6-13. 食べられてしまった、なの
ドラゴンが、自らの足で牢へと戻って行く。
分厚く大きな爪で整地された土が抉られ、地面に傷痕が刻まれる。
座長なのだろう人物が、帽子を片手に観客達にお辞儀した。
にこやかに、けれども誇らしげに。
観客達は、万雷の拍手でそれに応じた。
パチパチパチパチ。
パチパチパチパチパチパチ。
あの城市で興行と言えば、城門前の広場でというのが常だ。
しかしこの時は、ドラゴンの鋭い爪が、広場の石畳を削ってしまいかねないということで、練兵場の一角、グラウンドを借りての開催だった。
やや手狭な観客席は満員御礼、実に盛況だったのを覚えている。
「ドラゴンライダーって、もう響きからしてカッコイイわよね!」
弾んだ声で、楽しげに、ミアが笑った。
ミアはいつでもとても可愛い。
「飛竜じゃなかったのは、ちょっと残念だったけどね!」
そんな一言を付け加わえて、ミアがその笑顔をクラナスへと向ける。
その日のミアは、普段になく地味な格好だった。
縫製ものではないワンピースを、帯で締めて体に沿わせていた。
まあつまり、今時の姫君には相応しくない、野暮ったい服装だった。
でも大丈夫、そんなことは関係ない。
ミアの魅力はその程度の事では全く損なわれないのだ。
野暮いミアの服装は、もちろん変装だ。
お父様も、兄様たちも、観覧には出向かなかった。
ならばミアがいていいはずの場所ではなかったからである。
「さすがに飛竜を街の上空に飛ばすような事は、問題があるかと」
拍手の手を止めて、クラナスがミアに応じた。
そう応じるクラナスの服装は、いつも通りのメイド服。
思うにクラナスの服装にも、もう少し気を配るべきだったかも。
当時は全く思い至らなかった事だが、分かる人には分かるはずだ。
そのメイド服が、さて何処の館で働くメイド達のものなのか。
まあ、仕方がなかった。
僕やミアは、メイド服というものをとにかく見慣れすぎていた。
だから、それがどこに居ても、全然違和感を感じなかったのだ。
どこにでもいるものだと、あの頃は普通に思っていた。
「あら、ちゃんとお互いを理解し合えたなら、問題なんて起きないはずよ」
ミアが、可愛いく唇を尖らせて、そんなことを言った。
これはあれだ、一番最近に読んだ、英雄譚の影響に違いなかった。
それはある善良な飛竜と友誼を交わす飛竜騎士の物語。
ある時代に、竜族を束ねて支配し、人の世を餌場にしようと目論む邪悪な竜王がいて、そんなことは許されないと、立ち上がった勇者がいた。
手ずから卵を孵し、共に育った飛竜に跨って、強大無比な竜王を討ち倒す冒険に挑む主人公。
そんな筋書きの英雄譚だ。
苦楽を共にした飛竜は最後、主人公の身代わりとなって命を落とす。
庇われた主人公が竹馬の友の死を悼みつつ、最後の決戦に挑むという辺りで、その物語は終わっていた。
そこで終わるんかい! と突っ込んだのが記憶に新しい。
まさかあれで最終話ではあるまいな?
続編はまだかと騒いだものだ。
さすがに今後、たとえ続編が刊行されても目にする機会はないだろう。
無念である。いや、まあちょっと残念というだけだが。
「お嬢様、恐らくそれは難しいでしょう。飼い犬ですら、飼い主の手を噛むことはあるものです」
その背景を預かり知らないクラナスが、ごく真っ当なことを指摘した。
(全然不満なの! あんなのちょっと大きなトカゲなの。あーんなのに跨ってヒイヒイ言わせて、それで我はドラゴンライダー也ー! とか宣言できる図々しさこそが驚嘆に値するの)
僕は僕で、不満を主張した、んだったかな?
違ったかも。内心でそう思っただけだったかも知れない。
その時の僕が、何でそんなに不満だったのかも、曖昧だ。
ミアと過ごした日々、その記憶がぼやけ、鮮明さを喪っていく。
それは耐え難い悲劇だが、しかしどうしようもない事実であった。
大切な大切な思い出も、他のあらゆる記憶と平等に扱われる。
時間に押し流されてしまう。流れの底で揉みくちゃにされてしまう。
一片たりとも失いたくはない。
なのに勝手に削られて、角が取れて丸くなる。
どんどん擦り切れて、色褪せていってしまう。
流れから拾い上げて、避難させようと試みるけれど。
忘れないように、いつでも思い返す努力をしているのだけれど。
でも結局、僕の掌には持ち切れないなくて。
落としてしまう。その度に、慌てて拾い直すのだ。
けれどその都度、少しづつ劣化していってしまう。
泣きたくなる。どうしたらいいのか分からない。
どうしたらいいんだ。
「そうかしら。でも、騎士様たちは馬と友情を育むのでしょう?」
僕の文句だったか、内心の訴えだったか。
それを完璧にスルーして、ミアが言った。
「同じ様に、ドラゴンと心を通わすことだって、できても良いんじゃないかって思うけど」
クラナスとの約束だ。
ミアは人前では僕に話し掛けてくれなくなっていた。
婉曲的に応じてくれることはあったけれど、時々の事だ。
だからミアが僕の言葉に反応してくれた覚えがないからといって、僕が内心でしかケチを付けていなかったということの傍証にはならない。
いや、まあその辺りはどうでもいいのだが。
「竜に限らず、肉食の生き物を飼育する、養うというのは難しいです」
ミアの疑問に、クラナスが応える。
この頃のクラナスは、もう自分が元騎士であることを隠すのは辞めていた。
それで、ミアが尋ねれば結構なんでも答えてくれたものであった。
「昔には試みた方も居られたようですが、専門家が専用の施設で短期間囲うのが精々と言う所だったそうですから、軍隊という規模での維持などは不可能なのでしょう」
どこがイイのかという類の、僕の質問は悲しい事にシカトされ続けていたが。
「そうなの? 残念ね」
クラナスの説明に、ミアが小首を傾げる。
「でも人間だって、肉好きな人も野菜好きな人も居るじゃない? 飼葉が大好物なドラゴンとか居ないのかしら」
さあ、どうでしょう?
クラナスが微かに笑ってから応じた。
「居るのかもしれませんが、しかし聞いたことはありません。考えてみれば、不思議ですね」
なんでそんな過去の情景を、今この瞬間に思い返したのか。
クラナスが付け加えてミアに告げた、その一言が今、とても重要なのだ。
「ああでも、古代竜は死ぬことがなく、そもそも食餌すらも不要だとの主張を、何処かで目にした覚えがありますね。真偽の程は分かりませんが」
古代竜が果たして食餌を必要とするのかどうか。
つまり、いま重要なのはそこである。この上なく重要だ。
不死身なのかどうかは、この際どうでも良い。
食餌が不要であってほしい。
不要というか、不可能であるべきだ。
願うのは、最早それだけ。
その是非には、命運が掛かっている。
もうなんか、何か口にしたとしても!
それは原型違わず、お尻からプリッと出て来るべきじゃないかな!
だって食べなくても死なないんだったら!
消化する必要も無いはずなのだし!
ここはもう、是非そういうことでお願いしたい。
「ハッ、お前で最後だ! 見たかこの!」
全ての青銅牛が崩れ落ちた後、焼け焦げ荒れ果てたその場所で快哉の声が上がった。
「ウオォォォ! やったぞーー!!」
「こんなものか!? 大したことなかったな!」
続々と、勝利を喜ぶ雄叫びが上がり始める。
敵を殲滅。味方に犠牲者はなし、軽傷者が数名いるくらい。
Cランクのモンスターの群れを相手取っての戦果だ。
お見事と賞賛を送りたい。
エデナーデの騎士達には、他国の騎士を未熟と見下す傾向があったけれど、この彼等の今回の戦いぶりを伝え聞けば、認識も改めるのではないか。
それくらい、学生達の統率と奮闘ぶりは大したものだった。
問題が起きたのは、その後だ。
勝って兜の緒を締めよというが、それが足りなかったのか。
しかしどうあれ、違う結果が用意されていたのかは甚だ疑問だ。
真っ暗だ。真っ暗で何も見えない。
とてもとてととても居心地が悪い。形容できない居心地の悪さ。
いつまで経ってもこのままだったら、きっといつか気が狂う。
誰か、誰か助けてほしい。そう長くは保たないぞ。
さっきから、ギークは無言だ。
身動きがろくに取れないのは当然として、声も出さない。
ここはひどく息苦しいから、呼吸も最小限にしたい。
だから喋るために口を開くのも止めている。
そんな感じだろう。多分。
「霧?」
学生達が青銅牛の群れを全て打ち倒し、ハイタッチでお互いの健闘を讃え合っていた、そんな最中に誰かが気付いた。
そしていつの間にか、気が付いたら、あっという間に。
足元に靄が流れ込んで来たかと思った、間もなくの事である。
霧が何もかもを覆い尽くした。
横たわる青銅牛の屍も、戦勝に湧く学生達も。
そして、出番がなくて憮然としていたギークのことも。
「オイオイ、何だこれ。まるで視界が利かないぞ?!」
誰かが喚いた。
「こっちもだ! ダメだ、何も見えない!!」
雲が地上に降りてきたかのような中、声だけが行き交った。
それは、余りにも突然の事だった。
「各自、霧が晴れるまでその場で待機! 霧が晴れたら寮ごとに集合して点呼を取れ! 下手に動くなよ!」
遅れて指示を飛ばされる。
人里にはだいぶ遠い。
視界が効かない中で、集団から逸れることは言うまでもなく危険だ。
例えばそう遠くもない場所には川があった。
そう大きくはないにしても池沼だって点在していた。
さまよい歩いて落水しては大事だという判断だろう。
だから、その指示は順当なものだったと思う。
学生達に、際立ったミスなど無かった。
ただ、正解がなかったのだ。
「うわっ、何だコイ……ッ、ガッ、ギャアアアアアアッ!!」
「ぐわぁあああっ?!」
濃霧の中で、所々から悲鳴、断末魔の絶叫が上がり始めた。
戦勝を喜ぶ場は急転直下に修羅場と変わる。
霧で視界が利かない。何が起きているのか、さっぱり分からない。
「モンスター?! なんだこの化物は?!!」
何だ?! 何が起きている?!!
騒然となる中、やがて答えが叫ばれた。
霧の中には、それが居た。数多、数多、とにかく数多だ。
(無理、こんなの無理なの!)
僕は喚いた。<<地図>>のギフトで、僕には分かっていたのだ。
信じ難い事に、包囲されていた。
数百数千、とても数え切れないほどの何かにだ。
そしてそれらは、問答無用だった。
問答無用に襲い掛かってきた。
とんでもなかった。
「襲撃を受けているぞ! 各自、可能な限り寄って集まれ! 円陣を組んで敵襲に備えろ!」
学生達の指揮官が、号を飛ばし鐘を鳴らした。
その是非は僕には何とも言えない。
活路があったのかどうかさえ、僕には分からない。
「何が無理だこの阿呆、警告なら、分かるように言いやがれ!」
ギークが僕に怒鳴った。
眼前に湧いて出てきた氷の骸骨を体当たりで粉砕する。
見通しの悪い周囲を睥睨しながらだ。
爪が、牙が、剣の刃と槍の穂先が、集ってくる。
それらはすべて氷の凶器。
それを構え、或いは振るう者共の全てが氷の化物だった。
(数! 数が無理なの! 多すぎなの!!)
「くだらん! もっと役に立つことを言え!」
ギークが無茶を言う。
役に立つことって、具体的にはなんだよ。
ギークは落ちていた青銅牛の遺骸を武器として振り回す。
ワラワラと寄ってくる雑兵を吹き散らした。
ギークが巻き起こすその暴風が霧を掻き混ぜる。
ガシャン、ガシャンと、魔氷の竜牙兵の身体を砕き壊す。
遠心力のままにそれを放り投げた。
付近を駆け回るオブジェに的中。
獣の骨格を形作っていたらしきものが打ち潰される。
「こいつらは何だ……? バラバラにしてやったはずだが、蘇るぞ!」
どうすれば倒せる?!
果敢に戦いつつギークが聞いてくる。
そんなこと聞かれても、僕だってわからない。
(分かるわけないの! うー、いや、ちょっと待つの)
ギークの問に、なにか記憶に引っかかるものを感じて僕は少し考え込んだ。
際限のない氷の軍勢。そうだ、その表現には心当たりがあるぞ。
(氷、氷の化物、、、もしかして、アイスレクイエム?)
その名に思いが至った瞬間だ。
元凶が、空から落ちてきた。
それは、青白い、鱗に装甲された、巨大な竜だった。
「何ッ?!」
呆気にとられたその隙に。
おそらくは不覚にも、ギークの身が竦んだその一瞬に。
アギトがバクンと、ギークを咥えた。