喫茶 ニルヴァーナ」を目指している。
焦げ茶色のドアを開けると、やはり薄暗く、少し生暖かく、怪しい雰囲気が漂う店内に居た、先客は男女二人ずつで別々のテーブルに座っている。
目を凝らしてカウンターの中を見ると娘が二人いて、忙しそうに手を動かしている。近付いてみると、その二人は背の高さ、髪形、顔貌などが瓜二つで、違いは左眼の下に黒子が有るか無いか。昨日居た娘にはたしか黒子が有ったので、もう一人は双子の姉か妹だろうか。そんなことを考えながら立っていると、黒子のある方の娘が手を止めると、カウンターを回り込みながら、「いらっしゃいませ、お待ちしておりました、お席はカウンターでお願いします、それとお飲み物は『特製ラッシー』でよろしいですか。」と訊いてきた。私はカウンターの一番手前の席に座りながら、わざと「昨日の昼間にお願いした物をまた。」と注文すると、「アールグレイのアイスティーですね。」と明確に訊き返してくる、私の識別眼に間違いはなかった。
アイスティーを盆にのせた娘が再び近付いてくると同時に奥のカーテンの右半分が開き、四十女と女性客一人が出て来た。女性客は窓際のテーブル席にいた男性客に近付く、その男性客は立ち上がると、ビルと数枚の青い紙幣を四十女に手渡すと、連れの女をエスコートして、出て行った。
四十女は、カウンターの中に「マイコ、お冷を一杯ちょうだい。」と声を掛けた。すると黒子の無い方の娘が手を止めて八オンスタンブラー一杯の冷水を四十女に手渡しながら、「お母さん、お冷で良いの?」と訊いている。
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これで四十女と「マイコ」という娘は母子であることがほぼ確定だ、「母親」は水を一口呑み込むと、店内を見回し、カウンターの反対側にいる私に気が付き、「いらっしゃいませ、今日は早めにできますので、もう少しお待ちください。」と挨拶した。
私はすかさず、「カウンターの中の方は二人ともお嬢さんですか?」と訊いてみた。「はい二人とも私の娘で、生まれたのは黒子のある『マリコ』の方が一時間早くて、もう一人の『マイコ』の方は妹ですが、二人は双子ではありません。」とまたしても、謎めいたことを言うと、タンブラーの残り水を一息に飲み干して、女性客の一人を連れて、遮光カーテンの奥へ消えた。
私にしてみれば、やっと難問の一端が解けかかったと思ったら、その完全回答を思いつく前に、別の難問を出されたようなものである。
相変わらず落ち着かない気分で、アイスティーをチビチビと飲みながら、カウンターで思案していると、今度は先程と反対側のカーテンが開き、印度人?と女性客一人が出て来て、もう一人の男性客が先程と同じようにビルと紙幣を五十女に手渡すと女性客の手を引き店の外へ消えた。五十女はやはりカウンターの中に「マリコ、白湯をくれないかい、それと冷房を少し弱くしとくれ。」と声を掛けた。
黒子のある方の娘「マリコ」は、「はいお婆様。」と湯気の立つティーカップを手渡しながら、「それじゃあ設定温度を二度上げますね。」と答えた。「お婆様」はティーカップの白湯に苦戦しながらもあらかた飲み込み、最後の女性客と濃緑色のカーテンの奥へ消えた。
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聞くとはなしに聞いていた祖母と孫との関係性から、「印度人?の老女~四十女~娘達」が「祖母~母~孫」という関係であることが朧気に分かってきた。
さらにそれを「祖母~母」と「母~孫」とに分解すると確かに二組の母娘が存在していることになる。
おそらく「マイコ」はウィークエンド限定の手伝いか何かなのだろう。
そう考えているうちにゴブレットの中が空になった、私は勇気を出して、「やっぱり『特製ラッシー』をください。」と声を掛けてみた。すると「マリコ」が「今すぐお持ちいたします。」と妹とそっくりな声で答えた。
「特製ラッシー」を待ちながら、どう考えても「同じ母親から一時間違いで生まれた姉妹なのだから、双子ではないか。」という結論しか出てこない。
「マリコ」がカウンターを回り込み「特製ラッシー」を運んで来た。恐る恐る口を付けるが昨日と同じ味だ。用心しながらゴブレットに半分ほど飲んでみるが、気分が悪くなることはない、むしろ爽快感がある。 おそらく昨夜は疲れていたんだろうと思うことにして、今夜も「特製ラッシー」の緑色が何か考えてみるが、やはり何が入っているのかは思い付かない。そうこうするうちに印度人?のお婆様が呼びに来たので、一緒に深緑色の遮光カーテンの向こうへ入った。そこには小さい円卓と椅子が三脚置かれてあり卓上には古ぼけた本が三冊積んである。
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私は機先を制して「隣で占いをしている女性は娘さんですか?」と訊いてみた。すると「はい,マチコは私の娘です。似ていないとお思いでしょうが、私の父は日本人ですが母が印度人で、私は母親似なんです。」といとも簡単に「第一問の正解」を教えてくれた。
「ところで何を占いましょうか?」と訊かれたので「連れ合いが出て行ってしまったのですが、復縁できますでしょうか?」と答えると、「それではあなたのとお連れ合いの生年月日を教えてください。」と言うので教えると、二つの日付をメモしてから、小さな算盤を出して何やら計算しては結果をメモして、また計算をしてはメモをしてというのを四~五回繰り返してから、三冊のうち一番下になっていた本をペラペラと捲り、そこからなにやら書き写すこと四~五回で「結果が出ました。」と重々しく宣言する。お婆様が続けて「残念ながら、どうやってもお連れ合いは戻らないでしょう、でも明日か明後日に『運命の人』と出逢いますね。ただし、気力が衰えているので明日は外出をせずに、自宅で英気を養ってください。」と結果を告げた。
普通はもっと当たり障りのないことを言うと思うのだが、お婆様の御託宣は妙に生々しく、信じるべきか否か判然としないが、今夜は大人しく帰ることにして、請求された金額に相当する青い紙幣四枚を渡して夜の街へ出た。
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自宅の最寄り駅に降りた頃には、急に空腹を覚えた。そこでこういう時にいつものように覗く小料理屋に行くことにした。立地が駅と自宅マンションの途中というのが決め手だ、私より少し若い位の女将と板前でやっている、もしかすると夫婦かもしれないが、今まで関係性を訊いたことがない。
「小料理 より道」の引き戸を開けて暖簾をくぐると、先客の二人連れの男が丁度、女将を相手に会計をしているところだった。
板前の「いらっしゃい。」という声とともにカウンターの一番奥の席に座り、「生麦酒と小鉢ものを二つ三つください。」と注文した。女将は先客を送り出すと、私のそばに来て「今日も暑かったですね。」と言いながら冷たいおしぼりを手渡してくれる。
丁度良いので「女将さん、板さんとは御夫婦ですか?」と訊いてみた。すると女将は右手を顔の前でヒラヒラさせながら「いいえ、あれは弟です、似てませんか?」と逆に訊き返された。二人が並んでいる姿を見たことがないので良くは分からないが、似ていると言えば似ている様な気もする。
そうこうするうちに女将が生麦酒を、板前が、枝豆と唐墨と赤貝の刺身を持って来た。
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何だか一人で呑むのも寂しいので、「お二人も御一緒にどうですか。」と訊いてみた。すると女将は「私は自宅まで車の運転が有るので飲めませんが、弟はこの先のマンションDSまで歩いて帰りますのでお付き合いさせます。」と答えて「ジロウ、お客さんが一杯くださるとおっしゃってるからお付き合いしなさい。」と奥へ声を掛けた。
すると板前の「ジロウ」は生麦酒のジョッキを手に現れた。ジョッキ同士をぶつけて「乾杯」と言うと「御馳走になります。」と答える。「ジロウさん、私もマンションDSなんですが、何号室ですか?」と勇気を出して訊いてみた。「七〇六号室です。」との答え、何と私の真下だ、「奇遇ですね私は真上の八〇六号室です。」「そうなんですか、でも私のところは離婚して一人になったので、近々狭い所へ引っ越そうと思っているんです。」「私のところも似たようなもので、看護師の連れ合いが子供を連れて出て行ってからは一人暮らしです。」とお互い身の上話をする。その後、無口な弟に代わって女将が相手をしてくれる。生麦酒を二杯追加してほろ酔いになったので、会計をしてもらって自宅マンションへ帰って、今夜もバタン・キュウである。
三日目:八月十九日(土)十四時五十分、雷雨
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今日は朝から小雨で、寝室から西の空を見ると時々閃光が走っていると思ったら、急に雨脚が強くなり、近くへ落ちたのだろうか稲光とほぼ同時に雷鳴が轟く「こんな日に外出をしなくて良かった」と思う、と云うことは「ニルヴァーナのお婆様」の御託宣の一つは当たったということなのかもしれない。
とにかく、だるくて何をする気にもならない。強い吹き降りで閃光と轟音が渦巻く窓外を何となく見続けていると、空腹を感じ始めて「どうしたものかな。」と思案を始める私。でも何か他人事の様でもあり、やはり何もする気にはならない。結局、冷蔵庫から缶麦酒を出して、サラミとクリームチーズを食べて、耳栓をして、アイマスクを付けて再び寝た。
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喉が渇いて目が覚めたのは24時50分、冷蔵庫からペリエを出してグラスで2杯飲んだ。雨は上がり、雷も感じなくなっているので、今度は耳栓もアイマスクもせずに三度寝た。
四日目:八月二十日(日)十八時五十分、薄曇り
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私はもうすかり見慣れた濃緑色の行灯看板の横に立ち、武骨なドアを押し開ける。四日で四回も同じ喫茶店に通うなど、自分の酔狂にも呆れてしまうくらいだ。
今夜は何が起こるのだろうと、変に期待しながら怪しい雰囲気の店へ入って、カウンター内を見ると、何と娘が三人いるではないか。「何だそんなことか。」と思ったら、腰砕けになり、やっとのことにカウンターの端まで歩き、案内を待つゆとりもなくスツールに倒れ込む。
そこへすかさずマリコが、「いらっしゃいませ、この子は妹の「マキコです。」と、訊きもしないのに右目の下に黒子が有るやはり瓜二つの娘を指差した。「私はマキコです、妹のマイコと一緒に週末だけ手伝いに来ています。」と自己紹介をする中間子~もちろん物理学ではない方の~。
もうこれ以上、この店で何も起こらないでくれと思いながら、「『特製ラッシー』をください。」と言う私にマリコが「かしこまりました、マイコお願いね。」と妹に指示をした。しばらくしてマイコが持って来た「特製ラッシー」を一息に呑みほすと、「『特製ラッシー』をもう一杯ください。」とヤケクソ気味に言う私に、マキコが「よろしいんですか?」と念を押すので、「お願いします。」と言うと、マリコが「それでは特製の特製を作りますね。」と言いながら作業を始めた。
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「特製の特製」と言ったって、作る時間はさして変わらないと見えて、すぐにそれは出てきた、緑色が濃くて香りも青臭いというか薬草臭いというか、普通の「特製」よりさらに強烈だ、さすがに一息には呑みほせるものではないのでストローで少しずつ啜っていると、占いの番が来て、お婆様が手招きをしている。やっとのことで「特製の特製」を飲み切って、お婆様と遮光カーテンの向こう側へ行く。
「今日は何を占いましょう?」と訊くので「そういえば昨日は雷雨で、出かけなくて正解でした。それで『運命の人』にはいつ逢えるのでしょうか?」と訊き返すと、今夜は本も見ず、私の眉間を凝視しながら「あれ、もう出逢っている筈ですよ、次は今夜の十二時頃に逢いますね。」と言うではないか。
「おとといの晩から今まで、誰とも会っていないなぁ。」と思いながらも、お婆様に頭を下げて「分かりました。」と礼を言っている私。
「ついでに『特製ラッシー』の正体を教えてください」と不躾に訊くと、お婆様は微笑みながら「『特製ラッシー』はヨーグルトベースのラッシーにコリアンダーと木の芽と蓬を入れただけです、娘のマチコが調合を工夫をしたので、怪しい物ではありませんよ。」と答える。それぞれに癖があり、組み合わせることなど思いも付かない不思議な植物群、しかも普通の食材と言えるものばかり、腑に落ちた様な、落ちない様な摩訶不思議な気持ちになりながら遮光カーテンをくぐろうとすると、お婆様が「マリコ、今日は占いをしていないから、飲み物のお代だけいただいておくれと。」と孫娘に指示をした。
「マリコ」はカウンターを回り込むと二千五百円と書いた勘定書きを手渡してくる。財布の中から青い紙幣二枚と一番大きな硬貨を手渡すと「ありがとうございます、またお越しください。」と送り出してくれる。夜の街をいつもの地下鉄入り口まで歩き、地下鉄と私鉄を乗り継ぎ最寄り駅へ辿り着く。
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JRから私鉄に乗り換えたあたりで猛烈な空腹感に襲われる。「そういえば、ここ2~3日はまともな食事をしていないな。」と思いながら、駅から歩き「小料理 より道」の引き戸前に立っている。その戸を開けて暖簾をくぐると、「いらっしゃい。」と板前のジロウが迎え入れてくれる。
女将は右手奥にあるテーブル席で、一昨日もいた二人連れの常連客(?)の相手をしている。
「今夜は呑む前に少しお腹に入れたいんで、お握りを2つお願いします、その後は生麦酒と小鉢ものを二つ三つください。」
「握り飯の具は何にしましょうか、梅・おかか・鮭・鱈子からお選びください。」とジロウが問いかけてくる。
「梅とおかかでお願いします。」「承知しました。」と答えてジロウが奥へ消える。
女将がおしぼりを手渡しながら、「昨日は凄い雨でしたねぇ、濡れませんでしたか?」「はい、一歩も出なかったので雨には当たりませんでしたが、雷が酷くて耳栓とアイマスクを付けて寝ましたよ。」「うちも十時で早仕舞いさせていただきました。だってお客様はいらっしゃらないし、あの雨の中を運転して帰るのは怖いんです。」と女将の愚痴(?)を聞いていると、ジロウがおにぎり2つに海苔をきっちり巻いて持って来た。女将は焙じ茶を淹れて出してくれる。
まるで欠食児童の様にガツガツと梅とおかかのおにぎりを貪り、焙じ茶で流し込む。あっという間に食べ終わってしまい、まだまだ入りそうだが、ここは飯屋ではないので自重して生麦酒とつまみに取り掛かることにする。
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「それでは生麦酒と小鉢ものをお願いします。それとジロウさんも良かったらどうぞ。」「ジロウどうする、いただくの?」と女将が奥へ声を掛けると「はい、いただきます。」と小声で返事をする。
女将がジョッキ二杯の生麦酒を注いで来る。ジロウが冷しトマトと蛍烏賊の沖漬けと砂肝の串焼きを持って来て私の前に並べた。姉が弟にジョッキを渡すと、私はジョッキを持ち上げてジロウの眼を見ながら、「乾杯」という、ジロウは「いただきます」と答えながら一口生麦酒を飲むとすぐ下に置く。私はジョッキを空けると「冷酒をください」と追加を注文する。「今時期のお勧めは、越の景虎の純米吟醸ですが、よろしいですか。」と女将、常温か冷やで呑むと旨い清酒だ。「うれしいですね、できれば冷え冷えでお願いします。」「うちは冷蔵庫で一升瓶ごと冷しています。」と女将が答えるところを見ると、彼女は多分いける口なのだろうと思う。一度、酌み交わしたいものだ。
「ところで清酒の銘柄はジロウさんが決めるんですか?」「いいえ、僕は麦酒党なので、お酒は姉~ミチコが選んでいます。」
そのミチコが冷えた一升瓶から、一合枡に入れた薄手のグラスへなみなみと注いでくれ、枡にまで冷酒が入る。最初は口の方からお迎えに行き、空いたところへ枡に零れた分を入れる。
冷えているので胃袋に到達するのが分かる。私が二合目を呑み終わる頃にジロウのジョッキも空になった。
そこで、「ジロウさんもう一杯どうぞ、それと追加でおつまみを二~三品お願いします。」「ジロウもう一杯いただくの?」とミチコが問うと、ジロウが逡巡しているので「遠慮なさらずにどうぞ。」と言うと「それではいただきます」と模範解答が返ってきた。この姉弟は育ちが良いのであろう、受け応えが歳上の私より余程しっかりしている。
ジロウは2杯目の生麦酒に一口付けると、「失礼いたします」と断りを言いながら奥の厨房へ消えた。
テーブル席にいた二人連れの男たちがミチコに勘定書きと何枚かの紙幣を渡して、帰って行った。
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「ミチコさん、失礼ですがお酒、お好きなんですか?」「ええ、結婚するまではこの近所に住んでいまして、一つ先の駅前でスナックをやっていましたが、毎日深酒をしては失敗ばかりでした。イタリアンの料理人だったジロウが、見かねて板前の修業をし直して、五年前にこの店を二人で始めました。主人はスナック時代の常連でしたが、プロポーズしてくれた時からぱったりと店には来なくなりました。彼は二級建築士を持った大工ですので、自宅もこの店も主人の勤め先の工務店が設計・施工してくれました。」「それで立派な一枚板のカンターなんですね。」「これは勤務先の社長の開店祝いで屋久杉だそうです。」「なるほど、それで風格があるんですね。」「ジロウはこのカウンターを磨く時に『良い仕事をしなければ』と思うと言っています。」そんな会話をしながら、私が三合目をチビリチビリとやっているともろきゅうと焼うるめと鶏わさを持った次郎が戻った。お冷酒のお替りを頼むけれど、もう四合目なのでこれおつもりにしよう。何せ今日は「運命の人」と出会う日なのだから。
最後の酒を呑んで、「お勘定をお願いします。」と言うと、ミチコが「9,298円」と言う合計金額が書いてある勘定書きを渡してくる。「安いなぁ。これでやっていけるのかなぁ。」と暢気に考えながら、茶色い紙幣を渡すと、702円の硬貨を返してくる。「御馳走様でした。」と言いつつ引き戸を開けると、「ありがとうございました。またお近いうちにお越しください。」とミチコが送り出してくれる。
暗いので携帯電話を出して時計を見ると二十一時五十分だ。早足で自宅マンションへ帰る。
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ダイニングテーブルにキプリング・バッグを置くと椅子に掛けて「ニルヴァーナのお婆様」から受けた一昨日と今日の御託宣を思い出してみる。
今夜、二十四時頃に誰と一緒にいるか、多分その人が私の「運命の人」ということなのだろうとぼんやりと思うが、こんな時間に訪ねてきそうな既知の人物など思いもつかない。有り得るとしたら、一年半前に一人息子の手を引き、出て行ったきりの三歳年下の看護師である連れ合しか考えられないが、それでは「連れ合いは戻らない」という占いの結果に反するので、その線は無いということになる。こうなると「運命の人」が誰かは皆目見当が付かない。
しかしながらその「運命の人」と相対したときに酒臭いのもどうかと思い、まずはシャワーを浴びることにする。ただし、この後に来る筈の「運命の人」が誰だか分からないのでは、ルームウエアという恰好は拙いだろう、かと言って、真夜中の自宅で会社に行くときのようなスーツ姿というのもかえって不自然だ。間もなく四十歳になるというのに何を悩んでいるかと思うと少し馬鹿馬鹿しくなって、ひとしきり笑ったものの、時計を見てはっとしてバスルームへ急行し、慌ててシャワーを浴び、歯を丹念に磨く。ドライヤーで髪の毛を乾かすと、ベッドルームでアンダーウエアもチノパンも赤いポロシャツも全て洗い立ての物を身に着けて、本格的に「その時」を待つために、コーヒーメーカーでコピ・ルアクを多めに淹れて、取りあえずブラックで一杯飲む。
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二十三時二十五分、ドアチャイムが鳴る。考えてみれば今ドアチャイムを押している人物はマンションのエントランスにあるセキュリティーをどうやって突破したのか不審である。ドアフォンのスイッチを入れると「『より道のジロウ』です、夜分に済みません。」、「運命の人」はジロウだったのかと思い、慌てて玄関へ行き、ドアロックを外して、招き入れる。「先程は大変ありがとうございました。奥多摩の鮎が手に入ったので煮付けてみました。お口汚しですが、よろしかったらお召し上がりください。」「わざわざお持ちいただき、ありがとうございます。今ちょうどコーヒーを淹れたところですので、御一緒にいかがですか。」「いいえ、折角のお心遣いはありがたいのですが、夜も遅いですから帰って寝ます。どうもお邪魔しました。」ジロウは店にいるときと同じように深い角度でお辞儀をして、ドアを静かに開けて出て行った。
その背中がドアの向こうへ消えるまで見つめる私。「何だ、てっきり『運命の人』はジロウかと思ったのに違ったのか。」と思う、久し振りに心をときめかしたものの、玄関に置いてある姿見に写るのは、少し背が高くて痩せぎすだけれど、何といっても肌艶があまり良くない四十小母さんの姿。あんなに素敵なジロウが求愛してくれる訳がないのも当然だ、一気に落ち込み、リビングに引き返すと、冷めゆくコーヒーに手を付けるでもなくしばし放心する。
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二十三時四十二分、「『お婆様』の占いもあてにならないな。」と思い始めたところで、携帯の着信音が鳴る。取り上げて見ると、社長からだ、自分で休めと言っておきながら何の用だろうと訝しく思いながら通話する。
「もしもし社長、何かお急ぎの用がありましたか。」「ああ、どうしても相談したいことがあって、今はマンションのエントランス前に居るんだが、下りてきてもらえないか?」「良いですよ、すぐに行きますので待てってください。」携帯を切ってテーブルに置き、玄関へ向かう。
キーホルダーを持つとドアを開けて共用通路へ出る。ドアに鍵を掛けながら、ジロウが帰った時に鍵を閉め忘れていたことに気が付いた。余程落胆していたんだなと思い、おかしくなるが、共用スペースで高笑いする訳にもいかないので、口を一文字に結び「社長は今時分に何の用だろう、それにしても女たらしの彼に『運命の人』の求愛を邪魔されるのは絶対に避けなければならない。それにはとっととお帰り願おう。」などと考えるながらエレベーターホールへ向かい、フロアボタンの「↓」を押す。二台あるうち右側のドアが開く、こんな時間なので無論、誰も乗ってはいない。籠ボタンの「閉」と「1」を連打する。体に浮揚感を受けて、それから放たれると一階に着き、ドアが開く。エントランスの方を見ると、社長~田中順一が外に立っている。エントランスのドアを内側から開けて手招きすると、近付いてくる田中、いつものビジネスバッグのほかに紙袋を提げている。
「どうしました。」「夜分に済まないな。ちょっと込み入ったことを相談したいので、部屋へ入れてはもらえないか。」「良いですよ、どうぞ。」と女の私が先に立ち、エレベーターのフロアボタンの「↑」を押すと一階に停止していた右側のドアが開く。二人で乗り込むと、「閉」と「8」を連打して、八階で降りて自室の鍵を開けて、田中を招じ入れる。
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この男がこの部屋に入るのはこれで三回目だ。一回目は夫と引っ越してきた時に手伝いに来た。二回目は一年半前に夫が出て行った時に息子の姿が見えないものだから、つい取り乱して呼んでしまった。そうしてみると彼がここに来る時は良くも悪くも私の生活環境が大きく変わる時だ、でも今夜は勘弁して欲しい。そんなことを思いながら、薫り高いコーヒーを二杯注ぎ、ダイニングテーブルの前に突っ立っている彼の前に一つ置くと「遠慮なくお掛けください田中先輩。」わざと学生時代の呼び名で話しかける。「夜中に押しかけてごめんな牧子。どうしても聞いてもらいたいことがあって来てしまった。」同じく学生時代の呼び名で答えた彼~田中先輩~田中社長はコーヒーに手も着けず、テーブルの上に揃えた己が手を見つめている。 「少し言いにくいのだが、牧子さん、僕と結婚してもらえないだろうか。」彼の手はガタガタと震え、額からは汗が垂れている。「酔っぱらっているんですか社長?悪い冗談はよしてください。」「いいや、僕は素面だし、至って真剣に話をさせてもらっているつもりだ。」「だってあなたはいつでも複数の女性と付き合っているし、最近だって、単独外出と直帰の連続じゃないですか、社内でどれだけ私が苦労して来たと思っているんですか。」なじって、なじって、いち早く帰って貰おうとすると、つい語気が鋭くなってしまう。
彼は俯いて私に詰問に耐えていたが、やおら顔を上げると薄気味悪く微笑み「牧子さん、君が誤解するのは無理もない。一年半前まではあなたが言うように良い女を見つけてはうつつを抜かしていた、それはそれでこのとおり謝る。」ここまで言って頭を下げた、余り勢い良く下げたものだから、額をテーブルに打ち付けて大きな音を立てた。「社長、分かりましたから顔をお上げください、大丈夫ですか、おでこ?」顔を上げた社長は笑顔に戻り「ありがとう大丈夫だ、僕が石頭なのは昔っから、知っているだろう。」「そうでしたね、男同士で意味もなく頭突きをしてましたっけ。」
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「話を戻すよ、いいかい?一年半前にあなたに呼ばれてこの部屋に来た時に僕は生き方を変えたんだ。学生時代から親しくしてくれた人が嘆き悲しんでいられるほど僕は強い男じゃない。当時付き合っていた女達とは全て別れてもらった。泣き叫ぶ奴、手切れ金を要求してくる奴、自宅へ押しかけてくる奴、色々いたが、あなたのことを思えばどうということも無かった、ただただ耐えてやり過ごした、最後は時間が解決した。すべて清算するのには半年近くかかったけどね。」「でも、その後も、単独外出と直帰の嵐ですよね。一体何をしていたんですか。」「これも言いにくいんだが、君の連れ合いや御両親に会いに行っていた。最初は会社の共同経営者として、それから連れ合いさんには僕が責任をもって幸せにするから、君と別れてくれないかとお願いした。御両親には逐一御報告して、結婚についての内諾を貰った、最近になって、連れ合いさんには中学生の息子さんを可愛がってくれるならという条件付きで承諾して貰った。それからもう六回も息子さんと会って、キャッチボールやサッカーのPK対決をした。大分懐いてくれているよ。」「何よそれ、肝心な私には何も言わずに周りを固めてしまうなんて、私が断るとは思わなかったの?」「ごめんごめん、あなたの性格を一番よく知っている男は間違いなく僕だ。その僕が思うに君はものの考え方が僕より男性的だから、良くも悪くも長期間の交渉には向いていない、だから、君にプロポーズしても難渋すると思って『将を射んとすれば先ず馬を射よ』作戦を執らせてもらった。
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それに付け加えれば、会社の内部管理を任せたのは何も女性だからじゃあない、女性的というならむしろ僕の方が向いている。君に内部管理を任せたのは僕より人心掌握が上手いからだ、ここ二、三日若手社員達と飲みながら僕の留守中の社内の様子を聞き出した。異口同音に君が社長で僕は営業部長のようだと思っていると言われた。僕が新卒の君をリクルートして、共同出資者になって貰った狙いが間違っていなかったことが良く分かった。心からお礼を言うし、僕の思いを理解してウンと言ってくれないか?」いつになく饒舌な彼はまるで学生時代の哲学サークルの部長に戻っていた。そして私は気が強く融通が利かない会計係だ。 どうしたものかと思案しながら、時計を見ると二十三時五十八分になっている、まさかこの後二分で別の男が訪ねて来るとも思えないので、「お婆様」の御託宣に出てきた「運命の人」は今、眼の前で、言うことを言うだけ吐き出して、すっかり安心した顔で冷めかけのコーヒーを啜っている田中先輩ということになる。
それにしてはお互い随分と遠回りをしたものだ。彼と初めて出逢ったのは、私が同じ大学に合格して高校生気分が抜けないまま通い始めて4日目にサークルの勧誘を受けた時だ、それから考えれば、今年は二十年目に当たる、学生時代をはじめ若い頃は随分つまらないことで喧嘩をしたし、二人きりで飲み明かしもした。おそらくサークル員の大半は私達がいずれは結婚するだろうと思っていたのではないだろうか。
それを考えるとこうなるまでの二十年は無駄ではなく、必要条件だったのかもしれない。そう思うとこのひたむきな先輩と幸せを分かち合いたいと思うようになった。
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私はキッチンに立ち、モエ・エ・シャンドン・ロゼのハーフボトルを冷蔵庫から取り出してフルートグラス二つとともに銀盆に載せてダイニングテーブルへ戻りシャンパンボトルを手渡しながら「開けて」と頼む。簡単に開けた彼はグラスに注ぎ分けると、まるでソムリエの様に一つを滑らせて来る。私がグラスの脚を持ち、目の高さに上げると、彼も倣う。私はわざとしおらしい声で、「せっかくのお話です、………お受けいたします。ぜひよろしくお願いします。」と言い、ピンク色の泡立つ液体を一口呑み込む。彼も正しく破顔一笑という表情でシャンパンを飲んでいる。見るからに幸せそうなので意地悪をしたくなる、この性格が災いして離婚に至ったことは重々承知しているのだけれど、性分だから中々変えられない。
「でも順一さん今すぐには結婚できないよ。」「知っているよ、女性にだけある百日間の待婚期間だろう。」「それもあるけど私が言いたいのはもっと大事なこと。これだから結婚をしたことのない人は困るよね。いい,良く聞いてね。我が国は公式にはまだ男女別姓を認めていないことは知っているでしょう、それから我が社は法的に問題がない場合は旧姓使用を認めていて、私がその適用第一号であるということも知っていますよね。私の今の戸籍名はご存じですか?順一さん。」「石田だろう、石田牧子さん。」「この際、『さん』はいらないわ。そこで私があなたの氏を名乗ると田中牧子になるの、反対にあなたが私の氏を名乗ると石田順一になるの、文字は違うけれど、できればどちらも避けたい名前よね。」そこで私が今の夫と離婚する時に『復氏届』という書類を提出すると、結婚前の氏である「山本」に戻って山本牧子に、息子の修一は山本修一になる訳、それであなたにも山本順一になって貰うわ、勿論会社での旧姓使用はOKよ。これでどうかしら。条件を飲んでくれる?」「良く分かった、君の考えに従うよ。山本牧子さん、出逢った時と同じ本名になる訳だ。」「そうよ、田中順一こと山本順一さん。それでどうする、今日は泊っていく?」「そのつもりで着替えを買って来た。」「何だ、紙袋は私へのプレゼントじゃあないんだ。」「ごめんごめん。次の週末に埋め合わせをするから何でも言ってくれ。」「大丈夫よ、あなたが女にマメなくせに、不器用なのはよく知っているから。浮気さえしないと誠心誠意誓ってくれれば、それだけで充分。それを飲み終えたらシャワーを浴びてね。私は片付けて寝ているから。
時計を見ると、二十四時三十七分を指している。やはりお婆様の占いは当たっていた。そのうちに彼を連れてお礼に行こうと思う。でもそれより先に慣れない寝化粧をして「運命の人」に嫌われない様にしなければと焦る私がいる。
♠♠ 拙い上に短編という割には少し長めの作品を最後までお読みいただきありがとうございました。
厚かましいお願いですが、感想や評価をいただければ幸いです。
草 嶋 薫 拝