親愛より至るもの
――フレイが、食事に盛られていた毒によって、危険な状態にある。
その緊急事態に、王と、そして王と同じく報告を受けた王妃が、焦りを胸中に隠してフレイが運ばれた治癒室へと訪れる。
白の壁に囲まれ、部屋自体が浄化されているその広い部屋で、いくつか置かれたベッドの内、一番入り口に近い場所に、フレイは寝かされていた。
横たわるフレイのすぐ傍には王城治癒士の男が佇み、無言で治癒の魔法を小さな身体へと注いでいる。
しかし、柔らかな白光の癒しがもたらされているにも関わらず、フレイは依然として苦しげな息遣いを続けており、幼くも端正なその顔は、硬く瞳を閉ざしたまま辛そうに冷や汗を浮かべていた。
その冷や汗をそっと拭うマイアと、三人の侍女たちもまた、王城治癒士の邪魔にならないよう配慮した位置に立ちながらも、心配を浮かばせた視線を小さな主へと送っている。
「……容態は?」
近衛騎士たちが手早くフレイが横たわるベッドの近くへと並べた椅子に腰掛け、王が王城治癒士へそう問う。
王の隣に座った王妃もまた、その長い金の髪と黄緑色の瞳を小さく揺らして、そっと王城治癒士を見遣った。
王城治癒士の男は、治癒の魔法の発動を止めることなく、静かに顔を上げて王へと視線を合わせて答える。
「……普通の元気な子供であったならば、命に別状はありませんでしたが……フレイ様は特にお体が弱く、また、体力も十分にあるとは言えません。…………死力は尽くしますが、最早、後はフレイ様の生きるというご意志しだいとしか……」
「……そうか」
やるせない感情がにじむ王城治癒士の言葉に、王はそっと瞳を伏せる。
そろりと移動した王妃の黄緑色の瞳は、無言でフレイを見つめるマイアへと向かい、案じ慈しむ色を浮かばせて揺れた。
自然と満ちた沈黙が、ふと破られる。
治癒室の外から、聞こえてくる音があったのだ。
それは、数人の足音と、それに混ざって聞こえるより軽い靴音。
瞬間ざわついた治癒室の扉から、ぱっと中へと入り込む、小さな白い姿。
「!?」
驚愕し、思わず腰を浮かせた国王夫妻にさえ目もくれず、いまだ荒い息を吐き横たわるフレイの傍へと駆け寄った小さな姿は、震える声で――しかし、はっきりと彼の名を叫んだ。
「フレイっ!!」
悲鳴にも似た必死なその声は――自らの寝室から出られなかったはずの、幼い少女のもの。
「……ティリア」
呆然と呟いた王の言葉に、振り返った少女は涙を零した。
「……おとうさま……おかあさま……」
その弱々しい声音と涙に、反射的に足を前へと動かした王妃が、幼い身体に手を伸ばす直前。
「フレイ様!」
「おぉ……!」
「っ!」
マイアと王城治癒士の男が、喜びの声を部屋に響かせる。
パッと振り返ったティリアは、荒い息の中、うっすらと瞳を開いたフレイを見て、声を上げた。
「フレイっ! 生きて!!」
「!」
幼い少女の叫びに、全員がハッとフレイを見遣る。
声をかけられたフレイは、聞こえた声の方へと顔を傾け、その深緑の瞳を一度瞬かせた。
「……ひめ、さま……?」
ぼう、とした視界と思考の中、導き出した答えに、ティリアは強くうなずいた。
「しんじゃダメ! 生きて、フレイ!」
涙を零して、それでも一生懸命に。
そう伝えるティリアに、フレイはでも……と呟く。
「……ぼくは……」
それ以上は続かない言葉の中。
漠然とした諦めを悟った大人たちの多くが、表情を強張らせる。
――しかし。
「ダメ!!」
「! ……ひめ、さま……?」
響く強い声音に、フレイが不思議そうにティリアを見つめる。
そんなフレイを見つめ返したティリアは、止まらない涙を必死でこらえ、言葉を重ねた。
「まだ、これからたくさん、本をよむの! たくさんたくさん、本をよんで、おもしろいねって、わらうのよ! ……わたしっ、もう、こわがらない! だからっ、つぎからは、いっしょにっ、いっしょに……っ」
止められない涙を、ぬぐい、ぬぐい。
「いっしょにっ、よむのよっ!!」
ただ純粋な、祈りが響く。
降りた沈黙と、小さな泣き声。
そっと瞳を閉じたフレイもまた黙し――けれど、次の瞬間。
「――はい、姫様」
はっきりと発音された言葉が、沈黙をくつがえす。
「……ほ、ほんと?」
驚き問いかけるティリア。
フレイは、常に浮かばせていた小さな微笑みをたたえ、はい、と答えた。
「……ぼくは、かならず元気に、なります……。ですから……今度こそ」
いまだに整わない呼吸の合間。
確かに、祈りに応える言葉が響く。
「今度こそ……いっしょに、本を読みましょう」
ふわり、としたその微笑みに、満開の花のように、笑みを咲かすティリア。
「――おいで、ティリア」
それらのやり取りを見て安堵の一息をついた王が、ティリアを呼ぶ。
それに、少し驚いた様子で振り返ったティリアは、伸ばされた大きな両腕に抱え上げられ、そのまま王と王妃と共に、治癒室を後にした。
治癒室のすぐ隣にある一室。
場所をそこに移した王と王妃、そして近衛騎士たちと侍女たちは、一様に驚いた雰囲気を抑えられずにいた。
原因はもちろん、ティリアである。
三年前の事件より、寝室より外に出ることを頑なに拒絶していたティリアが、突然寝室から出て、更には遠い治癒室まで来たのだ。
事情を知るが故に、驚くのは当然であった。
――しかし、大人たちの驚きに気づくことも無いティリアが紡ぐ言葉は、小さな彼女の小さな婚約者である、フレイのことばかりであった。
「おとうさま、フレイは、きっと元気になりますよね?」
「あぁ。きっと、よくなるだろう」
再び不安げに涙をにじませる娘に、王は治癒室にいるべきだっただろうかと後悔がかすめる一方、一つの真実に気付く。
それは即ち――恐れを抱いていて尚、その足を外へと向かわせるほど、ティリアにとってフレイが大切な存在となっている、ということ。
王と同じことに気づいたのだろう王妃が、その黄緑の瞳に、小さな白い姿を映す。
華奢なその身体は、今も小さく震えていた。
きっと、それは寝室を飛び出してきた時から、今までずっと、止まってなどいなかったのだろう。
――一体、どれだけの恐怖を抱えたまま、走ったのだろう?
ティリアの身体が震えていることに気付いた者たちは、皆一様にその瞳を暖めた。
王もまた、小さな末娘の成長に、青の瞳を優しく細める。
そして、自らの娘に、成長する勇気を与えてくれたフレイへと思いをはせ、そっと瞳を閉じた。
「――よく、がんばりましたね……ティリア」
「……おかあさま」
そっと抱きしめた王妃の腕の中で、ティリアがもう一度涙を零す。
王妃は、立場的にはティリアにとって義母にあたる。
しかし王妃自身は、例え自らの血が流れていなかったとしても、ティリアは大切な娘であった。
「ティリアは、フレイをとても大切に思っているのですね?」
涙を流すティリアに、優しく問う王妃。
ティリアは泣きながら、それでも深くうなずいた。
「いなくなっちゃ、いやなのっ。……いっしょに、いてほしいのっ」
「そう……」
懸命に、そしてただ純粋に親愛を告げる義娘に、慈愛を込めてうなずく王妃。
そうして。
誰もが、この小さな姫君が慕う彼の生を願い……。
――そしてそれは、他ならぬ彼自らの意志によって、見事に叶ったのだった。
フレイが倒れた日から、数日後。
柔らかな、朝の日差し差し込むティリアの部屋にて。
「――本当に、お元気になられて良かった……」
「ご心配をおかけしました」
思わず場にいた侍女全員が涙ぐむ、初老の侍女エフェナの言葉に、礼儀正しく頭を下げて謝罪をし、そして自らも嬉しそうな笑みを浮かべる、フレイ。
ティリアとの会話通り、王城治癒士の協力の下体調を回復させたフレイは、早速ティリアに全快した旨を伝えに来ていた。
元気になってから、フレイの周りには少しだけ変化があった。
結局のところ、調べた結果フレイが口付けた飲み物に毒を盛ったのは、王城に来てからフレイの侍女となった三人の女性の内の一人……ゼルロース侯爵家の息がかかった者だった。
王はこの一件を、主犯の侍女の独断によって行われたことだとして、ゼルロース侯爵家が関与していることに、気付かぬふりをした。
他ならぬ、フレイの立場を守るために。
それに伴い、速やかに、しかしなるべくフレイが不安にならぬようにと、三人の侍女全員がフレイの侍女から外れる事となった。
毒を盛った侍女には罰を、他二人の侍女は真っ当な者だったので別の配置へとつけ、フレイには新たに特に信頼できる侍女二人と、守護を強化するための人替の意味を強め、近衛騎士から一人が選ばれ、専属の護衛についた。
元々人見知りをするわけでもないフレイはその変更を受け入れ、今も彼の後には、マイアと新たな二人の侍女、そして近衛騎士の青年が静かに控えていた。
そして、それとは別に。
心配しながらも、邪魔になってはいけないと、結局あの日から一度もフレイのもとへと来ていなかったティリアは、自室内ならば寝室でなくとも、普通に過ごせるようになってきつつあった。
誰もが喜ぶ変化は、確かに、今日という日に花開く。
「さて、それでは早速――ティリア姫とフレイ様の、正式な〝顔合わせ〟となる、この素晴らしき日に――祝福を」
にこり、と嬉しそうに笑んでそう語ったエフェナに、フレイもまた嬉しそうな笑みを深めてうなずく。
「ティリア姫」
呼びかけるエフェナの声に、長らく閉ざされていた寝室の扉が、そっと開かれた。
「!」
「っ」
フレイとティリア。
扉が開いた途端、二人は互いに小さく息を呑み、そしてその瞳を驚きに見開いた。
フレイの深緑の瞳に映ったのは、かすかな記憶を鮮やかに彩る――儚く白き少女。
さらりと流れる、癖の無い、白に近い白金の髪。
可愛らしくも整った、小さな美貌。
そこにそろう、澄んだ湖のような青の瞳。
華奢な身体を包む、白を基調とした子供用ドレス。
そのどれもが、今のフレイには、眩く見え――。
同時に、ティリアの青い瞳に映ったのは、陽光を優しく受け止める――儚き緑の少年。
陽光に煌く、少し癖のある、明るい薄緑の髪。
幼くも綺麗な、端正な顔。
そこにそろう、深い森を思わす緑の瞳。
少し肌色が良くなった痩身に、緑を基調とした子供用貴族服。
それらはティリアにとって、優しくも眩いもので――。
「綺麗……」
「きれい……」
思わず零れた呟きが、見事に重なって部屋に響く。
途端に互いに増した頬の赤みに、どちらからともなく笑みが浮かんだ。
見守る侍女たちと近衛騎士もまた、そっと温かな視線を注ぐ。
優しい陽光に導かれて。
二人はそっと、手を取り合った――。
王の執務室の中。
告げるべき言葉を胸に秘め、王はそっと呟いた。
「願わくば、心優しき彼の瞳が、あの陰に染まらぬように――」