怪盗ジーニアスと鷹の蒼い瞳
元々縦書きだったのが横書きになっているので、もしかすると読みにくい場所があるかもしれません。ご了承下さい。
全体的には、読みやすい娯楽小説を目指して書いたつもりです。
10分~20分くらいでさくさく読めてしまうと思うので、ちょっと何か読みたいなと思った時に読んでいただけると幸いです。
「何もかもがうまくいかない。だからこそ、人生はやめられない」
怪盗はわずかに興奮した様子で呟いた。そして勢いよくハンドルを左に切る。慣性の法則で体を外側に引っ張られながら、その助手席に座る相棒が悲鳴を上げた。
「なに悠長なこと言ってんですか! このままじゃふたりともお縄ですよ!?」
二人が乗る自動車の後ろでは何台ものシビックパトカーが赤い光の尾を引いて追走している。けたたましいサイレンの音に、通行人のほとんどがなにごとかと振り向き、目の前で繰り広げられるカーチェイスにその視線を送っている。
普通、こうした状況に陥った場合、どう考えても最終的に彼らが捕まってしまうのは明白だろう。しかしそんな状況においても怪盗は笑っていた。まるで、最悪な状況こそを望んでいて、その通りになったことを楽しんでいるかのように。
☆ ☆ ☆
壮絶なカーチェイスの翌日、店内の至る所を時計が埋め尽くす喫茶店で、二人の男はカウンターを挟んで向かい合いながらコーヒーをすすっていた。
カウンター席に座っている若い男がマグカップをテーブルに置いてため息をつくと同時に、店の中央に設置されている柱時計がボーンボーンと正午を告げる音を鳴らした。入り口の扉に『本日定休日』と書かれた札をぶら下げているため、現在店内にいるのは彼ら二人だけである。
そこへ、下げ札の文言を読んだ上で扉を開けた三人目の人間が店内に入ってきた。
「何度来ても思うけど、まるで時計屋みたいな喫茶店ね」
開口一番そう言って、そのままカウンター席へと歩み寄り、先に座っていた青年の隣に腰を下ろした。
一拍置いて、この店のマスターがカウンターの内側からそれに答える。
「時計屋みたいなんじゃない、もともとうちは時計屋だ。なのに君が私の淹れるコーヒーを絶賛するから喫茶店を開いてみたまでだ」
「それなのに今では喫茶店の方が本業になりつつありますよね」
三人の中で一番若く見える男がカウンターの向こう側のマスターへ言葉を返す。
「それは違うぞ。あくまで今の私の本業は『怪盗』だ。時計屋も喫茶店も世を忍ぶための仮の姿、ただの副業に過ぎない」
「そうは言いますけど、藤さんまだ一度も盗みに成功したことないじゃないですか」
「私にとって、『失敗した』ということはとても喜ばしいことなんだよ」
喫茶店のマスター兼時計屋の店主であり、近頃巷で噂される怪盗、藤国は人差し指を立ててカウンターの中をゆっくり歩き回る。
「私は昔から優秀な人物だったんだ。大抵のことは人並み以上にできて、むしろできないことの方が少ないくらいだった。つまり失敗をすることなくこれまで生きてきた。だから、たまに上手くいかないことがあると、とてもわくわくするんだよ。どうやって成功させようかとね」
「それにしたって、もう四回連続で盗みに失敗してるんですよ? ネットニュースとかでは『逃げ足だけは一流の怪盗』とか言われてますし」
「大丈夫だよ秋葉くん。私の辞書に不可能の二文字はないのだから」
「……いま猛烈に心配になったんですが」
冗談だよ、と秋葉青年との会話を続けながら藤国はもう一人の客にコーヒーを差し出した。彼女が大好きなエスプレッソだ。続いてタマゴとハムとレタスのシンプルなサンドイッチを。
それらを受け取って、火傷しないよう、慎重に熱いコーヒーをすすり、ほう、と息をつく。
「でも、今回も失敗してくれてよかったわ」
「由良さんも、藤さんみたいなこと考えてるんですか?」
「いいえ、私は単純に被害者の人が大切な宝物を盗まれなくてよかったと思ったの」
「言っておくが私がターゲットにしているのは常に黒い噂の絶えない富豪達だけだからな。君は、元恋人の私と、いろいろ非道なことも行いながら大金を稼いでいる富豪達、どっちの味方なんだ?」
「私は社会全体の味方よ。あなたの元恋人である前に社会の一員だもの。たとえ相手がどんな悪党でも、社会、特に警察の方々に多大な迷惑をかけているあなたを肯定はしないわ」
藤国は天井を仰いだ。
「おお、秋葉君。我々の仲間はどうやら我々二人だけらしい。嘆かわしいね」
「そろそろ結果が出てくれないと、僕も社会の味方になるかもですよ」
「なんてこった」
あちゃーと言いながら藤国は額に手を当てた。
そんな仕事上のパートナーの様子を見ながら、秋葉は以前から抱いていた疑問を尋ねた。
「それにしても急に怪盗始めようだなんて、一体どういうことなんです? つい成功した時の報酬目当てに手伝う約束しちゃいましたけど」
それを聞いて藤国は良い質問だ、と言って再び人差し指を立てた。
「さっきの話の続きになるが、いわゆる何でもできる天才の私はいつしか『出来ない』ことを探すようになってしまってね。まあ、今の怪盗業もその一つさ」
「僕怪盗なんてフィクションの存在だと思ってましたよ。まさか本当にその職業を名乗る人がいるなんて……。前からずっと思ってましたけど、やっぱり藤さんって変わってますよね」
「今までにもいろいろやってきたよ。バリスタの資格を取ってみたり、メジャーな外国語をいくつか習得してみたり、マラソン大会で優勝してみたり」
「あと、学生の頃は突然柔道部やバスケ部や演劇部やコンピュータ部に助っ人として参加して、それぞれ全国大会にまで出場したりしてたわね」
「なんですかその超ハイスペック助っ人……。あ! もしかして前に僕にマジック教えてくれって言ってきたのも!?」
「その一つだね。秋葉君の指導のおかげで私も随分手品が上手くなったよ」
改めて目の前の人物の非凡さを実感し、驚きと呆れの混じった表情をする秋葉。
「まあ、でもやっぱりいくら藤さんでも怪盗業は難しいみたいですね。今まで何も言わずに手伝ってきたのがおかしいんですけど、もうやめません? 次こそ捕まっちゃいますよ」
「心配はいらないよ秋葉君。コツはつかんだ。次は必ず成功させるさ」
疑わしげな目で秋葉青年は自らのパートナーを見る。口には出さないものの、ホントですかぁ? と顔に書いてあった。
その表情に気がついた藤国は手をぱたぱた振りながら弁解する。
「いやいや、本当だって! もう計画は練ってあるし、予告状も送ってある。あとは当日にシナリオ通りに動くだけで、このミッションの終了後、我々は達成感に浸りながらヴィンテージワインで乾杯しているだろう! なあ、由良からも何か言ってくれたまえ」
藤国はサンドイッチを口にくわえている由良に助けを求めた。由良は残りのサンドイッチをもぐもぐと咀嚼し、飲み込み、コーヒーをすすってから口を開いた。
「そうね、大丈夫よ秋葉くん。この人が成功させるって言ったときは必ず成功するから。安心してサポートしてあげて」
「由良さんがそう言うなら……」
秋葉のしぶしぶ納得した様子を見て、藤国は顔をほころばせる。
「助かったよ、由良」
「だけど、あなたも忘れないでね」
微笑む藤国に人差し指を突きつけ、真っ直ぐな瞳で見据える。
「絶対に無茶なことはしないでね。あなたを心配しているんじゃなくて、この近辺で怪我人が出ると、私の病院に運ばれてくるの。ただでさえ人手が足りて無いのに、これ以上患者を増やすような真似はしないでね」
蛇に睨まれた蛙のように藤国はただただ気圧されるばかりだった。由良は「ごちそうさまでした」と言ってコーヒー代とサンドイッチ代をカウンターにきっちり置くと、店の扉へと踵を返した。
「もう、戻るんですか?」
未だに言葉を発せずにいる藤国に代わり、秋葉が店外へ向かう由良に声をかけた。
「うん、休憩時間短くて、もう戻らないと午後の診療に間に合わないの」
「なのにわざわざ、病院の売店じゃなくてここまでランチ食べに来るんですか?」
扉を開いたまま振り返り、由良は言った。
「だって、元とは言っても好きになった男だもの。お昼の時ぐらい顔を見たいじゃない?」
女は去り、喫茶店には扉が閉まる音の余韻と二人の男が残った。それから少しの間、時計が時を刻む音だけが店内には響いていた。
☆ ☆ ☆
「それにしても、藤さん愛されてますね」
「まだ昼の話をしてるのか。もういいやめやめ。仕事に集中するぞ」
手を振って話を打ち切るジェスチャーをする。どうやら照れているようだった。秋葉青年はそんなパートナーを見てニヤニヤが増すばかりだ。
「なんだその顔は。全く由良のやつ……」
しばらくぶつぶつ言っていた藤国だったが、腕時計に目をやり現在の時刻を確認すると、表情を切り替え、『元恋人の思いがけない台詞にドギマギするアラサー男性』から『闇夜を駆けて浪漫を追い求める怪盗』へとチェンジした。
☆ ☆ ☆
時計が正午を告げる頃、西沢は落ち着かない様子で煙草の煙をくゆらせていた。西沢は年商数千億を超える大企業の取締役を務めており、以前は決して大規模とは言えなかった会社を数年で業界最大手にまで育てた敏腕企業人である。しかし、その成功の陰には、正攻法以外の手管が多く使われており、社会のブラックな方面とのつながりを使って、ライバル会社を土俵から転落させるなどの手段で、自身の企業を成長させてきた。
結果、西沢は非常に豊かな暮らしを送っているが、その反面、他人から恨みを買うことも多い立場にいた。しかし西沢に恨みを持つ者の多くは、彼の持っている権力の大きさを知っているためどうすることもできず、無理矢理に西沢に迫ろうとした者は、権力者の持つ非合法的な力で制圧された。
しかしそんなある日、彼の元に一通の手紙が届いた。
“西沢様へ
次の 新月の夜 貴方様の所有する
鷹の目 を 頂きに参ります
怪盗ジーニアス”
いったい何の冗談だ? 消印のない封筒に入った手紙の、その文面を見たとき西沢は心の中で呟いた。この御時世に怪盗だと? しかも天才(genius)だと? なかなか巫山戯たイタズラじゃないか。
しかし同時に西沢は不安に駆られた。手紙に書いてある鷹の目とは、以前西沢が海外から取り寄せた直径一センチほどの大きさのサファイアだ。それもただのサファイアではなく、青く光る石の中心から、星の煌めきのように光の筋が伸びる『スターサファイア』と呼ばれる貴重な石である。その輝きと形が猛禽類の瞳のようであることから鷹の目という名前がつけられている。
その存在自体は隠しているわけではないから、調べれば自分が鷹の目を所有していることはわかるだろうが、西沢に禍根を持つ者の仕業だとするならば、自分を陥れるためにわざわざ宝石を盗むというのは不自然である。
鷹の目は「これを所有する者は成功する」などと言ったいわくの全くない、希少価値が高いだけのただの綺麗な宝石だ。したがってこれを盗んだところで西沢の地位が揺らぐことはあり得ない。
「ということは、これは私の失脚を狙う者の揺さぶりではないな」
そうだとするならば、この怪盗と名乗る人物はただの盗人なのだろうか。もしそうならば裏で交流のある民間の警備会社にでも警備を依頼するか…?
明確な目的が分からず、これまでに対峙したことの無い非現実的な相手に西沢は困惑したのだった。
☆ ☆ ☆
「私は警視庁刑事部捜査一課の長良と申します。昨日、御宅に窃盗目的で侵入することを記した犯行予告状が届きました。この犯人は以前にも四度こうして犯行状を送りつけ、窃盗を働こうとしています。惜しくもそのどれも逮捕には至りませんでしたが、今度こそは我々警察の全力を尽くして、犯人を捕らえます」
西沢の元へ予告状が届いた翌日の午後四時頃、警察が西沢の家を訪ねてきた。
書斎へ入ってきた長良警部は、西沢から目を少しも逸らさずにそう切り出した。
西沢は表面上は何気ない顔をしているが、内心で舌打ちをする。
怪盗め、警察にも犯行状を送るとは……。私が非合法な手段を使っているために、警察に目をつけられていることを知っていてのことだな。むやみに追い払うわけにもいかないか……。
「警察の協力はありがたいが、事実四度も逃げられているのだろう? そんなザルな警備をされるぐらいならば、そこらの民間の警備会社にでも依頼した方が得策なのではないかね?」
「心配には及びません。犯人は四度我々から逃げおおせていますが、その一度として盗みを成功させてはいません。近頃よくニュースで取り上げられているのをご存じありませんか」
「ああ、あの『逃げ足だけは一流』とか言われている窃盗未遂犯のことか?」
「やはりご存じでしたか。ただ未遂で終わるだけでなく、一度失敗した相手には尻尾を巻いて、次々と標的を変える、怪盗と名乗っているだけのただの泥棒のようです。そして犯行を予告している窃盗犯の犯行を阻止するのは我々警察の仕事です。是非我々にお任せください」
想定していたよりも大したことのない相手のようだ。その程度のこそ泥ならば警察に任せてやってもいいだろう。これを口実に警察を私の家に招いてやることで、私は警察からの疑惑や警戒が薄れ、警察は怪盗を捕まえることで手柄を立てられる、両得なイベントだ。
「いいだろう。私の宝をしっかり守ってくれよ」
長良警部は何も言わず、静かに敬礼をした。
☆ ☆ ☆
そして空から月が消えた夜、何十人もの警官が西沢の邸宅に配置された。
ヘマをやらかして家宅捜索される時以外で、私の家にこんなに警官が集まるとはな。
すでに家の中にある暴かれてはまずい資料などは別の場所に移動したり、廃棄したりしてある。今警察がいくら粗探しをしようと、見つかって困るようなものは何もない。
あとはまあ、無事に怪盗が捕まるのを待つだけだな。
「西沢さん」
西沢がほくそ笑んでいると、背後から長良警部に声をかけられた。彼の背後には一人の警官が付き添っている。
「例の宝石が保管されている部屋を拝見させてもらえませんか」
「ああ、構わない。こっちだ」
西沢は二人を連れて階段を上り、二階の中心にある書斎へ招きいれた。
室内には、窓際に大きなデスクがあり、横の壁には本棚が並んでいる。デスクの丁度真横の壁は一部のみがへこんだ形になっており、そこには直方体の大きな金庫がすっぽりと嵌まっていた。
「この金庫の中に鷹の目という石があるのですね」
「ああ、そうだ。この金庫は特注でね。そこらで売っている金庫の六倍ほどの強度があるそうだ。もちろん、開けるための数字も私しか知らない。だから、警備が無くとも盗まれることはありえないのだが」
金庫の扉をコツコツと叩きながら西沢は言う。ダイヤル式の鍵の数字を合わせ、ロックを解除しハンドルを回して扉を開けるこの金庫の仕組みは、昔からある仕組みであり、決して珍しいタイプの金庫ではない。
しかし鍵の部分を強い力で壊してしまえば、ただの金属の箱になってしまうという従来の金庫の欠点を、特殊な合金で製造することでカバーしたこの金庫は、もはや物理的な手段では開けることはほぼ不可能と言えた。
「とはいっても、さすがに核兵器レベルには耐えられないと、これの製造元は言っていたがな」
そのとき、長良警部の後ろにいた警官が口を開いた。
「あの、警部。事前に鷹の目という宝石が一体どういうものなのかを一度見せてもらってはいかがですか?」
「そ」
「何を言っているんだ君は」
そんなこと出来るわけないだろう、と西沢が言うよりも早く、長良警部が部下を叱責した。
「そんなこと出来るはずがないだろう。もし金庫を開けて宝石を取り出した瞬間、突然怪盗が現れて奪い去っていく可能性も無いとは言いきれないんだ。それに私や君のどちらかが変装していることだって西沢さんから見ればあり得ることだ」
西沢は二回りほど高い位置にある長良警部の顔を仰ぎ見た。失言をした部下を叱っているとは思えないほど、長良警部は表情を変えず、真顔で淡々と、若い警官を叱責していた。
「大変、礼を欠いた言動をしてしまい、申し訳ありませんでした」
声が震えながらもそう言った若い警官は、西沢と長良警部にそれぞれ一礼したあと、足早に書斎から出て行った。
「部下の非礼をお許しください」
警部は、またしても無表情で、部下の失態を詫びた。
「ああ、構わんさ」
巌のような男に無表情で迫られるのが、こんなに堪えるとは。
西沢は先ほどの警官の気持ちを心中で想像し、こちらを一心に見つめてくる長良警部から与えられる圧力から逃れるように目をそらした。
「ところで、一応伺っておきますが、その金庫には鷹の目以外にはなにか保管していらっしゃるのですか?」
「なぜそんなことを聞く?」
「もし万が一、金庫が怪盗によって開けられてしまった場合に、他に何か盗られてしまっていないか確認するため、事前に伺っておきたいのですが」
「曲がりなりにも世界最高峰の金庫だ。この家にある値の張る貴金属類と現金をいくらか、しまっているな」
背広から取り出した手帳にメモを取りながら、再び警部が訪ねる。
「それらを金庫に入れるため、最後に金庫を開けたのはいつです」
「警部殿がうちに来て、私が警官隊の配置を許可した後だ。警部殿が帰ったあとに私と信頼の出来る部下二人とで金庫に運び入れ、二人の見ている前で扉を閉めた」
そのときに鍵の数字を見られていませんよね、と警部が訊ね、西沢は当然だ、と返した。
一応、その部下二人の名前を警部に伝え、警部は部下達に指示を出すため書斎を出て行った。
あとに残された西沢は、金庫の重く冷たい扉を撫でながら呟く。
「さて、怪盗め、どう出るか……?」
☆ ☆ ☆
「秋葉君、秋葉君」
「何ですか」
「どう、そっちの準備は整った?」
「そうですね、ばっちり準備完了です。ところで、何でそんな藤さんうきうきしてるんですか」
「それはもちろん、私はすでに成功したあとのことしか考えていないからさ」
「確かにシナリオ上は完璧ですけど、本当にこんなに上手くいくんですかね?」
「上手くいかせるために、ここまでやってきたんだろう? それじゃ、秋葉君頼んだよ」
☆ ☆ ☆
用心に用心を重ね、西沢は食事も取らずに書斎にいた。
「食事に薬を入れられる可能性も確かに否定はできませんが、しかし、腹が減ってはなんとやらですよ」と長良警部が差し出すコンビニのおにぎりも、受け取りはしたが結局レジ袋に入ったまま、デスクの上に置いたままだ。唯一、缶コーヒーだけは飲んでいるが、それも近くの警官に毒味させてから飲むという徹底ぶりだ。
決して片時も金庫の傍を離れるつもりのない西沢だったが、空腹を紛らわすため通常よりも多く飲んでしまったコーヒーと、年齢による身体機能の変化により、どうあがいても堪えられない尿意を催してしまった。
いくらなんでも書斎で用を足すことはできないため、西沢は入り口を警備する警官に少し部屋を離れる旨を伝え、やや足早になりながら、トイレへと向かった。
これからは飲み物も控えめにしなければと思いながら書斎へ戻ってきた西沢が見たものは、書斎の扉の前の床に倒れ伏している警官達と、扉を開けようと乱暴に扉の取っ手を回している長良警部の姿だった。
「何があったのかね!」
叫びながら近寄ると、警部は一旦扉から離れて答えた。
「西沢さんがトイレに行くため部屋を出たと連絡を受けている最中に突然無線が切れたのを不審に思って来てみたら、部下達が気絶していました」
おそらく、怪盗の仕業です、と警部はここに及んでも平淡な口調で言った。
「一刻も早く室内の様子を確認したいのですが、どうやら開かないように細工がしてあるみたいです。西沢さん、扉の破壊の許可をください」
あまりにも唐突なできごとだったが、今回の怪盗の騒動について、ある程度の心構えはしてあったため、西沢はそれほど取り乱さないで頷くことが出来た。
それでは失礼、と言うのとほぼ同時に警部は床を蹴り、扉に体当たりをした。いくら体格の良い警部でも一発では扉はびくともせず、駆けつけてきた他の警官達と力を合わせ、四回目ほどの体当たりで扉を塞いでいた仕掛けもろとも蝶番が壊れ、扉は書斎の内側へ倒れた。
警部達の後ろにいた西沢は、扉が開いた瞬間に振り向いた、金庫の前に立っている人物を見た。
警察官の制服を身に纏った若い男を見た。
警部に付き添って書斎に来た警官を見た。
その男が指でつまんでいる青い石を見た。
そして警部達の侵入に気づいたその男が、ポケットから球状のものを取り出して床に叩きつけるのを見た。
破裂音がいくつか鳴り響き、室内はたちまち煙幕が充満し、何も見えなくなった。
続いて、書斎に飛び込んでいった警官達の悲鳴が聞こえ、室内で暴れるような激しい音と振動が伝わってきた。
「どうした! 早く捕まえないか!」
西沢が叫ぶと同時に煙幕の中から人影が飛び出し、西沢の肩に強く衝突した。警官の格好をしたその男は転倒した西沢には目もくれず、一目散に廊下を走っていく。
「廊下に逃げたぞ! 追え!」
五、六人の警官が書斎を飛び出し、怪盗を追っていく。
西沢がそれを見送りながらも立ち上がると、書斎に籠もっていた煙幕が徐々に晴れていくところだった。
「ああ、そうだ。怪盗が現れた。今はまだ邸内にいるはずだが、敷地内を封鎖して出られないように手配しろ」
長良警部は無線で外の警官と連絡を取りながら、窓を開けて空気の流れを作っていた。
部下達に捕り物の方は一旦任せたらしく、無線をしまうと、西沢に向かって声をかけてきた。
「西沢さん、お怪我はありませんか?」
西沢は腰をさすりながら苦々しい顔で答えた。
「ああ、突き飛ばされたが、特に痛いところはないな。しかしそれよりも、今の男……」
「はい、敷地を封鎖するよう部下に伝えましたので、奴が空を飛ばない限り、捕まるのは時間の問題でしょう」
「そうではない。今の男は警官の制服を着ていたが、あれは先ほど警部殿が書斎に来たときに連れていた警官ではないか?」
「………」
長良警部は無表情から、一瞬険しい顔つきになり、
「顔を見たのですか?」
と尋ねた。
「私は若い頃から目はいいんだ。あれは間違いなく、さっきの警官だった」
「彼は、まだ警官になってから日が浅いものの、有能なので私の側につかせていたのですが……。先ほどの奇妙な発言といい、まさか彼が……」
壁を見つめながら警部はそう呟いた。西沢がその横顔をじっと見ていると、警部の無線が電波をキャッチした。
『こちら、山本です。警部、例の怪盗の捕縛に成功しました。これより車に乗せ、署に送ります』
「……だそうです。怪盗は無事捕まりました。ご安心ください」
「五度目の正直という奴かね。だが、まだ終わってはいないぞ。しっかり奴から宝石を取り戻して貰わないと」
「西沢さん、そのことなんですが」
朗報を受けても、警部は淡々と事務的な口調のまま西沢にこう切り出した。
「怪盗が途中で盗んだものをどこかに隠した可能性も考えられるため、現段階で何が盗まれているのか確認したいので、金庫を開けてもらえないでしょうか」
「……まあ、いいだろう。だが、一応後ろを向くなどして、数字を見ないでくれたまえ」
西沢は金庫の前に立ち、背中で視界を遮りながらダイヤルを回した。長良警部は言われたとおり金庫と正反対を向いて直立不動のポーズをとった。
ガチリ
鍵が外れる音がした。
「もういいぞ」
西沢の許しを得て、警部は再び金庫に向き合った。
「さあ、あとはハンドルを回すだけだ」
これも西沢が自分でハンドルを回した。ハンドルが回転するに従って、重たい金属の扉が徐々に開いていく。
やがて扉は開ききって、西沢が中から一つの箱をとりだした。
「この中に、鷹の目は入っていた。では、開けるぞ」
そう言って、西沢は箱の蓋を取った。瞬間、無表情だった警部の目がわずかに見開かれた。
西沢はそんな警部の様子を眺めて口を開く。
「どうした警部、箱の中に鷹の目が無いことにずいぶん驚いているようじゃないか。まるで“箱の中に鷹の目が入っている”とでも思っていたような顔をして。あの怪盗に盗まれたのだから、箱の中に宝石が無いのは当然だろう、なあ長良警部………いや、こう呼ぶ方が正しいのかな、怪盗ジーニアス」
「!?」
再び警部が驚愕の表情を浮かべる。これまでとは違い、今度ははっきりと。
「……ポーカーフェイスは鍛えたものなんだがなぁ。こうもあっさりとボロを出してしまうとはな」
そう呟くと、怪盗ジーニアス、つまり藤国はそれまで長良警部を演じるため、固く引き締めていた口元を緩め、にやりと笑いながら言った。
「ご明察。お初にお目にかかる、私が怪盗ジーニアスだ」
対する西沢も、美味しそうな獲物を見つけたときの肉食獣のような笑みを浮かべる。
「そうか、やはり私の思ったとおりだったな。金庫を正攻法で破ることは出来ないから、一旦仲間に盗ませたように見せかけて口実を作り、金庫を開けるように誘導し、私をどうにかした上で盗んでいくつもりだったのだろう。だがしかし、色々と策を巡らせて貰って済まないが、私の方が一枚上手だったようだな」
「そうくるだろうと予想して、初めから金庫の中に隠さなかった、と?」
「元々は警察に空の金庫を警備してもらうことで、怪盗の注意もそちらに向けようとしただけだがな。さすがに隠し場所を伝えた警官が怪盗本人だとは思わなかったが。なかなか良い演技だったじゃないか、来年のオスカーは君のものだな」
そう言って西沢は愉快そうに小さく笑い声を上げた。
「さて、それでどうする? 鷹の目はここにはない。君の計画は失敗した。おとなしく、お仲間の待つ警察署へ行くんだな」
西沢は頭一つ高い藤国にそう吐き捨てると、意地の悪い笑顔を浮かべながらじっとりと睨め上げた。
そう、西沢の言うとおり、藤国の現在置かれている状況は、まさに絶体絶命である。お目当ての宝石はあるべき場所になく、唯一の相棒は作戦の一環でパトカーの中、邸宅の敷地内にはまだ警官がうじゃうじゃいて、本物の長良警部がいつ現れるかもわからない。
これ以上に万事休すという言葉が似合う状況もないだろう。
しかし、そんな状況下においてもなお、藤国は楽しそうな笑みを浮かべていた。まるで、最悪な状況こそを望んでいて、その通りになったことを楽しんでいるかのように。
「何もかもがうまくいかない。だからこそ、人生はやめられない」
これ以上ない劣位に追い込まれている者は、それまでの笑みをさらに楽しげな表情に変化させ、圧倒的な優位に立っている者は、それまでの笑みを訝しげな表情に変化させる。
「なぜ、この期に及んでそれほどに余裕でいられる……? まだここから挽回する策でもあるのか……?」
西沢は思わず、そう問いかけていた。その不審な目をさらりと受け流すように、いともたやすく藤国は告げる。
「ああ、あるさ。少し考えれば簡単に思いつくことだ」
「…………!?」
ピクリと西沢の眉が動く。そんなことは気にも留めず、藤国は人差し指をピンと伸ばした。
「まず、鷹の目の本当の隠し場所はどこか。時間にあまり余裕がないから端的に言うが、それはつまりあなたにとって最も安心できる保管場所はどこかということだ」
滔々(とうとう)と語る藤国を、眉間にしわを寄せながら睨む西沢。
「もちろん一番はこの巨大金庫だろうが、それは囮として使っている。じゃあ次点は? さっき家中を見て回った限り、他に金庫は無かったし、家の構造的に隠し部屋や隠し収納もなさそうだった。それならば、貴方の性格も踏まえて考えると、残る有力な隠し場所はただひとつ、あなたのその背広の内ポケットですよ」
長良警部の顔の鋭い眼光で真っ直ぐに見据えられながら指を突きつけられ、反射的に西沢は身を引いた。
「どうやらビンゴみたいだな。今、右足を引いたな? ということは、ターゲットがあるのは右の内ポケットか」
そう言って藤国は一歩踏み出す。同時に西沢はさらに一歩後ずさる。
「なるほど、怪盗の分際でなかなかの推理力だ」
「こんなのは誰でも思いつくことだ。自慢にはならない。さあ、ポケットの中の宝石を頂こうか」
もう一歩、藤国が歩み寄ると、西沢は両手を前に突き出し、構えの姿勢をとった。
「おっと……っとぉっ!?」
次の瞬間、西沢は年に似合わないほど俊敏な動きで藤国の懐に潜り込むと、背広の袖と襟をつかみ、背負い投げに持ち込んだ。
しかし、技が決まる寸前で藤国がもがいたため、技は中途半端になり、藤国の身体は床に転がった。
「だが、まだ君の考えは甘い。私につかみかかって奪い取ろうなど百年早い。こう見えても私は若い頃は柔道でならしたもんなんだ」
立ち上がる藤国に対し、構えをとったまま西沢は笑う。
だがその笑みは立ち上がった藤国の手の中にある物を見た瞬間、再びかき消えた。
「それはっ! なぜ、いつのまに!? ま、まさか……」
「そのまさかだ。今の組み合いの瞬間に内ポケットをまさぐらせてもらった」
そう言って掲げたのは藤色の生地に金のラインが織り込まれた小さな巾着袋だった。丸い膨らみがあることから中に球状の物体が入っていると分かる。
「貴様ッ……!? 昔はスリでもやっていたのか……!?」
「いや、このスキルは相棒君から教えて貰ったものでね。彼は昔マジシャンを目指していたらしい」
「御託はいいんだ! 返せ!」
突然の魔法のような出来事に、西沢はさすがに冷静さを失い、藤国に勢いよく掴みかかった。しかし、藤国は依然余裕を持った表情で言葉を投げかける。
「さっきの言葉をそっくりお返ししよう。あなたの考えは甘い。私がどうやって、最前線で活躍する現役警察官の長良警部を気絶させたと思っているんだ」
西沢が気がついたとき、口にはテープが貼ってあり、腕は金庫のハンドルに縛りつけられていた。
「~~~!? ~~~~!!」
僅かに煙幕の余韻が残る書斎で、怪盗と青い宝石は跡形もなく消えていた。
☆ ☆ ☆
「それにしてもドキドキしましたよ。予定では警察署に連れてこられて少し経ったあと、藤さんが署に戻ってきて、取り調べを口実に脱出するはずだったのに、なかなか来ないんですもん。また失敗したんじゃないかって本当に肝を冷やしたんですからね」
時計だらけの喫茶店、その店内で怪盗とその相棒はカウンターを挟んで向かい合い、コーヒーをすすっていた。
「少し遅くなったのは確かに悪かった。でも、私の宣言通り、成功したからいいじゃないか。これでまた一つ、『出来ない』ことが減ったよ」
「僕は待ってる間、走れメロスのセリヌンティウスってこんな気持ちだったのかなって考えてましたよ」
「つまり私を殴らないと気が済まないと? いいだろう、受けて立とうじゃないか」
「なんでちょっと乗り気なんですか……。それにしても、今回の僕は囮になって捕まった後、ずっと藤さんを待ってただけだから、盗みに成功したって実感が湧かないなぁ」
初の成功なのに秋葉青年が心から喜べないのはそういった事情があった。
やや不満顔でコーヒーをすする秋葉に、藤国はフォローを入れる。
「そんなことないよ、変装は秋葉君の知識のおかげだし、鷹の目をゲットできたのも、君がスリのテクニックを教えてくれたからなんだよ」
「あれはピックポケットっていう、一応マジックの技術のひとつです……。あれ? ピックポケットに関しては、一度披露はしましたけど、レクチャーはした覚えがないんですが」
「一回見せて貰えば、大体どうやるのかわかるさ。ほら、私天才だもの」
「腹立ちますね……」
先ほどよりも表情を険しくしながら、秋葉青年はマグカップを傾け、中のコーヒーを喉に流し込んだ。口の中に広がる味わいと共に、鼻を玄妙な香りが通っていく。
ほぅっと息を吐くと同時に、寄せられた眉間が自然に離れて、元の穏やかな顔に戻っていった。
「それで、成果の宝石を見せてくださいよ、藤さん」
「ああ、これだ」
藤国はエプロンのポケットから小さな箱を取り出し、秋葉に渡した。
「こ、これが鷹の目……」
透明感のあるブルーが美しく、淡いところから深いところまである青が、さながら南国の海の浅瀬から深海までを凝縮したかのようである。
「なるほど、この澄みきった青と中心のスターが、まるで果てしなく青い空を舞う鷹の凛とした瞳を彷彿とさせるわけですね。だから、鷹の目」
感心したようにそう呟く秋葉だが、眺め回している内にあることに気づく。
「でも、あれ? 鷹の目って、指輪でしたっけ?」
秋葉が事前に知っていた情報では、鷹の目はアクセサリーに加工されてはいないはずだった。
「秋葉君の記憶は正しいよ。私が手に入れたときはただの宝石だった」
「えっ、ということは、それってもしかして……!」
「そうだ、私が自分で指輪に仕立てた。事前に工具は用意してあったから、帰ってきてすぐに加工したんだ」
さらりと言ってのける藤国。改めてパートナーの異常性を確認して、秋葉青年は慄く。
「天才だとか、手先が器用だとか、そういうレベルじゃないですよ……」
「だから、前にも言ったじゃないか。私は大抵のことなら何でも出来ると」
「でも、待てよ。わざわざ宝石を指輪にするってことは……?」
問いかけに、藤国は小さく頷く。
「うん、由良にプレゼントしようと思って。丁度今日があいつの誕生日なんだ」
その言葉で秋葉青年は全てを察した。
「はいはい、なるほどなるほど。ようやく僕にも何が目的で藤さんが怪盗始めたのかわかりましたよ。ずばり、全ては元カノへの誕生日プレゼント選びだったんですね! 富豪が持っている凄いお宝をプレゼントするために、僕を誘って怪盗業を始めて、気に入った物を盗もうとしてたんですね。…………いやそれだけじゃなく、これまでの四回の失敗も実は失敗したんじゃなくて、ただ思ってたほど宝物が気に入らなかっただけ……?」
果たして、秋葉青年の推理に対して、藤国は、
「お見事。その通りだよ、秋葉君。付け加えるなら、その四度の失敗で怪盗に対する警察側の対応の情報収集ができたから五度目での成功につながったとも言えるね」
拍手を送りつつ、そう言った。それに対し秋葉は少しも嬉しくなさそうな表情を見せる。
「結局、僕はいいように使われただけなんですか……。由良さんには贈り物を渡すのに、相棒として働いた僕にはコーヒーだけなんて」
「そう、しょげるなよ秋葉君。もちろん、君にも十分働いてくれただけの報酬は渡すさ」
「えっ、本当ですか!?」
「西沢氏を気絶させた後、金庫の中の現金も少々、一緒に盗んできたからね。多分、三百万ぐらいあったと思うけど、そっちの方は君に全部あげるよ」
「ホントのホントにくれるんですか!? ゼッタイですからね! やったぁ、これで念願のヨーロッパ旅行に行ける!」
先ほどまでとは打って変わって、満面の笑顔で飛び跳ねる秋葉青年。
「すぐに使うと足が付くかもしれないから、万全を期して少なくとも半年は安全な場所に保管しておくといいと思うよ」
「はい、わかりました! となると実際行けるのは来年かー。夢が膨らむなぁ」
そのとき正午を告げる柱時計の音が鳴り響いた。
時間を確認し、うきうき声で秋葉は藤国に声をかける。
「そろそろ由良さんが来ますね。僕は家でゆっくり旅行計画を考えようと思うので、この辺でおいとまします。藤さん、がんばってくださいね!」
藤国に向かって、ぐっと親指を立て、秋葉青年は扉の向こうへ消えていった。
藤国がそれを見届けため息をつくと同時に、再び店の扉が開いた。
「秋葉君がすごい嬉しそうに店から出てきて、私と眼があった途端ににっこり微笑んで走り去っていったんだけど、なにあれ?」
「簡単に言えば、今回の仕事が成功して浮かれているって感じかな」
正確に言うと仕事の成功よりも報酬の額による歓喜なのだが。
「へえ、今回は成功したのね。まずは、おめでとう。……といっても、あなたがたかが窃盗なんかに四度も失敗するはずがないから、何か理由があって失敗に見せかけてたんでしょうけど」
「由良にはやっぱり気付かれてたか」
新しい客へ淹れたてコーヒーとサンドイッチを差し出しながら、藤国が言う。
それらを受け取って、まずはコーヒーをひとくちすすってから、由良が尋ねる。
「それで、何が目的でそんなことしてたの?」
サンドイッチをぱくついて、もぐもぐしている由良を見ながら、藤国は自分の精神状態が緊張していることを感じていた。自分のマグカップに残ったコーヒーを一気に飲み干し、気持ちを落ち着かせようとする。
藤国が、口を開く。
「実はな、由良に渡したい物があって」
「私に? なに?」
「これなんだが」
藤国はエプロンのポケットから鷹の目の指輪が入った小さな箱を取り出す。
「箱……? 開けてもいい?」
そう尋ねる由良に無言で頷く。
「わあ……綺麗な指輪。でも、どうして私に?」
不思議そうな顔で問いかけられ、藤国は天井を仰いだ。
上を向いたまま、藤国は答える。
「…………今日は君の誕生日じゃないか」
「あれっ、そうだっけ? 今日の日付――あ、本当だ。今日、私の誕生日だ。最近忙しくて全然意識してなかった」
まったく嘘っぽくないその様子に、藤国は若干呆れながらも言葉を続ける。
「それで、誕生日プレゼントにしようと思って、私は怪盗業をしていたわけだよ」
「誕生日プレゼントのために怪盗始めるなんて、変な人。社会に迷惑をかける怪盗業を認めはしないけれど、でも、純粋にうれしいわ。ありがとう」
「喜んでもらえたようで良かったよ。それで、その……もうひとつ言いたいことがあるんだが」
「なに?」
藤国は緊張した面持ちのまま、少しもじもじした様子で口を開く。
「由良、私と結婚してくれないか?」
対する由良は、数秒無言で藤国を見つめたあと、
「そろそろ時間だし、私病院に戻るわね。ごちそうさま」
と言って、代金をカウンターに置くと、店の扉を開けて外へ出て行った。
藤国はその間、石になったかのように身動きひとつ取れず、呼び止めることはおろか、眼で追うことすらできなかった。
「…………藤さん」
「ハッ…………!?」
店の入り口から聞こえてきた声で、藤国はようやく魂が身体に戻ったようだった。
秋葉青年は入り口のところに立ったまま、にやにやと口元を緩めて藤国を眺めていた。
「あ、秋葉君。どうしてここに……? 帰ったはずじゃ……?」
「いや、ちょっと携帯を置き忘れてきたのに気づいて戻ってきたんですよ」
「いつからそこに……?」
「『実はな、由良に渡したい物があって』あたりからですかね」
「結構初めからじゃないかっ!!」
思わず叫んだ藤国に、秋葉は追い打ちをかける。
「それにしても、怪盗ジーニアスにも盗めない物はあるんですねぇ。元カノのハートとか」
「………………」
「ほら、今こそあの台詞を言ってやってくださいよ。『何もかもが上手くいかない。だからこそ、人生はやめられない』って」
「…………………………」
この日、藤国は泣いた。
☆ ☆ ☆
時計屋のような喫茶店を出て、病院に戻った由良は、入院している患者の診察をしていた。
一番目は腰の手術のため入院しているおばあさんだった。
「術後の容態はどうですか? どこか痛みや違和感を感じる場所はありませんか?」
「先生の腕がいいからね、体中の悪いところが無くなったよ。ところで、先生。何かいいことでもあったのかい?いつもに増して笑顔が素敵じゃないか」
「そうですか?」
そういって由良は自分の顔を撫でる。確かにいつもよりも目尻が下がって、口角が上がっているかもしれない。
「あそこでオーケーの返事をしたら、彼はもっと思い上がっちゃうかもしれないから、私が彼の『できない』にならないとね」
「先生が何のことを言っているかわからないけれど、今の先生はとっても幸せそうだね」
「ええ、今日は最高の誕生日です」
そう答えた由良の左手の薬指で、蒼い瞳がキラリと光った。
天才じゃないよい子は真似しないように。