7-15. 断崖絶壁
俺は自由だ。そう、俺は自由になった。
なんというすがすがしさ。なんという開放感。自由とは、実に素晴らしいものだった。
そのようなわけで、ここ暫くの彼はご満悦だった。何時の間にやら彼に取り憑いていた悪霊女、彼を四六時中監視し、何かにつけては文句を言い、彼のあらゆる権利を侵害してかつ干渉してきた厄介かつ迷惑な女の亡霊が、彼の中から居なくなったのである。
そう、あのクソ忌々しい悪霊が消え失せたのだ。もう二度と戻っては来なければいい。
もちろん彼とはギークである。彼が悪霊だと評するミイは、実際には、極々側にいる。少し距離が空けば、是非もなく彼の中に戻って来るだろう。だから客観的には、彼は決して自由ではない。けれどもしかし、そうであっても、これまでとは雲泥の差があった。
突如頭の中に響く金切り声。前触れもなく金縛りになったり、自分の手足が勝手に動いて時には彼自身を殴りつけてくることさえあった怪奇現象。ミイがアギーラに取り憑いている限り、そうである間は、そうした奇々怪々から、少なくとも彼は解放されるのだ。
素晴らしいことだ。ギークは、かつてない自由を満喫していた。
そして一瞬、舞い上がっていた彼は、重力からも自由になった。
自由落下の時間はすぐに終わって、細い糸の一本にて、彼は崖上から吊るされていた。それが今の現状だ。横を見れば、ミイの取り憑くアギーラも同様で、糸一本にプラプラと吊されている。どうやら嵌められたらしい。虫の張った罠に、引っ掛けられた。引っかかったと言うよりは、罠の方から突進してきたのであり、まさに引っ掛けられたのだ。
眼下では、打ち寄せる波浪が、岸壁に砕かれ飛沫が舞っている。塩辛い滴が冷たく荒れた風に混じって吹き上げてきた。強弱をつけて唸り巻き上がる力に翻弄されて、宙吊りの身体がクルクルと、風車の如くに回される。
頭上では、巨大な三匹の虫が、ギチギチギチと悍ましい牙を鳴らしている。ギークとミイを見えにくい糸で引っ掛け、崖を突き落とした犯人達だ。囚われ絶壁の宙に揺れている彼等は、傍目に見れば絶体絶命の危機だろう。
けれどもギークには余裕がある。ギークにとっては、物理的な拘束など脅威でも何でもない。隠形を使えばいいのだ。それだけで、虫共の糸は、彼の身体を取り逃がす。荒ぶる海中に落下することもない。幽体化した状態に、天も地も何も意味はないのだ。
しかしその一方で、ミイは見たまま絶体絶命の窮地にあった。
「ぎゃーーー!! ギー、ギーク! ヘルプ、ヘルプなのーー! たすけてーーー!!」
昆虫の習性には、最適化された幾つかのパターンがある。捕らえた獲物をさあどうする。毒だろう。毒を注入し、獲物を殺さず、しかし生かさずで生きた保存食を作り出すのが定型だ。そうしておいて、後は卵を植え付け子孫の餌とするのか、ゆっくりと時間をかけて貪り喰らうのか。
身動きのとれない中空にてジタバタと暴れて、ミイがギークに助けを求めた。上方から降りてきた虫の一匹が、まさに今、彼女に毒牙を突き立てようとしたからだ。
ミイがギークに助けを求める。これもまた、これまでではそうそうとなかったことだ。ギークは気分良く、しょうがねえなと、行動を起こすことにした。
もちろん放置した場合、虫は次には彼のところに来るだろう。仮に彼女アギーラの身体が朽ちるような事でもあれば、ミイは再びギークの中に戻って来てしまう。だから助けないという選択肢を、ギークが選ぶことはない。
だが、請われて動くと言うことは、彼の優越感を刺激した。やって当然という態度、その上ほとんど必ずひと言ふた言は文句が付いてきたのがこれまでのミイだった。
それがどうだ。隔世の感がある。この関係であるなら、そう悪いものでもないかも知れない。これまでの鬱憤によるバイアスで、そんな歪んだ感想さえ抱くギークであった。
「お、ら、よっ! と」
隠形による幽体化で、糸の拘束を外す。予想通りに、なんの問題もなく、彼の身体は自由を得た。そのまま宙を浮遊して、アギーラの、今はミイの、斜め上方へと移動する。
今にも彼女に牙を突き立てようという巨大な虫の、直上だった。大鉈を振りかぶった姿勢で実体化、振りかぶっていた大鉈を、虫の頭部に叩き付ける。固いものを叩き割った感触が、ギークの腕に伝わってきた。青緑色の体液が、盛大に吹き出し撒き散らされた。
ギークの奇襲は、ミイに襲い掛かる寸前であった虫の頭部を見事かち割る。しかし虫の生命力というものは凄まじい。人知を越えている。外骨格の巨体は、頭部を潰されつつもなおも蠢き、ギークに反撃を仕掛けてきた。
待機していた他の二匹もまた、フォローのつもりか頭上から降りてくる。
「洒落臭い!」
頭を叩き割った虫の体躯を踏み台に、ギークは宙に飛び跳ねた。例え足を踏み外した、或いは着地点の目測を謬ったとて、幽体化すればどうとでも補正できる。その余裕が、ギークの身ごなしをより力強いものとする。
頭上から降りてきた別の一体に飛び掛かり、何本かの足ごと胴体に大鉈の刃を食い込ませた。がっちりと食い込んだ鉈の柄を支点にして、空中にて身体を振り回す。
振り子のように身を揺すり、反動で虫の背に飛び乗った。その勢いのまま、虫の装甲に食い込んでいた鉈の刃を引きはがす。改めて大鉈を加護の力で強化し、滅紫色に染まった刃を虫の根幹の部分に叩き込んだ。
「次だな」
この一体については、これで終わり。まだ多少、ピクリピクリとは動いているものの、その内にくたばるだろう。
ギークに頭部を割られた最初の虫も、まだ生きてはいる。しかし出鱈目に足や触手を振り回しているに過ぎない。やはりその内に力尽きるだろうと思えた。次で最後だ。
仲間が殆ど瞬殺されたことに何も思うところはないのか、感情の浮かばない複眼でギークを捉えた最後の一体が、毒に濡れた牙を大きく開き、ギークに飛び掛かってきた。
迎え撃つギーク。そんな芸のない攻撃、誰が喰らうものかよバカめ。
「チッ」
舌打ちをしたギークが、盾を前にかざして半身を捩り、虫の攻撃を躱す。単に飛び掛かって来ただけかと思いきや、口から毒液を水鉄砲の様に吹いてきたのだ。
「ギャーッ 熱っ ニャーーー!?」
毒液の飛沫を多少被ったらしい。足下の方から、ミイの悲鳴が聞こえてきた。
崖の縁で襲撃をかけてきた巨大な虫。そいつらは、ギークからすれば明らかに格下の相手だった。三対一であり、相手の罠に嵌まった状況からの戦闘開始だったが、それでも手傷ひとつ負うことなく、危なげなく切り伏せて、撃退することができた。
だが問題は、その後に控えていた。
「うう、、、アギーラちゃんを傷物にしてしまったの、、、申し訳が立たないの、、、」
顔の火傷をやたらと気にするミイ。ギークから見るにほんの僅かな、すぐにも治りそうに見える軽い怪我だ。問題というのはそれではない。
このミイが、こんな崖なんて登れない、と主張したことである。
打ち寄せる波浪に削られたのだろう絶壁は、直角よりも更に抉れた角度で、弧を描いていた。確かに素手でこの崖を登るのは、ギークであっても至難と思えた。
ギークひとりであれば、アイスレクイエムの巣穴から脱したとき同様に、幽体化して空を浮かんで登ることもできる。しかしそれではアギーラの身体が運べない。
ミイを置いて、ギークひとりが崖上に登る事ならできる。しかしそれを試みるなら、どこかで距離の限界を迎え、ミイの意思はアギーラの身体からギークの中に戻るだろう。
それは気にせず、意識を失ったアギーラ身体を崖上から引き上げる。恐らくそれが妥当な解決策だったが、もし万が一引き上げている最中に糸が切れたらというリスクがある。
アギーラの身命に危険があるかもしれないようなことは、全力拒否というのがミイの構えだ。そしてギークとしても、万が一アギーラの身体が失われると言うことは、それすなわちミイが自分の中にまたしても戻ってきて、彼の自由が失われる事を意味していた。
その案はギークとしてもミイとしても、採用できるものではなかったのだ。
崖下に降りるしかない。故に、そういう結論になった。現在地点は絶壁の中腹辺り。虫の体躯を緩衝材にするなら、まだアギーラの身体の操縦になれたとは言い難いミイはギークが抱きかかえるとして、恐らくは何とかなるだろう。
それが、ギークとミイの目算だった。波浪打ち寄せる波打ち際であり、着陸できる範囲は極々狭く、強い風が不規則に吹き荒れていた。特に風のせいで、思った以上にそれは難しい事だったが、虫の死骸を下敷きにして何とか無事に、ギークは着地を成功させた。
崖を登るのは諦めて、下に降りた。そうすると次の問題としては、この崖下からはどこかに移動できるものなのかという点だ。ギークもミイも泳げはしない。仮に泳げたとしても荒波打ち寄せる海に入るという選択肢はない。
上から俯瞰した限り、暫くは歩いていけそうな砂利浜が続いていたのだが、どこかで途切れて仕舞わないとも限らない。そうなってしまえば立ち往生の懸念があった。
最悪、いったんアギーラの身体は安全そうな場所に横たえ、ギークおよびミイが崖上に戻って、それから別途アギーラの身体を確実に引き上げる事ができる方法を探すというのが腹案になるのだが、安全そうな場所と思ったら満潮で水没した、なんてこともあり得ないとは言えず、身体を安全確実に引き上げる手段にも特に宛はなく、それは他にどうしようもなくなったら詳細を考えようと言うくらいの案である。
「洞窟があるの」
「そのようだな」
崖下を歩いて暫く、ミイとギークは、糸に吊られて上から見下ろした際には死角だった辺りに、崖肌にぽっかりと口を開けた、黒い洞の入り口を発見した。
いわゆる、鍾乳洞というものだろう。つららの様な岩が数多、天井から地面に向けて、そして地面からは天井に向けて、乱杭に生えている。奥がどこまで続いているのか、入り口からはまるで見通せない深さがあった。