6-05. ハレルヤ
天を覆うは赤黒く分厚い雲。
赤く輝く雨が、地上に向けて囂々と降り注ぐ。
クロツァードは呆然として、その有様を傍観していた。
「彼女と姦淫を行い、贅沢を恣にしていた地の王たちは」
白金の髪を腰まで伸ばした怪人が唱える。
「彼女が焼かれる煙を見て彼女のために胸を打って泣き悲しむ。そして彼女の苦しみに恐れを懐く」
その金色の瞳に映るものは何か?
涙など微塵もない。恐れを抱いてもいない。
「彼女から富を得ていた商人たちは、その有様に泣き悲しむ。災いだ。ああ災いだ。心血注いで築いた全てが、一瞬にして失われた」
悲しみは欠片もない。悔悟も見出だせない。
「舟で働く全ての人たちは、彼女が焼かれる火の煙を遠くに見て叫ぶ。なんてことだ、誰もが彼女から利益を得ていたのに。これで台無しだ」
彼の言う彼女とは街である。
沢山の人々が暮らす、活気と熱気に溢れていた場所だ。
「ハレルヤ。素晴らしき哉。罪の穢れは煉獄の火によりて清められる」
それがいま炎を噴いて、黒い煙に包まれて、苦しみに悶えている。
怪人は底暗い歓喜と期待の光とを瞳に湛えて、それを見ていた。
ドォォォォーーーン!
ドォォォォーーーン!
何故か、所々で爆発も起きているようだった。
「天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ」
遠くで、色んなものが吹き飛ばされているのが見えた。
「大いに喜べ! ハレルヤ! 神は、あなたがたのために裁かれた」
降り注ぐ雨。それは燃え上がる焔の雨にして火の雫であった。
そしてその白い怪人は、クロツァードを一瞥して言った。
「さあ猟犬よ。鬼が飛び出してくるのだろう? 待ち受けて捕らえよ」
彼は突如として現れ、唐突に力を振るい、今その結果を見守っていた。
火の雨を降らせる雲を空に生み出したのが、この怪人である。
まず、彼は両腕を天に伸ばした。するとその掌が向く先に光が生じた。
轟音が空を引き裂き、そしてあっとういまに黒雲が形作られたのだ。
都市ナフタリアス。
その場所には、つい先刻までは喧騒あふれる市があった。
その場所には、今や炎熱地獄さながらの阿鼻叫喚がある。
着の身着のままに焼け出された人々が、命からがらに溢れ出す。
城門から、続々と、押し退け合い、絶叫して、泣き喚きながら。
誰かの肉を踏み付け、臓腑と血に滑り、骨を砕きながらだ。
彼等は、命こそ助かったかもしれない。
けれど命以外の多くのものを失ったはずである。
もちろん、財産だけの話ではない。
愛しい子供、大切な人、信頼できる友人、尊敬する恩師。
かけがえのない数多を奪われたに違いない。
それは何故? いいや、待ってくれ、俺のせいじゃない。
俺は単に報告をしただけだ! クロツァードは心の中で訴えた。
「その獣は昔はいたが今はいない。やがて底知れぬ場所より這い出て終には滅びに至るものである。ここに、知恵のある心が必要である」
怪人が呟くその文言は、どうやら黙示録のものである。
ああ、たしかに今、眼前で起きているこの街の滅びはそうだ。
滅びる退廃の大都と仮託されるに相応しいものかもしれない。
だがこれを為したのは神なのだろうか?
この街、ナフタリアスは、誰の意思によっていま惨劇の中にあるのか。
「コロシアムより脱走したという標的が、この都市にいるのは間違いない。奴はこの街の何処かに潜んでいるが、しかしどこにかが分からない状況だ。追跡に気が付いて、息を潜めているものと思われる。<<追跡>>が撹乱されているため苦戦している。可能ならもう少し人手が欲しい」
鳩にそんな報告を運ばせた。それがクロツァードのやったこと。
その因の果がこれだというのか? そんなバカな話があるか。
「……この事態だ。他のメンバーが動揺しているだろう」
仲間達《他のメンバー》は南北の城門付近に、ふたり一組で待機しているはずだ。
動揺しているのは自分もだが、辛うじて勘定には含めない。
「妙な考えを起こさないよう、言い聞かせてこよう。そうでないと、いざ鬼が出た時の対応に遅れが出るかも知れませんのでね。出来れば、街中の捜索にも乗り出したいが、この火が鎮まるのはいつ頃となりますか」
クロツァードの質問に、白き怪人が応えた。
「明日には止むであろう。地に燃え移りし後の事までは知らぬがな」
クロツァードはその回答に呆気にとられる。
これが一晩続くって? 何もかもを灰にしちまうつもりなのか?
「……今のところ、標的の動きは感知できません。地下倉の珍しくない街だ、潜られちまったのかも知れない。その内には這い出してくるだろうが、備蓄が尽きるまでは粘られてしまうかも。それまで貴殿はどうされる? ナフタリ殿」
クロツァードが訊ねた。
怪人は、この都市の名の由来となった聖人の名を名乗っていた。
本人? まさかそんな馬鹿な。けれどクロツァードはそれを糺さない。
「わたしは主の御心に従う。猟犬よ、お前はお前の仕事を果たすのだ」
取り付く島もない回答。
ならば構うまいと、一礼してクロツァードはその場を辞す。
この怪人が聖ナフタリ本人だということはあり得ない。
聖ナフタリなど、何百年も前の、伝説上の人物だ。
しかし教会における何某かの権威であることは明白であった。
なにゆえに明白か? この人物は<転移門>を使って現れたのだ。
発動する都度に生贄が必要となるそれ。
それは教会が厳重に管理する秘蹟のひとつである。
それは建前上では、国家級の危機でもなければ使われない。
それを使って現れたのだ。どんな疑問も持つべき相手ではないだろう。
それはもはやその時点で、自明というものだった。
「野良犬には屍肉漁りも相応しいが、さて、猟犬と言うからには、狩猟が役に立つべきだな」
ナフタリと名乗る怪人が、クロツァードが立ち去った方を一瞥して呟いた。
「箴言に曰く、犬が自分の吐いた物の元へと帰って来るが如く、愚者は自分の愚かさを繰り返す」
すぐにまた、黒黒とした煙立ち昇らせる、自身の名を冠した街に視線を戻す。
「愚か者に何を期待することもないように、誰が躾けたかも分からぬ汚れ犬に期待する事など、本座としてはありはしないのだがな」
長兄の意向だ、無下にはしないがね。目線を戻しつつ、そう続けた。
「モンスターの捜索を続行するだと?! 何をバカな。あんたの目はどうなってんだ? 鼻は? 耳はどこにやった?! それとも口の問題か?!」
クロツァードはまず、南門側で待機していたふたりに合流した。
喚いたのは、韋駄天兄弟の兄貴分であるデータスだ。
弟分のオリバー共々、<<韋駄天>>ギフト持ちのBランクハンターである。
「見ろよこの状況! 何も感じねぇのか! そんな事に拘ってる状況じゃない事くらい、昨日生まれた赤ん坊だって分かりそうなもんだ!」
人の肉が灼ける臭いが、ここまでも漂ってきている気がしていた。
データスの反応は、当然といえば当然のものかも知れない。
この場にいるもう一人は、オリバーではなくエズラである。
韋駄天兄弟はどちらも近接戦闘を専らとする。
なので、そうではないメンバとペアにして、南北に分けてそれぞれ割り当てさせてもらっていた。
クロツァードは、韋駄天兄弟とは今回が初仕事である。
組合長からの紹介で今回チームに入ってもらった。
一方でエズラ、そして北門のもう一人、鷹目のラッセルとは旧知になる。
エズラは今回のチームでは唯一のCランクハンターだが、<<念話中継>>のギフト持ちなので、集団行動をする際にはクロツァードは彼をとても重用していた。
そのエズラも反対意見を述べる。
「事情があってのこととは思いますが、しかしそれでも助けを求めている人々が多くいる状況です。ひとまずは救出に動くべきでは?」
素晴らしい意見だ。人としてかくあるべきだな。
「かのモンスターは、教会が、なんとしても捕縛せよと言っているものだ。何故だと思う? ただの妖鬼相手にはありえない事だ」
そのふたりを、クロツァードは説得にかかる。
「このような厄災を引き起こす存在だから、だとすればどうだ。奴は追い詰められて、逃走の目晦ましを欲したのだろう。この惨劇を引き起こした者がいる! さあ、優先すべきことはなんだ?!」
つまりはそう言うことだ。因果を取り違えるべきではない。
なぜ街は火に包まれた? 神に仇成す獣を匿ったからである。
そう言うことでいいだろう。他に何があるというのか。
「酷い災禍が起きた旨については、先に報告に出した鳩が戻り次第、改めて文を飛ばして救援部隊の派遣を乞うつもりだ」
そんな悠長なことでは多くの人が死ぬだろう。
しかしやらないよりはマシだ。そうだろう?
「どちらにしても、我々五名が尽力したところで、この様な大禍、どれほどのこともできん! 我々にしかできないことを優先する。まだ異論があるか!」
クロツァードは一喝した。
俺がこのパーティのリーダーだ。今は俺に従え!
文句は仕事が終わってからにしろ!
連絡するまでは南門の見張り継続を厳命して、次は北門に向かう。
同じく噛み付いてきた韋駄天兄弟の片割れ、オリバーの言を捻じ伏せる。
「クロツァード殿、なぜ捕縛、生け捕りなのです? このような災いをもたらす存在であるなら、疾く斃さなければならないはずでは」
オリバーと組ませたBランクハンター、鷹目のラッセルが聞いてきた。
「そう言明された訳ではないから私見になるが、殺されると灰になって何処か別の場所で復活する、そうした類なのではないかと俺は予想している。だからこそ生け捕りが望まれているのだろう。捕らえて封じる必要があるのだ」
ギフト<<再起の誓い>>持ちの人間が死ぬとそうなる。
そんな話を聞いたことはないものの、似た様な種族特性持ちのモンスターがいても不思議ではない。
「標的は妖鬼の変異種って話じゃなかったのか?! 吸血鬼だってのかよ!」
オリバーが口を挟んでくる。
吸血鬼はちょっと違うだろと、クロツァードは内心で少し呆れた。
確かに吸血鬼は、倒しても平然と復活することで知られているが。
それだけではない。
奴らは、陽光に当たれば消えてしまう。
流れ水に触れても形を保てない。
しかしそのどちらの場合でも、その場からは失せるがその内に甦る。
吸血鬼のその能力は、己の影を分身体として操るという種族特性だ。
自分の本体は棺桶の中に置いたままに、自らの影に憑依するのだ。
操られる影は、つまり影であるから光の下では存在できない。
波立つ流れ水を渡ることが出来ない。
そして倒されれば塵も残さず消えてしまう。
消えても復活するのは、吸血鬼の場合、結局影は本体ではないからだ。
今回の標的はそうではない。
外套を纏ってフードを目深に被っていたとはいえ、吸血鬼の影が陽光燦々たる中を人に化けて徒歩で移動し、小川で水汲みをして、商人を護衛を務めるなんてことが、まさかできるはずはないのである。
だが、今はそんな話をしたいわけではない。
重要なのは生け捕りの必要性を、仲間たちに納得させることである。
「これほどの厄難を招き寄せたかもしれない相手だ、種族が何かを予断するのは危険だろう。確実に言えることは、人の姿を擬態することができ、人語を解し、隠密行動が得意で、<<追跡>>ギフトを撹乱する能力持ちだと言う事だ。モンスターランクはB上位以上を想定する」
「Bの上位だと? バカな!」
オリバーが叫んだ。
当初想定していた妖鬼ならBランクの下位圏のモンスターである。それであれば、今回のチームなら、生け捕りもそう難しいことでは無いはずだった。
だがBランクの上位となればそうも行かない。
Bランクというのが丁度、分水嶺になっている。
金属武具で武装し、複数のギフトを使いこなし、日々戦いの訓練を積む人間の精鋭ラインが、大体それ位の戦力に相当するからだ。
極めて一部の例外を除く、暴力を生業とする人間が、一対一で戦って、辛うじてでも勝ち目があるとされるモンスターのランクがBだ。
それよりも上位の存在というのは、何かしら人知を超えてくる。偶然という事ではなく生け捕りを狙うには、リスクの高い相手だった。
「ただの妖鬼如きに<<追跡>>の撹乱などできるものか。この降り注ぐ火の雨の有様を見ろ。これが自然現象のはずはない。Aランクのモンスターであっても不思議はないぞ。そしてそんな危険な怪物を野放しになどどうしてできる!」
何を今更と、クロツァードはオリバーの驚愕を一蹴した。
「そのランクのモンスターとなると、正直ドラゴン位しか思い浮かびません。人の姿を模し得るモンスターとなると、なにか候補がありますか?」
ラッセルに問われて、クロツァードは少し考える。
「さあな。前提として、極端に体型が変わるような変身と言うのは、普通はしないものだから、人に化けるなら恐らくは人型のモンスターではあるのだろうが」
変身能力の有無を条件に立てるのは問題が多い。
まず、Aランク以上のモンスターとなると、人間の行動圏内においてそうそうと出会う相手ではない。サンプル数が少なすぎて、図鑑の情報は伝聞形式がほとんどだ。参考にはなるが、宛にはできない。
「豪鬼、天狗、後はなんだろうな。夜叉や鬼童、羅刹、山神あたりも候補になるか? 基本的には鬼族の上位連中だろうとは思うが、いや或いは」
ふと、白い怪人の有様が脳裏を過る。
「あるいは?」
「いや、どちらにしても、種族の宛がついたところでさして意味はないぞ。いま名を挙げたようなモンスターの事など、豪鬼を除けばほとんどろくに説明なんてできないからな」
鬼に化けるギフト持ちの人間という線もあるかと、クロツァードは思い付いた。
あり得る話だ。それなら<<追跡>>を察知されて撹乱されたことの説明も付く。
直感系統と迷彩系統の、何らかのギフト持ちなのだろう。
さてそうだとすると?
この大混乱で、普通にくたばっている可能性があるのではないか。
教会で図々しくも新しいギフトを仕入れて、今度こそまんまと逃げおおせたりとかは?
それこそ<<再起の誓い>>持ちで、自殺でもして遥か遠い地で蘇生している可能性まであるかも知れない。モンスターなら自殺などはするまいが、人間となるとわからない。
考えたくもないが、相手が人間かもと考えれば、これまで排除していた可能性がいくつも浮かんで来て不安を煽る。
いや、いや、無いはずだ。
そんなのは可能性ゼロではないかもしれないというだけの話。
必要以上に不安を覚える必要はない。
クロツァードは自分に言い聞かせた。
弱気になるな。事ここに至って弱気になっても良い事などは何もない。
街は火に包まれている。
遠からず、炎に巻かれて耐えきれず、鬼が飛び出してくるはずだ。
それを捕らえる。焼け出された相手は万全ですらないだろう。
難しい仕事ではない。大丈夫だ、必ずうまく行く。