毒蜜の味と赤の記憶
お待たせしました!!
陽光鮮やかな昼時。
フレイはティリアの誘いにより、彼女の部屋で昼食をとっていた。
ティリアが、フレイが病弱であることを知った日から、はや十日。
フレイがティリアの部屋を訪れ、言葉だけのやりとりをする日々は、二人にとってすでにかけがえのない時間となっていた。
「おいしいね! フレイ!」
「えぇ。とっても美味しいですね、姫様」
「えぇ!」
昼食を味わう部屋は違えど、声音は互いに嬉しげなもので、互いの従者も笑顔にて配膳をしていた。
量の少ない子供の食事ではあるが、そこは王族とその婚約者。小さめの食器に少ない量で、選り取り見取りなメニューが間をもって机に並べられる。
実家では自室に引きこもりがちであったフレイにとって、明るい陽光の下、マイアを中心にして近日新たに自らの侍女となった三人の女性たち、計四人の女性陣によるその光景は、まだまだ見慣れぬもので、時折眩しそうに深緑の瞳が細められていた。
温かで穏やかな、楽しい食事の時間。
本来それだけで終わるはずだった食事は、フレイの前に置かれていた、一カップの飲み物によって、唐突に終わりを告げることになる。
食事中、のどを潤すために置かれた爽やかな香り漂うその飲み物を、こくり、と一口、フレイが飲み干した瞬間だった。
「――ッ」
ぱちりと見開かれた深緑の瞳と、常から落ち着いた仕草をする彼に似合わぬ慌しさで机の上に戻されたカップ。
――そして。
「ッ、ケホッ、コホッ」
「フレイ様っ!?」
小さな両手で口元を抑え、背を丸めて強く咳き込むフレイの姿に、マイアが顔色を変えて傍へと飛んで来る。
病弱であるフレイにとって、咳をすること自体はそう珍しいことではない。マイアが飛んで来た時点で、大丈夫だと仕草や表情で伝えるなら、現状で言えば単にむせただけなのだ。
……しかし、咳をしている最中に彼自身の余裕が無いならば、それはすなわち、例外的事態であるということに他ならない。
「フレイ様? 大丈夫ですか?」
背をさするマイアのその呼びかけに対し、未だぎゅっと瞳を瞑って激しい咳を続けるフレイに、これはただごとではないと判断したマイアが表情を険しくする。
それと同時に、扉越しから事態の異常性を鋭く悟ったティリアの筆頭侍女である初老の侍女エフェナが、扉を開けてフレイの方へと碧の視線を向け、ただちに状況を理解。
一瞬の間さえおかず、貫禄を宿した女声が響いた。
「すぐに治療士の方を! それと陛下にご報告を!」
扉を境に最初は後方、次は前方へと二つの部屋にいるそれぞれの侍女へと飛んだ指示に、方や真剣に、方や青ざめた表情で、互いに一名が部屋から飛び出す。
ざわりとした緊張が瞬く間に二つの部屋を多い尽くし、まだ激しい咳を続けているフレイを、ティリアの傍に残った侍女を除き、残った侍女たちが総出で介抱に取り掛かる。
「ふ、フレイ? だいじょうぶ……?」
扉の奥で、ティリアもまたそう不安げに尋ねるが、いつもなら穏やかに返ってくる返事はしかし、今は無い。
扉越しでも息が辛くなっていることが分かる現状に、ティリアは震える。
彼女の頭に過ぎったのは、恐怖と哀しみに満ちた過去と同じ、恐ろしさ。
――目の前にいる人を、喪うかもしれない、その恐怖。
「治癒士の方を連れてまいりました!」
そう言って慌しく部屋へと入って来たティリアの侍女の一人と、その後から真剣な表情で足早にフレイへと駆け寄る、以前もフレイを診た王城治癒士の男。
彼は、すでに半ば意識を飛ばしたフレイを見るなり、その小さな身体を素早く抱き上げた。
フレイを包む両手はすぐに温かな白光を発し、癒しの魔法を発動する。
「治癒室へ移動します」
早口で簡潔にそう告げた王城治癒士の彼は、次いでさっと身をひるがえして部屋を出た。
男を追ったマイアを含めたフレイの侍女四人を見送り、初老の侍女エフェナは再び碧の瞳に険しさを浮かばせる。
――これはいよいよ危険な状態かもしれない……と残されたティリアの侍女たち全員の口元まで出かかった言葉は、無言でぐっと呑み込まれた。
これ以上、自身が仕えている小さな主に、心配をかけさせるわけにはいかない。
静かに扉の奥、寝室へと戻ったエフェナたちは、立ち尽くして震えるティリアと、ティリアの傍でその様子を心配そうに見つめる仲間の侍女を見つめ、どうしたものかと視線を交わしあった。
床へと視線を落としたまま、無言で震えるティリアに、エフェナはそっと寄り添うように近づく。
その時。
小さな声が、一つの言葉を零した。
「――おかあさま……」
「っ!?」
六人の侍女全員が驚きに瞳を見開き、言葉を発した本人――ティリアへと、視線を向ける。
そうしてゆっくりと上げられたティリアの顔、その揺れる瞳に、侍女たちはそっと息を呑んだ。
――それは、もう三年も前になる、とある日の記憶。
良く晴れた空の下。
王城庭園からの帰り道。
幼い娘の手を引き微笑む、実の母。
少しの偽りも無い、幸せな時間。
――それが、突如として消え去った。
小さなティリアの手を引いていた、その手が唐突に離れる。
ふらりと前に傾いたその身体が、床へと倒れ……そして。
赤。
白磁の床も、彼女が纏っていた、王の瞳と同じ色のドレスも。
反射的な悲鳴と、彼女の名を呼ぶ声。
そして、広がる赤の中心で眠る、実の母を見つめるティリア。
「……ティリア姫……」
零され遡った三年前の悲劇に、エフェナが小さくティリアの名を呟く。
ティリアの実の母である女性が、放たれた悪意の魔法に倒れた後。
二度目の襲撃を警戒したエフェナは、すぐさま今より幼かったティリアを抱き上げ、ティリアの自室の中で最も奥の部屋に当たる、この寝室へと連れて来た。
放心状態であったティリアに、ここなら安全ですから、と多くの侍女や騎士が言葉を重ね、それに瞳を瞬かせるばかりのティリアは、小さくうなずきを返すのみ。
そうして、誰もがその心を守ろうとしたティリアへ、彼女の実の母が亡くなったと言う現実が突きつけられるのに、そう時間はかからなかった。
幼いティリアは母の死を聞かされ、初めて恐怖に震えた。
そして、その日から。
〝安全〟と言われた寝室より外に、ティリアは出られなくなった。
実の母の死を目の当たりにした彼女は、死の可能性を酷く恐れ、何よりもその心が、〝外〟に出ることを拒絶した。
それは、あの日より三年の月日が流れた今でも、変化することは無く……。
小さな身体は、今も震え、外へと出ることを拒絶する。
――しかし。
「……フレイっ」
呟かれる名前と、強く閉じられる瞳。
怖い。今だって。
それでも――心が、叫ぶから。
「っ!」
ぱちっと開かれた瞳が、眼前の扉を映す。
その先で、微笑む実母と、穏やかなフレイの声が重なった――。
心が、叫ぶ。
強く、強く。
――いかなくちゃ。二度と会えなくなるまえに。
とん、と小さな足が踏み出される。
きゅっと結ばれた小さな口と、拳をつくった両の手。
小さな一歩は、すぐに駆け足となった。
「!? ティリア姫!?」
慌てて名を呼び追いかける、エフェナに振り返ることさえ無く。
小さなその手が、扉を勢い良く押し開いて。
――三年ぶりに、小さな白のその姿が、〝外〟へと走り出でた。