思い――重なる夜空の色
大変お久しぶりにございます。
忘れられていないか怪しげですが……。
『花言葉』第二部――静々と開幕。
淡い月明かりが、陽光をわずかばかり集めたような小さな光を灯す部屋に、射し込んでいた。
薄暗い部屋の中、小さな魔法の光が照らすのは、木製の机と、その机と合わせて用いられる椅子に、腰かけた人物。
撫でつけ整えた薄緑の髪を、魔法光と月光とに煌めかせ、少し明るめの緑瞳を机の上に注ぐのは、新代ゼルロース侯爵、フレリアス・ゼルロースであった。
夜も更け、月と星がいっそう輝くこの時間、フレリアスは一つの思い出を、胸の内で反芻していた。
それは、実母、マリーフレア・ゼルロースとの、記憶だった。
――まだ、フレイと、そしてフレリアスもまた、ゼルロースの本邸にて、マリーフレアの庇護下にあった頃。
マリーフレアは、本来ならば次期当主となる跡継ぎにしか伝えない、ゼルロース侯爵家の古き伝承を継ぐ者として、薬効の紡ぎ手の知識と技術を、フレリアスに伝授していた。
それは多く、薬草の知識や薬の製法であったが、中には旧家特有の、まさしく伝承と語るに相応しきものも、幾つかあった。
ふと、フレリアスは今一度、机の上に置いた物を瞬いて見つめる。
それは、一見では古いものだと分からないほど丁寧に製本された、一冊の本であった。
すべらかな表紙は、深い森を思わす濃い緑色。角革には薄い銀板が用いられ、ふちに描かれた蔦模様は、繊細さと上品さを魅せている。
表紙上部に刻まれた本の名は――《緑の書》。
開いて分かるのは、その内容が、膨大な数の薬草について書き記された、薬学の書だということ。
ただ、フレリアスにとって、この本は薬学の書であるという形以上の意味を、有していた。
――記憶の中、マリーフレアは言った。
まるで、フレリアスに未来を、託すかのように。
「いいこと? フレリアス。この《緑の書》は、我がゼルロース侯爵家にとって、とても大切な本なのです」
「はい。分かっております、母上。母上が大切にされているという事は、我が家にとっても大切なものでしょうから」
美しい緑の本を持ち出し、唐突にそう告げた母に、フレリアスは当然だと答えた。
《緑の書》については、すでに幾度か話をされており、とても貴重な物であることは、把握していた。
……しかしその当時は……否。現在に至っても、この次に紡がれたマリーフレアの真意を、フレリアスはどうしても、掴めなかった。
思慮深く、人を見る目に秀でていた母は、フレリアスにこう告げた。
「いいかしら? フレリアス。これより先――あの子が……フレイが、成人した、その時。……その時は、この《緑の書》を、フレイに見せてちょうだい」
「は……フレイに、ですか?」
「そう。あの子に。――必ずですよ。……フレリアス」
――最後に呼ばれた名の響きは、どこか祈りに似ていた。
回想より意識を戻したフレリアスは、改めて、木目調の机に映える、その濃い緑の本に視線を重ねる。
「――時が、来たのですね」
ぽつりと零された言葉は、今は亡き母へと向けられていた。
すっと上げた顔に、真剣さが浮かぶ。
窓の外、美しい夜空へと向けられた明緑の瞳は、決意を秘めていた。
「明日、フレイに渡します。それで良いのですね? ……母上」
忘れていた切なさが、込み上げてくるように。
夜空を映した瞳が、かすかに淡く、煌めいた。
――時を同じくして。
花の彩り鮮やかな王城内の一室、そのテラスにて、佇む姿があった。
年の頃合いは、成人たる十八に数回年月を重ねた、といった所。
若く引き締まった長身を包むのは、鮮やかな青の生地を、金糸で飾った豪奢な上級貴族服――否、王族の衣装だ。
吹き抜ける風に揺れるのは、夜の色に染まったこの時間においてもひときわ目を惹く、黄金色の長髪。浮かぶ不敵な笑みに反し、甘やかさを魅せる端正な美貌に、笑みと同等の、力ある者らしい輝きを放つ、濃く澄んだ青眼。
どこか尊大さを放つ雰囲気を持つその青年は、星煌めく夜空を見上げ、ふと言葉を紡いだ。
「――ようやく、か」
短い、一言。
ただそこには、深い深い、感慨があった。
……その一言のみで、彼が待っていた年月の長さを、推し測れるほどに。
「長かったぞ、フレイ。――妹の救済と、貴殿らの結婚。……やれ、本当によくぞ私も、ここまで気長に待ったものだ」
青年は、笑った。不敵にして鮮やかに、王者の威厳を纏わせて。
「めでたいな! ああ――だからこそ」
紺碧色の青眼が、美しい夜空を射抜く。
吹き抜けた風が、長い金の髪を躍らせ、宙に煌めきを描いた。
青年は今一度、言の葉を紡ぐ。それこそが、青年の心情を示すものだった。
「フレイ。貴殿は、本来の姿を取り戻すべきだ。……我ら兄妹と貴殿、この三花が同じ時代に集った以上――必ずや、何事かは起こるであろうからな……」
不思議な言葉と不吉な言葉。
二つの言の葉が示すその意味は、いまだ誰にも語られることなく、静かな夜風に流され消える。
星々が満つ夜の中、太陽のような金の髪は、それからも長い間、風に揺れて煌めいていた――。




