2 夏霞
なぜ俺がこのような真似を
じゃりっと音を立てる山道を下りながら、鬼は溜息をついた
背後をついてくる小さな気配は、振り返らずともわかる
近すぎず遠すぎず一定の距離を保ちつつ、気配はずっと後をついてきている
山道には慣れているのだろう その足取りは思ったよりもしっかりしていて
少なくとも坂道を転げ落ちるようなことはなさそうだ
なぜ俺が気にせねばならぬのだ
無意識に、娘が後をついてきていることを確かめてしまっている自分に舌を打つ
そもそも一緒に山を降りる必要などなかった
夜明けとともに娘を置いて去ることもできたのに
なぜともに行くことを許したのだ
自分でも説明のつかぬ不可思議な感情に、鬼は苦々しげに眉をよせた
獣か夜盗かと鬼が刃を向けた相手は、まだ年若い娘だった
娘は旅装束ではなかったから旅の途中というわけではなさそうだったが
それが逆に怪しいと、鬼は手にした刀を収めることはしなかった
「何者だ」
鋭く問い詰めるものの、娘は答えない
怯えて声が出ぬのかとほんの少し刃を傾けたものの、それでも娘は無言で鬼を見つめるだけだ
「夜盗には見えぬが、なぜ若い娘がこんなところにいる」
低い声が夜の静寂に木霊する
娘はわずかに口を開いてみせたが、その声は鬼には届かない
「山に迷いでもしたか」
ふん、と鼻をならし刀をおさめると、鬼は一歩娘に歩み寄る
娘は逃げようとはせず、ただ口をぱくぱくさせるだけだ
「・・・おまえ、まさか」
娘の様子にようやく鬼は気づく
「口がきけぬのか」
鬼の言葉に、娘は大きく頷いた
厄介なことだ
昨夜の自分を思い出し、鬼はもう一度息を吐く
口のきけぬ娘は、結局鬼の起こした火の傍で夜を過ごした
こんな山奥で、しかも見知らぬ鬼と一緒だというのに
娘は無防備なほど安らかに眠りこみ おかげで鬼は、寝ずに火の番だ
一晩や二晩眠らずともなんの問題もないが、そういうことではない
自分とは何の縁も所縁もない娘だ
追い払うこともできたというのに、そうしなかった自分に腹が立つ
しかも火の番どころか、ぶるっと震える娘の身体に羽織までかけてやったのはなぜだ
娘が、都の姫もかくやというほどの美女であればまだ理由にもなる
けれどどう見ても、娘はごくごく普通の器量だ
振り返るほどの、一度見れば忘れられぬほどの美貌を持っているとは言い難い
身体つきも貧相なものだ
俺は痩せすぎた女よりは抱き心地のよい肉付きの女の方が好みだ
そんなくだらぬ言い訳が頭を掠めることもまた癪に障ったが
とにもかくにも一夜を過ごし、夜が明けると鬼は火を消した
目を覚ました娘は、抱えていた包から小さな握り飯をひとつ取り出すと、鬼に差しだした
「俺に食えというのか」
答える代りに、娘は頷く
「いらぬ。それはおまえの分であろう」
別に遠慮したわけではないし、この握り飯に毒が入っているのではと怪しんだわけでもない
単純に空腹ではなかっただけだ
けれど娘は頑として手を引っ込めようとはしない
「いらぬと言っているであろう。おまえは喋れないどころか、耳も聞こえぬのか」
幾分口調が鋭すぎたかと思ったが、娘が気にした様子はない
むしろますます強く、握り飯を鬼に押し付ける
「強情な女だな」
誰が見ても不機嫌極まりない表情になったのはわかっている
普通の女であれば怯えても不思議はないだろうに
娘は怯むどころか、鬼に負けじと口をへの字に曲げて首を振った
「・・・なんなのだ、おまえは」
それは事実上、鬼の敗北宣言だった
押し付けられた握り飯を受け取ると、娘は嬉しそうに笑った
「なるほど。これは一宿一飯の恩義ということか」
にやりと笑ってそう言うと、娘は何度も何度も頷いた
おかしな娘だと思ったし、面倒なことであることも間違いはない
けれど、嫌な気持ちにはならなかった
まあいい これも麓へ着くまでのことだ
後を静かについてくる娘の気配に、鬼は小さく微笑んだ
木々の間から落ちてくる陽射しは刻々と明るさを増し、朝の訪れを告げていたが
山道から見える谷間には、夜の名残りのように薄い霞がかかっていた