1-11. 騎士の出撃
クァボ男爵邸の執務室。
男爵邸唯一の部屋は、今日もまた重苦しい空気に満ち満ちていた。
恐らくは呪われているのだろう。一日も早い除霊が望まれる。
教会の下位聖職者に払う金もない財布事情の元凶も、きっとそれであろう。
「血染熊、血染熊だと、、、」
沈痛な面持ちの騎士イリーニから報告を受けた男爵は、血の気の引いた表情で、ここ数日で更に白髪の増えた気がする頭を掻きむしった。
「そんな、そんなことが、、、何かの間違い、では、ないのか」
机に顔面を押し付けて、ブツブツと呟く。
「何かの、間違いで、、、うぅ」
人を喰らった野熊のモンスター化。
そうならないように気を付けましょう。
備えることこそ領主の務め。
ああしかしそれは、万が一の話ではなかったのか。
これは何の罰か。
日々を正直に、精一杯生きている者たちを、なぜ神は更に苦しめようとなさるのか。
罪に心当たりはない。
ああしかし、と男爵は懊悩する。
熊の出るあの雑木林。
やはり村人を立ち入らせるべきではなかったのか。
大して広い場所でもない。
下手に許可を出せば、鹿でも熊でも、すぐに狩り尽すことになってしまう。
雑木林を超えたその向こうは、誰の領地でもない砂漠である。
下手に許可を出せば、あっという間に木は伐り尽されて、砂漠に呑まれないとも限らない。
だから、先祖代々の領主は禁じてきた。
北の雑木林には立ち入るなかれ、小川を渡るなかれである。
それを、部分的にとはいえ、許可したのが彼である。
しきたり破りというならば、それは確かにそうだろう。
しきたり破りが罪なら、罰があるのは当然なのか。
理由はあった。もちろんだ。
男爵家にも金銭はないが、領自体もどうしようもないほどに貧窮している。
貯蓄などない。そんな余裕は一切ないのだ。
つい一昨年のこと。天候不順で、作物の出来が悪かった。
家を一歩踏み出せば、飢えに苦しむ村人たちが、縋りつかんばかりに助けを求めていた。
「ご領主様!」「男爵様!」「ああ、どうか」「おお、どうか」「お助けください」「お恵みください」「どうかお許しを」「どうかお慈悲を」「それを持っていかれたら」「我らはどうやって生きてゆけば」
ああ、やめてくれ。
慈悲ならば天に祈っておくれ。
手は打った。懇願した。今年は、今年だけはどうか。来年からはきっと必ず。
それでどうなったか。そうか分かった止むをえまい、だがせめて何か誠意を見せるべきだろう?
私は娘を手放したのだぞ! おのれ、おのれあの悪魔めがッ
熊だの鹿だのが、仮にあの林から絶滅したとして、それがなんだ。
草の根さえ掘り返して食べるのではというほどに、瘦せこけた愛すべき領民たちを見捨てて、お前はなんだ森の心配か。
熊だの鹿だの、役にも立たない雑木だのの保護が大切だと、本当にそう考えるのか。
まさか! そんなやつは貴族ではない。高貴なる血筋に連なる資格がない。
しきたりなんぞ、糞くらえだ。
そう思った。だから許可した。村長に告げた。
森で狩りをすることを許そう。ただし取りすぎは控えるのだぞ。
薪が必要なのはわかっている。しかしほどほどに、伐採は最小限に抑えるのだ。
それが罪か。これが罰か。
男爵は懊悩する。答えは出ない。知りたくもない。
「老いて第一線を退いた者しかいない、この領の狩人達には荷が重い相手です」
男爵領唯一の騎士が、追い詰められつつも意思を固めた瞳で言う。
「兄上、どうか私めにも、狩りに参加する許可を。仮にも王国にて騎士と任ぜられたこの身、モンスター如きに遅れは取りません」
そして敬礼の姿勢を取る。
イリーニ=クァボは領主からの下知を待つ。
しかし、男爵は逡巡する。
ここで本当に万が一、イリーニが不覚を取るようなことがあったら?
血染熊。C+ランクモンスター。
年を重ねた個体はBランクにも達するというが、さすがにモンスター化したばかりであることを考えれば、それはないだろう。
ランクだけ見れば、騎士であるイリーニに分があるのは確かだ。
Bランクが騎士相当、Cランクは兵卒相当。そうだったはずだ。
だが、だが万が一。
王国の法では、所領には領主と騎士の両方が必要だとされている。
領主がいない所領など認められないのと同様に、騎士がいない領主も認められない。
イリーニがもしも不覚をとり、さらに運悪く命を落とすようなことがあればどうなる。
それは領地没収の危機だ。そして我が一族は路頭に迷う。
娘を売り払ってまで維持することを決めたこの領地。
男爵家の、終わりである。
そんなことは、認められない。
そんなことには、耐えられない。
ガウェン侯爵に奉公に出ている息子の顔が脳裏をよぎる。
ああしかし、しかしでは、ならば血染熊を放置するのか。
いったい何人死ぬ。
何人死ぬことになると思う!
男爵は苦悩する。
答えがない。正解が見つからない。
腕利きのモンスター狩りを専門とする狩人を招く? 外部から?
その報酬は!? あるわけがない! そんな金銭は全くない。
ハンターギルドに依頼書を送る金銭さえ、もしや足りない恐れさえある。
ああ落ち着け、大丈夫だ。大丈夫。
私がイリーニを信じなくてどうする。
イリーニだって、当然わかっている。自分の重みを。
わかっていて、その彼がお任せを、と言っているのだ。
何を迷う。他にどんな手がある。
「分かった。分かったとも」
男爵は伏せっていた顔を持ち上げた。
「任せる。任せよう弟よ。だが決して無理はするな。危険と思えば退くのだ。何度敗れて、何度挑もうとも、最後に生きて、立っていれば、それが勝者なのだからな」
直立の姿勢で自分を見下ろすイリーニの顔を、まっすぐに見返して、そう告げた。
「ありがとうございます。分かっておりますとも。吉報を、お待ちください」
疲れが残る顔でしかし爽やかに、騎士イリーニは破顔して兄に応じた。