6-11. 凶報に接する
最近、雨の日が多い。
濡れた窓の向こうを、エルシアは暫し眺める。
今日も雨。残念だ。そろそろ運動不足が心配になってきた。
この雨が止んで日が差せば、虹が見れるだろうか。
暖かくもなってきたし、期待できるかも知れない。
そうなると良いなと思う。
「トール、元気にやっているかな」
向こうに残った、旧い友達の事を考える。
手紙を出したいのだけれど、向こうには届かない。
エルシアとしては、全く実に、大いに不満である。
もちろん、虹がもし見れたとしても、それを越える事は適わない。
するつもりもない。次があったら、戻って来れないかも知れない。
ただ、虹を目にする度に、その向こうの事を思い出すだけだ。
「こっちにだって、遊びに来てくれればいいのにな。どこにだって、連れて行ってあげるのに」
そう思う。
小さい時の話で、あまり覚えてはいないけれど、向こうの人達はみんないい人達だった。
もっとお互いに歩み寄れればいいと、そう思うのだ。
お兄も居ないし、外は雨だ。
今日も日課は、お休みにするしかないだろう。
鈍ってしまわないように、何か対策を講じるべきかも。
「でも、部屋の中で暴れちゃ、皆も迷惑だろうしな……」
もちろん、生活指導の教官に見つかった日には、大目玉も確実だ。
そんなに派手なことをするつもりは無いけれど、熱中してしまうと周りが見えなくなる悪癖には自覚がある。
始めてしまったら、どんがらがっしゃんとなるまで没頭しかねないと自分でも思うので、控えておく。反省文を書くのはもう嫌だ。
学園での生活は楽しい。けれど、こと運動に関しては色々と不便だった。そもそも女生徒の場合だと、学園からの外出にも一苦労がある。
エルシアの主観で言えば、王都はここから目と鼻の先という距離にある。
しかしその王都に出向くのでさえ、許可を貰わなければならない。
そこまでは男子も同じだ。しかし許可の貰いやすさに違いがある。
女子が学園の敷地からの外出許可を得るには、いちいち護衛だの、馬車だのの手配が必要だ、という話になるのだ。
とてもとても、面倒くさい。
その辺り、男子が羨ましい。
男子であれば、どうやら外出目的を形式的に告げるだけで、大抵は許可されると言うのだから不公平である。
「とんでもない! 何を言うのです! そもそもフラフラ遊び歩くような真似を許せるはずがないでしょう!!」
思い出すだけでも、キーンと耳鳴りがしそうだ。
なにもそんなに怒鳴らなくたっていいじゃないかと思う。
午後からは、また礼儀作法の授業がある。
昼前には友人達と、課題に一緒に取り組む約束をしている。
その時間までは、予定はない。
それまでの間、さて何をしていようか。
エルシアは、少し考える。
うん、今日もイメージトレーニングでいいだろう。
そうしよう。
意を決して、軽やかに窓際から踵を返す。寝ているルームメイトを起こさないように、足音ひとつ立てることなく。衣擦れの音も極々僅かに、しかし素早く着替える。静かにドアを開け、そしてそっと閉じた。
気配を消して、卓絶した技能で静粛に、廊下を進んで階段を降りる。たとえ途中で誰かとすれ違ったとしても、エルシアの方から声を掛けなければ気付かれることはない。誰に見咎められることもなく寮の入り口まで来て、エルシアは護衛官の女性と挨拶を交わす。
「おはようございまーす!」
「あら、おはよう。今朝も早いわね。また教会?」
なんですかその挨拶は!
生活指導の教官に見つかれば、きっと叱られる。
でも大丈夫、全然平気。
「うん、そのつもり。レインコート、ひとつ借りるね」
護衛官の彼女は友達だ。
だいたい、見つからなければ良いのだもの。
「はいはい、アタシがアンタの心配なんかしてもあれだけど、まあ気を付けてね。スッ転んで泥まみれにならないように」
玄関脇にたくさん吊るされている共有品のレインコートをひとつ手に取って、スルリと羽織る規格外の姫君に、苦笑いしながら護衛官の女性が言う。
「あはは、まあ前科があるからね、うー。はぁーい、気を付けまーす」
ふくれっ面で、唇を少し尖らせながら、エルシアは不満気に、ちょっと投げやりにその忠告に応じた。
辺境伯は一国家の君主である。
だからその長女であるエルシアは、紛れもなくお姫様だ。
他の誰より、それらしくはないにしても。
セルバシアとエルシア。セラト辺境伯の次男と長女。
彼と彼女は昔、幼い頃に、ふたり揃ってこの世界から攫われた。
取り替え児、あるいは神隠し。そうした類。
数年経った後に彼等は帰還したのだが、言葉すら失くしてしまっていた。
そこから持ち直して、現在だ。
普通なら家で教育出来るので学園に出されることは少ない身分の彼等が、学園に入るなら入るで初等部からが普通である所、高等部からの編入になった理由でもある。
「何それ、つまり厄介払いされたってこと?!」
念話の特訓と言う事で黙ってしまって、近頃はめっきりと口数の減ってしまったレーサリィだが、本来は別に物静かな方でもない。
ルームメイトになった初日の夜、掻い摘んだエルシアの身の上話に激昂して、そう詰め寄ってきたものである。
「弟や妹の目があるからね。仕方ないよ」
そんなレーサリィに、パタパタと手を振って、あははと苦笑しながらエルシアは応じた。
「だって年長になる私達が、自分達がもっとずっと子供の頃に仕込まれた、お辞儀の仕方だとか、食事のし方だとかで四苦八苦している姿を見せるのって、それはそれで良くないじゃない?」
「それはそうかも知れないけれど……」
釈然としない表情ながらレーサリィが引き下がって、以来彼女はエルシアの友人で、そして頼りになる庇護者である。
不憫に思われてという事なのだろうけれども、面倒を見てもらえることは大変に有り難いことで、エルシアはいつも感謝を欠かさない。
機会があれば、恩返しもしなきゃねと思っていた。
レインコートを羽織り、石畳の道を幾分か慎重に歩く。
それは、学園内にある教会に続く道。
しとしと、しとしと。
取り留めなく、空を雨が流れている。
主観的には慎重に歩いているのだが、客観で見れば雨粒さえも躱すかのような身軽さで、跳ねるように小道を往くエルシアだ。
目的地にも直ぐに到着した。
雨の日に見上げる教会の建物は黒黒としてどこか不吉。
神聖な場所と思って見れば厳粛で心強くも思えるのか、見た目から受ける印象なんて、本当に宛にならない。適当なものだ。
色んな事が、見た目から判断されてしまう。
それは悪いこと? どうだろう。それはそういうもので、仕方ないのかもしれない。
身だしなみがキチンとしているから、あの人は生活には余裕があって教養があるのだろう。
そうじゃないから、自分のことも満足に面倒が見れない奴に、他人の面倒が見れるわけが無いだろう。
腕が丸太のようで人相が悪いから、揉めると暴力を振るわれそうだ。
太っているから金銭を持っているはずだし、追い駆ける足も遅いだろう。
あの青瓢箪は如何にもだから、ちょっと押せば無理も通るのではないか。
誰かから好意的な評価を得たいのなら、相応に努力すべきだ。もっともな話だと思う。そしてその努力には、見た目を良くするということも含まれる。
立ち居振る舞いの礼儀作法、装いもまたコミュニケーションの手段だと学ぶ。具体的にはと、色々な常識を学んでいる。
苦手な授業なのだけれども、それはきっと正しい。見た目を取り繕うのも、いわばひとつの言葉だ。大切な場には相応な格好で臨むべき。きちんと身嗜みを整えるのは、それが大切な場だとキチンと理解していますよというアピールだし、それ故に最低限のマナーなのだ。
この世界で生きていくなら、きちんと学んでおかなければいけない。
でも、それとは別に、見た目のちょっとした違いなんて、些細なことだとも、エルシアは思う。
もともと同じ人なんていないのだ。難しい話はよく分からないけれど、どこまでが許容されるのか、つまりは受け手の度量の話じゃないか。
さっき思い描いた旧友、トールの事を考える。
私たちの世界は異端に厳しい。
背が高いとか、低いとか。肌の色が何色で、髪の方はどうだとか。
後からの努力で変える事の難しい事までが、判断材料にされていまう。
酷い話だと思う。
髪がボサボサでフケだらけということよりも、髪の色が同じか違うかと言うことのほうが重要視されてしまうのはどうしてだろう。
敵対している部族に多い色合いの人間と話している、同族らしい誰かを見かけたなら、敵方のスパイと疑う心理は当然かも知れない。
疑われるような行動は避けるべきと考える、その思考はきっと順当なのかも知れない。
理筋としては何も間違ってはいないのかも知れないけれど、でもきっと何かが間違っている。
うまく言葉にできないけれど、納得のできないことだ。
そんなのは窮屈じゃないか。
だってコミュニケーションというのは、自分の世界を広げるためにあるべきもののはずじゃないか。
嘆息して回想する、夢の中であったかのような幼い日々。
自分があの世界を再訪することは果たしてあるのだろうか。
お探検家になって、こちらからの入り口を見つけるんだって、お兄は昔、そんな事を言っていた。けれど、ミアさんの事件があって以降、諦めてしまったようだ。
私たちの世界は異端に厳しい。
ダメだ、入り口なんて見つけちゃいけない。
たぶんお兄は、そんな感じに折れてしまった。
なんとかしたい。
でも正直、私にはどうしたら良いかわからない。
「あら、雨の日に熱心ね。感心するわ」
「お邪魔しまーす。ここ、借りていいですか?」
整然と並ぶベンチのひとつ、その片隅を示す。
修道女のお姉さんに尋ねて、どうぞと頷かれたので腰掛けた。
雨の日に、雨の日なのに、わざわざ教会に朝早くから来るなんて。
感心というのはつまりそう言う意味だろう。
別に、お祈りに来たわけではないエルシアである。
ゴメンナサイと内心で謝った。
目を閉じて、さあ始めよう。
空想の中でも、最初はまず準備体操。それから演武の開始。
イメージするのは、一段階上の身のこなしができる自分の姿だ。
想像の中でエルシアが振るうのは、身の丈よりも大きな鎌。
現実ではそうそうと持ち出せないが、空想の中では自由で自在だ。
その鎌は銀色の光で出来ている。
セルバシアの本来の武器である銀光の大剣と同じ。
次元断ち切る実体無き秘跡の顕現だった
……
「ドラゴンの襲撃?」
午後の授業が突然に中止となって、各々に寮の自室での待機が命じられて暫く。
特定の生徒だけが呼び出されたらしい大講堂の、一番前の席に腰掛けていたエルシアは、告げられたその一文を瞠目して反芻した。
まさか?
その一報は、早馬によって蒼天の霹靂にもたらされたらしい。
ドラゴンに襲撃を受けたのは、学園ではない。
学園から離れて、実地演習、遠足と通称されるそれに先日から参加していた学生達だということだった。
お兄、セルバシアも含まれている。
エルシアは緊張に表情を強張らせた。
今は蒼天どころか、空は重い雨雲に覆われていて、朝よりも雨足は強くなっている。それこそ何時どこに落雷があっても不思議ではない天候だ。
こんな中を鞭も忙しく駆けてきたのだとすると、速報の早馬も命懸けだったに違いなく、事の切迫具合が知れる。
大講堂に集められた皆の多くが、耳にした知らせの意味が理解できるや、叫んだり泣き出したりし始めた。
なるほどつまり、この場に集められたのは犠牲になった、かも知れない学生の兄弟姉妹、血縁者であるようだ。
「そんな……、大変! エル、エルシア、どうしよう!?」
泣き出しそうになっている、隣の席の学友に手を握られて、エルシアは震えるその彼女を抱き締めた。
カタカタ、カタカタ。
彼女はか細く震えている。
大丈夫、きっと大丈夫。エルシアは彼女に囁く。
もちろん、なんの根拠もありはしない。
けれどそれは、心の支えになる祈りの言葉だ。
「残念ながら、生存者に関する情報はない。現場は吹雪が吹き荒れ、氷の怪物共が徘徊する極めて危険な状態だったそうだ」
壇上に立つ学長が淡々と、しかし断固たる口調で言う。
「ほぼ間違いなく古代竜、北の地に巣食う<氷結の鎮魂歌>の仕業だろうという事で、程なく国中に緊急事態が宣言されることになるはずだ。もちろん、諸君等の兄弟を思う心を、我々としても支援したい気持ちはある。だが、一律に外出禁止令を出さざるを得ない。例外は認めない」
一瞬静まり返ってから、誰かの怒声を皮切りに、騒然となった。
「ふざけるな! 見捨てるというのか!?」
「い、いやぁァァアアアアッ!!」
「どういうつもりだ学長! 学園が生徒を軽んじるのか!」
普段、学長に面と向かって噛み付く者など、学園には居ない。
しかし今回は事態が事態である。
何人かは、掴みかかろうとでも言うのか、席を蹴って壇上に詰め寄りさえした。
「愚か者ッ!!」
エルシアは咄嗟に障壁を展開する。
彼女は学長に詰め寄ったりはしていなかったけれども、最前列にいたのでまともにソレを喰らいそうになったのだ。
果たして学長の一喝をまともに喰らった幾人もが、吹っ飛んで宙を舞う。
ドガガガガラガシャーンと、大講堂の色んなものが破壊された。
「遭難者の救援に親族を随行させないのは当然だ! 引き際を見誤って二次災害を引き起こすだけだからな! 諸君等、特に今詰め寄ってきた者は、一体この学園で何を学んできたのか!?」
その説教は、肝心の相手には届いていないだろう。
おそらく、凄絶に気を失っている。
まあ、取り敢えず、場は静まった。