1 青嵐
これは昔むかしの物語
都におわす帝が世を統べり
人と鬼がともに生きていた頃の物語
ぴゅるると
透き通った空の彼方で鳥が鳴く
見上げれば、風に流れる真白い雲がひとつふたつ
春も終わるか
吹き渡る風はまだ春めいている
けれど、その中に確かに感じる初夏の匂いに鬼は目を細めた
このまま緑の息吹を楽しみたいものだがな
そう思いつつも、足は目指す場所へと進めねばならない
せっかくの美しい季節だというのに
出来ることならこんな馬鹿げた謀事など御免こうむりたい
それが本音だ
だが、皮肉にも己が立場が拒むことを許さない
誇り高き鬼の一族 それらを統べる頭領ともあろう自分が
約束を反故にすることなどできようはずがなかった
致し方ないとはいえ厄介な
戦も謀事も我らには関係のないことだ
私利私欲にまみれた人間どもの下らぬ諍いなどどうでもいい
そう言って、里に届いた書状を投げ捨てた自分をたしなめたのは口やかましい側近だった
里を守るのは頭領たるあなたの務めだ
そんな事は今さら言われなくてもわかっている
だが、書状ひとつで呼び出すことが出来ると思われていること自体が腹立たしい
我らは約束は守る
けれどそれは、断じて臣下になるという意味ではないのだ
書状が届いたのは雪の頃だったが、憤りを理性で抑え渋々ながらも里を発ったのは、雪解けも間近という時期だ
遅くなった理由は問いただされるだろうが、構うことはない
俺のやり方が気に入らないのであれば、約定など破棄すればよい
その方がこちらとしても願ってもないことだ
それが鬼の本音でもあった
里から海路で堺へ入り、ゆっくりと東へと歩みを進めていたが
行く手に見える山を越えれば そこはもう都だ
出立の時は無彩色だった風景も色めくものへと移り変わっている
久しく訪れていない都にはまだ見ぬ何かがあるかもしれぬ
それを楽しみに行くのも悪くはない
若葉の色に染まる峰を見上げながら鬼は再び歩みを始めた
人目を憚ったわけではないが、街道をそれていたためだろう
手頃な宿場が見当たらず、その夜は山中で過ごさねばならなかったが
鬼にとっては野宿もさほど大きな問題ではない
幾分暖かくなってきたとはいえまだ夜は冷える
だが闇の中、火を起こすことも手慣れたものだ
山には眠りから覚めた獣がいるかもしれないが、それすら脅威にはならない
空腹を感じているわけではないが、猪の一頭でも出てくれば、逆に仕留めて食料にできる
もっとも気配に敏い獣が、襲いかかってくるとは思えぬがな
ぱちぱちと音を立てて燃える焚火を見つめながら口端をあげる鬼だったが
その目が瞬時に闇の先を見据える
それは音というよりは、空気の震えに近いほど僅かなものだったが、鬼が聞き逃すことはなかった
夜風に揺れる木々の向こうに、確かに何かの気配があった
獣か それとも夜盗の類か
都に近づけば近づくほど危険は増える
物騒なこの時世だ
食い潰れた武士崩れが夜盗に身を落とし旅人を襲うことは珍しくはなかった
厄介な
恐怖ではなく、面倒臭さが先に立つ
斬って捨てることは簡単だが後が面倒だ
-いや、ここであればその方が楽かもしれぬな
斬り捨てた体は、それこそ山の獣が空腹を満たすものとなるだろう
難点は、せっかくの野宿の場所が血生臭さに包まれてしまうことと、血の匂いに誘われてやってくる獣の相手をせねばならぬことだ
面倒な
鬼は忌々しさに舌を打ちつつ、そっと腰の刀に手をかけた
がさり、と
背後の木々が音を立てるのと、鋭い煌めきが闇を斬り裂いたのは同時だった
白刃が獲物の首筋の寸分先で止まったのは、一重に鬼の力量によるものだろう
すがめられた蒼い眼差しの先には、小さな体が微動すらせず立ちすくんでいて
見開かれた大きな目が瞬きもせず鬼を見つめていた
夜を照らす赤い炎を風が揺らめかせる
夏の訪れを告げるその風からは、仄かに緑の香りがした