葉の常ととある疑念
「フレイ様、朝に――!」
穏やかな朝。
ぼうっとした頭で深緑の瞳をひらいたフレイは、やけに重い身体と焦ったようなマイアの表情に、また……と呟いた。
「昨日は少し、無茶をしすぎましたね」
「そのようです……」
ベッドの中、温かな布に包まれながら、フレイはそっと苦笑を浮かべる。
幼い頃のある日を境に、フレイはとても病弱な身になってしまった。
長い間外の風にあたることや、少し無茶な運動をするだけで、すぐに熱が出てしまう。
以来、両親からも安静に、大人しく、と言い聞かされて日々を過ごしてきたために、十分な体力があるわけでもない。
そのお陰で前々から好きだった読書がはかどり、以前よりも本が好きになったのは良かったが、それは本来心配をかけないことが前提のものであったはずだった。
「ごめんなさい、マイア」
そう、申し訳なさそうに眉を下げて謝るフレイに、マイアは静かに首を横に振った。
「いいえ。こればかりは致し方ありませんよ、フレイ様。……その分、昨日は楽しかったのですから、良しとしましょう?」
身を案じる自らの胸中はさておき、とマイアはそう紡ぐ。
事実、昨日は思いがけず長く楽しい時を過ごしたからこそ、今日は熱が出てしまったのだ。
大切な主が倒れることが、心配で無いとは言えない。心底優しい小さな主が、そうやって心配する自らを見て心苦しく思うのも、いただけない。
けれど一方で、楽しげに朗読する姿を見て、確かに嬉しいと思ったのだ。幼くも穏やかな主はしかし、本当の意味で笑う時は、極わずかだから。
本来見せない心からの笑顔を、昨日は一体何度見ただろう、とマイアは昨日の時間を思い出して微笑む。
「その代わり、明日には元気になって、また姫様にお会いしに行きましょう?」
「はい! そうできるように、頑張ります」
「是非とも、そうして下さい」
決意を込めてうなずくフレイと、そんなフレイに温かく笑いかけるマイア。
それは、フレイの体調が悪いと知った王が、王城治癒士をフレイの部屋へ向かわせるまで、いつもと同じく穏やかに続いた。
「え!? フレイ、ねつがでたの!?」
「えぇ……以前からお体が弱い方であるとお聞きしていましたので、昨日も少し心配していたのですが……」
「そんなっ」
きゅっ、と自らがまとう小さなドレスをにぎり俯くティリアに、初老の侍女エフェナは、申し訳なさそうにその碧の瞳を伏せた。
ティリアは、実年齢よりも幼さの目立つ子であった。
身体が華奢であるのを筆頭として、素直で感情的な表出が多く、そして何よりとある事情により、寝室より外の空間に出ることが出来ない。
それ故、彼女の周囲にいる者たちは、いかに彼女を守るかという点に全力を注ぐことが常となっており、それは今回の婚約者問題でも変わらなかった。
幼くして婚約者を持つことは、王族や貴族の間では珍しいとは言えない。けれども、その相手が名高き悪徳貴族の長男などになれば、また話は違ってくる。
幸い、昨日の出逢いにより、婚約相手であるフレイが心優しい少年であることが分かった為、今後はいかに彼を悪に染めないかという点を注意するだけで済むが、それとこれとはまた別の話である。
婚約をするにあたって、諸々のことを気にかけた周囲、つまりエフェナを筆頭とする侍女六人は、婚約者となるフレイのことを詳しくティリアに伝えていなかった。
それは、当然と言えば当然の対応で、とどのつまり悪名高き侯爵家の嫡男のことなど、そもそもどう話せばいいのか、と全員が頭を抱えたのだ。加えて、そういった話をするには、ティリアが幼すぎることも、大問題であった。
結果的に、ティリアにとっては、昨日は元気であったフレイが、急に熱を出して安静にしなければならないという、予想外な事態が起こってしまった。
「ティリア姫……」
俯いたまま沈黙を続けるティリアに、エフェナがそっと寄り添う。
昨日と同じく楽しい一日を想像していたティリアにとって、今日が心配と落胆が混ざった複雑な一日になるであろうことは、六人とも容易に想像することが出来た。
時の流れとは、意識しなければしないほど、短く、残酷なものである。
王が送った王城治癒士により、夕方にはすっかり熱がひいたフレイと、その報告を聞いてほっと安堵するティリア、そしてその周囲が穏やかな心地で、少し早めの眠りにつこうとしていた頃。
王の執務室では、穏やかとは正反対な空気が流れていた。
「……すまない。もう一度、言ってくれないか?」
「――は」
自らが腰掛けるイスに深くもたれ、思わず額に手をやった王が、驚愕と沈鬱の狭間を乗せて言う。
それに答えたのは、つい先ほどまで光の魔法にてフレイの治癒にあたっていた、王城治癒士の男。
彼は、頭を抱えんばかりの表情を見せる王の前にて、今一度深く頭を下げ、自らの見解を告げた。
「今回治癒を任せていただきましたフレイ様ですが……あの方の体調不良は、どうもただの虚弱から来るものでは、無いのではないかと……」
「それは、一体どういうことかな? ただの虚弱では無いとは……」
王に負けず沈んだ声で告げた治癒士に、今度こそはっきりと戸惑いを現して、王が問う。
真剣な青眼が向けられ、それを受けた治癒士が、そっと瞳を伏せた。
重苦しいわずかな沈黙の後。
哀しげな瞳を見せた治癒士が、苦々しい声音で、問いに答えた。
「……おそらく、毒をもられていたのでしょう。それも、もうずいぶん長らく、毎日少量ながら、確実に……死なない程度に」
「…………なんと」
よもや、そのような事が――。
呆然とした呟きが、地に落ちる。
再び伏せられた治癒士の瞳と同じく、王もまた、強く瞳を閉じた。
そうして思い起こされるのは、フレイ・ディア・ゼルロースと言う名の少年の情報と、ほんの先日行われた、彼の謁見での姿。
年は、末の娘であるティリアと同じ、九。
悪名高きゼルロース侯爵家の長男にして、ティリアの婚約者となった者。
そして、ティリアと同じく、六歳の時に起きたとある一件によって、その後の生活が一変した者……。
少し癖のある薄緑の髪と、青白さが目立つ痩身。
癒えぬ傷のように深い陰と、それとは別に宿る純粋な色を宿した、深緑の瞳。
ともすれば、穏やかと言う言葉だけで終わらせてしまいそうになる雰囲気は、心優しくも、どこか何かを諦めているような、達観したものだった。
正しく、九歳の子供には、似つかわしくないものばかりで……。
寝室より外に出られなくなったティリアと、虚弱になってしまった彼。
互いに心配されるのは未来で、それ故に今回の婚約は成立した。
――けれど、もし、一方のその事情が、意図的につくられたものだったとしたら……?
「――調べねば」
重厚な声が、部屋に響く。
そっと開かれた王の青眼には、静かな決意が宿っていた。
それを見た治癒士が、再び深く、その頭を下げた。
「……なにとぞ、よろしくお願いいたします」
フレイ様のためにも……と続けられた言葉に、王は深くうなずいた。
そうして、翌朝。
王の一声で集められた重鎮たちがそろう玉座の間にて、昨晩の治癒士との会話を語った王が、いっそう強い声音で、告げる。
「今一度、ゼルロース侯爵家についての情報を集めよう。ただし、まだこちらが疑っていることを、悟らせてはならん。密やかに、そして迅速に――」
鋭い青眼が、射抜く剣の煌きを以って、臣下たちの背を伸ばさせた。
「我らは知らねばならない――真実を。そして、守らねばならない――ようやく我らの前に現れてくれた、幼き民の一人を」
静かに振り上げた王の拳に、力強い了解の声が唱和した。
幼き二人は何も知らない。
時の流れの残酷さも、真実の悲惨さも。
それ故に、二人にとってはただ、穏やかな時間が過ぎて行く。
初めての友人を得たように、二人は扉で隔たれた互いの空間にて、それでも言葉を交わし合った。
幼くも穏やかな朗読の声が、今日も明日もと響き渡る――。