7-02. 言葉を乱す
人類のほとんど全部が絶滅した後、主は天地を繋ぐ最初の虹を立て、これは生き延びた信仰厚き諸君らに対する、不破の契約を証するものであると宣言された。
「さあ、その箱から出るといい。この地の上に暮らし、子を産み育み、大いに増えて、地に満ちよ。この虹は契約の証である。この契約の後、わたしは、あなたたちと、それに続く子孫末裔に至るまで、その全てを滅ぼす事は決してない。そう誓おう」
主は地に満ちよと仰せられたが、その誓いを聞いた者の孫の代には、早くも主の意に叛く者が現れた。叛く者は人々を一所に集めて、高い塔の上に座して君臨し、見渡す限りを支配しようと目論んだのだという。
「なるほど、彼等はひとつの民で、同じ言葉を話している。それ故にこのような事を始めたのだろう。ならば我々は下って、彼等の言葉を乱してやろう。彼等が互いに、相手の言葉を理解する事が出来なくなるように」
それを見て、主は斯様に仰せられたという事である。そしてそのようにされて、人々は各地に散ったのだと。
しかし現実を見ればどうか。我等はみな、今でも同じ言葉を使っている。カーラート人、パルロ人、ペイラン人、ロルバレン人。人種というのは幾つもあるが、けれど喋る言葉はだれでも同じだ。
「神話に言う、主が乱された<<言葉>>というものが、おそらく<<念話>>ギフトそのもの、或いはそれに良く似たものであろうという推測は、研究者達の間で以前からされていたものであるな」
ルベンとアシェルが念話水晶越しに意見を交わしているのを、シメオンはコーヒーを啜りつつ、聞くとはなしに聞いていた。
「そして、その事件が起きるまでは、主はまさにその乱された<<言葉>>を用いて、我等に語り掛けてくださっていたが、<<言葉>>が乱された事により、主の言葉もまた特定の選ばれし者にしか聞こえないものとなってしまったのではないか。なるほど傾聴に値する意見であるな。いい線をいっている、と思うのである」
「余裕ですね、ルベン兄さん。それ、結論は、<<洗礼>>こそが主と我等を遠ざける元凶になっているのではないか、と続くんですけど?」
「そう書いてあるのは我が輩にも読めるのである」
「異端審に掛ける事に異論があると伺いましたが、理由を聞いてもいいですか?」
「彼女、スタンゼル卿は、我が輩の研究の協力者なのである。いま居なくなられてしまうのは、ちょっと困るのである」
「そんなことだろうと思いましたけどね、兄さん。見逃すにも限度がありますよ? 彼女本人には手を出さないにしても、警告は与えます。いいですね?」
「教会本部はアシェルの管轄である。口を出して申し訳ないとは思うのである。良きに計らってくれると信じているのである」
ルベンも、アシェルも、この場には居ない。シメオンは声を聞いているだけだ。
彼等兄弟の主な拠点には、長距離の<<念話>>を支援する、念話水晶が設置されている。念話水晶は通話可能な距離を伸ばすだけではなく、本来は相互にしか聞こえない念話の通信内容を、他でも共有する事を可能にするものだった。
通信を終了すると、アシェルは意識の焦点を謁見の間へと移す。もう間もなく、来客のある時間である。教皇とふたりの枢機卿、およびその他大勢が、一堂に会していた。
定刻となり、本日の来客、最初のひとりにして最大の賓客が現れる。教会の総本山を守護する騎士、エデン辺境伯である。
「よくぞ参られた、辺境伯。お嬢さんの事は、大変に残念だったが、その後は如何であろうか。街に動揺があるようであれば、教会としても協力は惜しみません」
儀礼の挨拶の後、左の枢機卿、スタンゼルがまず声を掛けた。跪いていた姿勢から立ち上がり、顔を起こした辺境伯が、厳めしい顔付きにて掛けられた言葉に応じる。
「お気遣いには感謝するが、大過はない。<<唆すもの>>は悪魔の証。それを持つものが、まさか我が家に紛れ込もうとは、脇が甘かったと言うほかありません」
「スタンゼル卿、今日の話題は別件である」
不愉快さを隠さない顔付きで、鋭く自分と同格の枢機卿を睨み付け、その後エデン辺境伯へと目線を移した右の枢機卿、メルキデスが言った。
「エデン辺境伯、ご存じとは思うが、王都が邪竜アイスレクイエムの襲撃を受けた。厳密には襲撃されたのは王都そのものではないが、学園の生徒が多数犠牲になっている」
「そう聞いておりますな」
辺境伯が短く応じる。
「けしからん事に、その件で子弟を失った諸侯の中には、教会への不満を口にするものがいると聞いている。なぜあのような邪竜を討伐せず、好きに暴れさせているのか、とな」
「そのようですな」
メルキデス卿の言葉に、辺境伯は簡潔に応じた。
この謁見の趣旨、それはもう事前におおよそは分かっている事だった。
「各国には文を送っているが、貴殿は特に、この教会のお膝元の地を封ずる騎士であるからな、猊下が直接にお言葉を下賜したいとの仰せである。心して聞かれよ」
「ありがたく」
ちなみに、被害を受けた諸侯の不満の向き先は、教会だけではなく、どちらかと言えばそのより多くが、彼等の主君である王へと向けられたものだった。
しかしメルキデス卿がそれに言及する事はない。そちらは別段、彼にとっては、けしからん事、ではなかったからである。
そして教皇、レビ7世が口を開く。
「辺境伯。貴殿の、厚い信仰心を、余はよく分かっている、つもりです。どうか、お願いです。あなたの臣下の、皆さんの、怒りを鎮めてあげてください。悪いのは、邪竜なのですから。人間同士が、いがみ合うのは、よくないです」
教皇はまだ若い。さすがに幼いという歳ではないが、線の細い青年だ。
その声には力も重みも足りていなかったが、エデン辺境伯は神妙に頷いた。
「猊下の仰せられる事、まことごもっとも」
そして目線をメルキデスに向けて述べる。
「しかしメルキデス卿、ご存知であるように、皆が求めているのは具体的な行動だ。なにかそれが見えるような形で示されれば、理解も得られやすいかと思うが?」
「わかっておる。王が討伐隊を出す。教会はその支援に当たる。祝福を授け、レジェ鋼の武具を供出するだろう。アイスレクイエムの巣に陸路で向かうには、この地を越えて淀みの崖を下り、アロカナ山嶺を時計回りに迂回するルートを取る必要がある。そうだな辺境伯? 貴殿の騎士団こそが、誰よりも詳しい道程のはずだ。貴殿の部下には討伐隊の案内と、道中の護衛を任せたい」
「メルキデス卿、辺境伯は我等の配下ではないのですよ? 協力を求めるのが筋というものです。申し訳ない、辺境伯、あまり気を悪くしないで欲しい」
エデン辺境伯が何かを言う前に、スタンゼル卿が大上段な物言いをするメルキデス卿を窘めた。メルキデス卿は不愉快そうに鼻を鳴らし、眉を顰める。
「ご理解戴いているようであれば、不問としましょう」
腕組みをした姿勢で、辺境伯が言う。
「討伐隊を出すので援助してやって欲しいという話は、王からも書状を貰っている。そうであるからにはもちろん善処するが、それは<<亡骸の森>>の悪鬼共が這い上ってくる道だ。だからこそ厳重に封鎖をしている。通りたいというなら通してやるが、道中の安全など保証はできん。ましてこちらの戦力を護衛に割くなど不可能だ。関を空けた途端、こちら側にあふれ出てくるかも知れんものを抑える備えで手一杯だろう。それ以外の事をする余裕はない」
メルキデス卿の顔が怒りに染まる。
それに頓着することなく、辺境伯は更なる主張を続けた。
「討伐隊と言っても、単に有志を募るだけのものと聞いている。敢えて言うが、無謀の極みとしか思えんな。本気で古代竜の討伐に臨むつもりなら、王都で燻っている聖騎士を二人か三人でも寄越すように、教会からも要請してみてはどうか」
王都のある王家の直轄領は、魔境に接しているわけでもないのに、人類の最大戦力たる聖騎士が複数名配備されている、唯一の土地である。その数は四人。全員が王都の守護に当たっていて、魔の軍勢との最前線に居るエデン辺境伯からすれば、過剰かつ余剰の戦力としか思えないものだった。
「討伐隊には教会が支援を表明すると申したであろう! それが形だけのものに過ぎないといいたいか! 口を慎まれよ辺境伯!」
メルキデス卿が激昂し、教皇レビ7世が顔を青ざめさせた。スタンゼル卿が額に指を添えて嘆息する。
「事実を述べたに過ぎん。古代竜を斃せる可能性があるのは聖騎士だけだ。聖騎士でなければ古代竜などとは、まともに戦う事すらもできないだろう」
やれやれ、ダン兄の不始末が面倒な事になったものだ。謁見の間の成り行きを見守っていたアシェルは嘆いた。王家と諸侯、それに教会。関係は微妙なバランスの上に築かれている。ほどよく不安定で、付け入る隙のある緊張関係。今回の事件は、それをすこし揺るがせた。
古代竜アイスレクイエムが、どうして常になく南下し、王家の直轄領にまでやってきたのか、それは彼等にも分からない。しかも、まさかそれに運悪く王立学園の生徒が襲われ犠牲となって、子弟を預けていた貴族達が騒ぎ出す事態になろうとは。
どう調整したものだろうか。アシェルはアシェルで、それを考える。スタンゼル卿にも警告をしておく必要がある。彼女の研究熱心にも困ったものだ。今はそんな、余計な秘密に探りを入れている時じゃないだろうに。
スタンゼル卿を責任を取らせる形で処罰処刑して、教会に対する諸侯の不満を収めようというのが彼の計略だったが、長兄に再考を願われては無碍にも出来ない。
討伐隊への応援は、何かしているアピールとしてはもちろん悪いものではないが、失敗したときにリバウンドがあるのは目に見えている。しかも失敗するのはエデン辺境伯も指摘したように既定路線なのだ。
「分かった事が幾つかある」
所変わって、シメオンの執務室。ルベンとアシェルの通信が終了し、特にそれについてコメントする事もなかったシメオンであるが、彼は彼で現状の整理と、弟ナフタリが抜けた事の穴埋めをどうするかで、頭を悩ませていた。
そのシメオンの元に、ダンが訪れる。
「ルベンから確保を依頼されていた妖鬼、やはり現場にいたようだ。捜索を依頼された狩人が何人か残っていた。襲われて、やり合ったらしい」
ダンはここ暫く、憑依擬きの異能でナフタリの死の原因を探っていた。その方法は、世界を裏側から支配する彼等兄弟には似つかわしくない、地道な聞き込みである。
「ふむ? 当然Bランク以上の狩人なのだろうが、妖鬼を捕縛したという話は聞いていないな。逃げられたのか」
「逃げられたどころか奇襲を受けて、Aランクの狩人が1回死んだと言っていたな。<<不屈の誓い>>で蘇生したらしいが」
それは初耳だ。シメオンが不審を顔に出した。仮にもAランクのハンターが、Cランク上位のモンスターに過ぎない妖鬼如きの後塵を拝するものだろうか?
なにかありそうだ。後で確認しておくべきかも知れない。
「俺の方は結局、核心の手がかりは得られなかったが、ゼブルンに星読みをして貰っていた結果が出た。ゼブルンが言うには、どうやらその妖鬼らしきものは、古き邪神の一体を従えており、ナフタリを害したのはそれに違いないというのだ」
「邪神だと?」
意外な単語にシメオンが問い返せば、ダンは昏く嗤って告げた。
「魔境から這い出してきたのか、どこかから掘り返されたのか。俺があの廃墟を調べ始めたときには、既に影も形もなかったがな。俺はこれから、そいつの探索に当たらせてもらう。なにか貰える助言があるのなら、聞きたいが?」
そのダンの言葉に、シメオンは少し考えてから応える。
「……私の方でも、邪神に関する記録を調べてみよう。何か分かったら伝える」
ダンは頷く。
「だが、探すにしても宛はあるのか? 今のところ、それらしい情報はなにも聞こえては来ていない。とすれば、普段は表立っての行動はしていないのだろう。息を潜めて、力を蓄えているような状況だと予想されるが」
「居所に心当たりはないが、探す手段になら宛がある。天狗どもを使わせて貰うぞ。あいつらなら、邪神の意思を拾えるはずだ。猟犬役に丁度いい」
予想外のダンの発言に、シメオンが身を乗り出す。
「まてダン、それは」
「木っ端の何匹かを借りるだけだ。脅迫ではなく、手土産を持っての交渉でな。俺が直に赴くつもりもない。まだ、正面から事を構える時期でないのは理解している」
浮かせた腰を戻し、シメオンが忠告する。
「無理はするな。ナフタリに続き、お前まで失うような事は、断じてあってはならない」
忠告に頷き、そしてダンは踵を返してシメオンの執務室を後にした。残されたシメオンは目を閉じて黙考する。
今起きている出来事には、なにか関連性があるのだろうか。すべては偶然なのか。彼等の他に、なにか企みをもって駒を動かしている指し手が居るのだろうか。
居るのだとすれば、相手の狙いは果たして何か。他の兄弟達とも情報の共有が必要だろうな。シメオンはそう考え、念話水晶を起動させた。