あなたとの時間
大変お待たせ致しました。
花が刻まれた玉座の間で、長き罪の終焉と新たな始まりを示した、その翌日。
穏やかな朝日を満たしたティリアの部屋で、フレイとティリアは朝食後の一杯と、カップを傾けていた。
「今日の朝食もとってもおいしかったわ!」
カップをテーブルへと置き、そう笑顔を咲かせたティリアに、フレイは眩しげに微笑む。
――思いが通じ合い、後数日で本当の家族となる二人。
その事実と、互いに咲かせる笑顔を喜ばない従者は、そこにはいなかった。
後ろに控えるそれぞれの従者もまた微笑む中、ふと射し込んできた陽射しに、ティリアがくるりと振り返り青の瞳を細める。
同じように陽光へと深緑の瞳を向けたフレイが、穏やかに提案を紡いだ。
「バルコニーへ行きましょう、ティリア。ここより綺麗に、この光が見えるはずですから」
射し込む光を掬うように掌を掲げ、常以上の穏やかさと温かさを放ちそう告げるフレイに、ぱっと表情を変えたティリアの瞳が煌く。
「行きましょう!」
言葉と共に勢い余って立ち上がったティリアに、一瞬深緑の瞳を瞠目させたフレイが、小さく噴出しながら遅れて立ち上がった。
「はやくはやく!」
「あははっ、分かっていますよ」
待ちきれないとばかりに言葉を紡ぐティリアに、楽しげな笑みを浮かべながら手を差し出すフレイ。自然に、そして何より嬉しげに寄り添った二人は、一足先に透明な扉を開き誘うエフェナとマイアの間を抜け、バルコニーへと歩み出た。
白磁で統一されたバルコニーは、眩いばかりの光で満ち、フレイとティリアは揃って瞳を眩しげに細める。
柔らかくも鮮やかに降りそそぐ朝の陽光が、二人の薄緑と白金の髪を煌かせた。
「――今日は、久しぶりにゆったり過ごしましょうか」
蒼穹の空を見上げ、そう穏やかな言葉を降らせたフレイに、ティリアはフレイを見上げる。
晴れ渡る青を映していた深緑の瞳がそっと移動し、今度は湖の青を映して、優しげに瞬いた。
どちらからともなく伸ばした両手が、互いの手を取り合って絡み、そこから愛しい温もりが伝わる。
「まずは、庭園へ。――僕たち二人の花を、ティリアの部屋に飾りましょう」
そうしてふわりと微笑んだフレイに、ティリアもまた、満面の笑顔でうなずいたのだった。
かくして、寄り添い訪れた庭園の中。
色とりどりに咲き誇る花々の中に、その花はあった。
「――これが、マリアフィール?」
「えぇ」
大きな樹が、葉を茂らすその近く。
淡い金に煌く花弁を並べた、掌ほどの大きさの、美しい花。
その花が集まり咲く場所で立ち止まり、フレイは殊更大切そうに、言葉を紡いだ。
「幸福を意味し、象徴する花――幸福の花です」
フレイが紡いだ言葉の通り、陽光を受け、淡くも金に輝いて目を惹くその様は、幸福を象徴するに相応しい。
ふとその花から視線を外し、フレイを見上げたティリアは、その穏やかな深緑の瞳が懐かしげな色を湛えている事に、気がついた。
一拍の間を空けて、しかし次に言葉を発したのは、フレイではなかった。
「――マリアフィールは、フレイ様の祖母、マリーフレア様のお名前の、その元となった花のひとつなのです」
一歩を踏み出し、フレイの後方からそう語り紡いだのは、マイア。その茶色の瞳もまた、フレイと同じ懐かしさを湛え、マリアフィールの金色の花弁を映していた。
「そうだったのね……」
フレイの瞳に湛えられた懐かしさの意味を知り、ティリアはそう、うなずき答える。
と、その青の瞳が、ふと納得に煌めいた。
「だからお父様は、わたしたちの新しい家名を、満つる幸福にしたのね!」
ぱっと振り返ってそう自らへと紡いだティリアに、フレイは深くうなずく。
「えぇ、おそらくは。――お祖母様は、先代国王陛下の信頼も厚かったと伺った事があります。その上、僕や叔父様をずっと護ってくれていました。僕たちの新たなる家名において、王族に連なることを示す国名の一部と共に、お祖母様の名前の元となった花――マリアフィールが用いられても、不思議ではありません」
事実、王はそういった考えの下、ティリアとフレイにフィンマリアの家名を与えていた。
――あるいは、マリーフレアがその名に授かったものと同じく、二人が幸せになれるように……と、願いを込めて。
嬉しげに微笑むフレイに、ティリアもまた嬉しくなり、より一層自らが右腕を絡めるフレイの左腕に寄り添う。
ぴたりとくっついた互いの腕から、温かい――幸福が、身体に心にと広がり満ちて行く。
このままずっと寄り添っていたい、という思いが胸中に響き、しかしフレイはそこで、はたとこの庭園を訪れた目的を思い出した。
つと左下へと視線を落とすと、そこには幸せそうな表情で自らに寄り掛かるティリア。今までのフレイならば、その表情を見ただけで、予定の変更すら考えていただろう。
しかし、今のフレイは。
「ティリア。名残惜しくはありますが、そろそろマリアフィールを摘みましょう」
優しく、その白金の長髪をひと撫でしたのち、ティリアへとそう紡いだ。
常通り穏やかで、しかし不思議な夢心地を終わらせるに十分な声に、ティリアははっとしたようにフレイへと振り向く。
その円らな青の瞳に見つめられ、フレイは軽く笑みを零した。
「そっ、そうだったわ! お花を摘みに来たのだものね!」
大好きなフレイの間近で見た笑顔と、本来の目的を忘れていた気恥ずかしさとで頬を染め、ティリアは素早く視線をマリアフィールへと下ろす。
その青の瞳を深緑の瞳もまた追いかけ、そっと二人の手が金の花弁へと触れた。
「このお花をお部屋に飾ったら……きっと、本当に綺麗だわ」
「当然です。――〝幸福〟そのもの、ですから」
吐息をつくようなティリアの言葉に、フレイが微笑みを重ねて返す。
小さな音を立て、摘み取ったマリアフィールが淡い煌きを魅せ、フレイとティリアは互いを見合い、小さく笑みを零した。
そうして、ひとしきり穏やかな笑顔を交わしあった後。
静かに膝をついた侍女一同が金の花を丁寧に摘み、穏やかに立ち上がったフレイとティリアが見つめる中、当初の目的が果たされる。
「さぁ、ティリアの部屋に帰りましょう」
「えぇ!」
優雅にティリアの右手を引いたフレイの言葉に、ティリアは満面の笑みで答え、二人の腕が絡む。
マリアフィールを抱えたエフェナとマイアがうなずき合い、ティリアの部屋へと帰る道を、主人二人従者九人が連なって歩く。
射し込む陽光に照らされた廊下は眩く、しかしその輝きに劣らぬ煌きを放つ花を見ようと、ティリアは時折後方を振り返る。
そんなティリアが転ばないよう、それとなく支えるフレイの手腕はやはり見事で、同時にかつて以上の愛しさに満ちていて。
――そうして帰りついた、ティリアの部屋の中。
部屋の中心にあるテーブルへと飾られたマリアフィールは、まさしく二人の幸せを表すかのように、美しくその金の花弁を煌かせた。
「わたし、幸せよ? フレイ」
さらりと流れる白金の髪を揺らし、ティリアは隣に寄り添うフレイを見上げる。
柔らかな表情と共に紡がれたその言葉に、フレイは僅かに瞠目した後、その深緑の瞳を嬉しげに細めた。
「僕も、幸せですよ? ティリア――」
そっと向き直り伸ばされた両手が、ティリアを優しく包み込む。
愛おしい人への抱擁は、すぐに互いの温もりをその内に満たし、二人は共に穏やかな微笑みを浮かべた。
――そこにはもう、哀しみは無い。
残酷な過去がもたらす痛みも、すれ違う思いの辛さも、無い。
ただただ、傍に居てくれるだけで、居られるだけで、どうしようもなく嬉しくて。
――きっと、溢れ流れる雫さえ、愛しさが満たしてしまうだろう。
そっと開かれた深緑の瞳が、そこに黄金の花を映す。
大好きな祖母が名に持つ通り、その花は確かにフレイに幸せを与えてくれている。
そして、それはティリアにとっても、同じだった。
「……ねぇ、フレイ」
「はい」
甘えるような声音の呼びかけに、フレイは抱きしめる腕を放すことなく、穏やかに応える。
今まで幾度も聞いてきたそのフレイの声、言葉に、ティリアはこれまで以上の安らぎを感じた。同時に、甘やかに跳ねる、新しい鼓動の音も。
どきどきと不思議に響く胸の音を聞きながら、ティリアは無意識にフレイの胸元へと頬をすり寄せ、言葉を続けた。
「お昼からは、いっしょに本を読みましょう? 久しぶりに、あのソファーに並んで座って、読みたいの」
いぜんとして甘えるような声音での言葉に、すり寄る頬と、そしてそろりと見上げてくる、期待に揺れる青の瞳。
後数日で自らの妻となる可愛い婚約者の、無意識でいて心撃ち抜かれるそのお願いに、フレイは知らず小さな苦笑を浮かべながら、頬をかすかに赤く染める。
勿論、お願いへの答えは、肯定だ。
甘やかな朝の時間はあっという間に過ぎ、昼食後、二人は久しぶりに揃って書室へと赴いた。
入り口には、いつもフレイと挨拶を交わす老年の司書が本棚を整理しており、フレイとティリアを見つけると、優しく瞳を細める。
「これはこれは、フレイ様にティリア姫。お揃いでようこそいらっしゃいました」
寄り添う二人を見つめ、そう笑顔で深く礼をする司書に対し、二人も朗らかな笑顔を返す。
しかし今日は珍しく、フレイでさえ挨拶の後に世間話を続けること無く、ティリアと共に奥の本棚へと歩を進めた。
そんな仲睦まじい二人の背中を、司書はただ微笑んで見送る。
二人の後を追う間際、エフェナが少しばかり申し訳なさそうに行った目礼にさえ、どこか嬉しげにかぶりを振って。
――二人の幸せを願っていたのは、自分も同じだから、と。
穏やかにそう語る笑顔を残し、司書は本棚の整理を再開した。
そんな事が後方であったとは知るよしもなく。
広い書室のその奥。とある本棚へと辿り着いたフレイとティリアは、それぞれが一冊の本へと手を伸ばした。
「やっぱり、フレイと一緒に読むなら、この本が良いわ」
「ティリアならその本を取ると思いました。ですので、僕はこちらを」
互いに微笑み合うその手元には、本が一冊ずつ。
ティリアが抱えるのは、子供向けの本。タイトルは、【まほうつかいのぼうけん】。
幼い頃から幾度となく、二人で読みあってきた思い出の本だ。
対して、フレイが抱えるのは、ティリアにとっては見慣れない本。それは、様々な主人公の物語を綴った、短編集形式の本だった。
「それはどんなお話なの?」
好奇心を青の瞳にうかべ、そう小首を傾げて問うティリアに、フレイはふわりと微笑むと、指をひとつ自らの唇へと当てた。
「初めて読む楽しみは、とっておかないといけません」
そう紡ぎ、にっこりと茶目っ気を含んで笑むフレイに、ティリアは青の瞳を見開く。
それは、今までのフレイであれば自らの言葉に従い、あらすじを語ってくれていたという事と、今はかつての日々より、確かにフレイと心が近しい事の二つの事実に、気付いたが故。
「――知らなかったわ」
「ティリア?」
無意識に、ぽつりと呟いたティリアに、表情を窺うようにそっと身を屈めるフレイ。
近づいてきた大切な人の端整な顔に、知らず知らず頬を染めながら、ティリアは笑った。
「楽しみをとっておくことが、こんなにわくわくすることだったなんて、知らなかったわ!」
「っ」
跳ねる鼓動のまま言葉を紡ぎ、勢いのままに近づいていたフレイの左腕へと抱きつくティリアに、今度はフレイが瞠目する。
――互いに驚かせ、驚き合うだけの時間が、こんなにも愛おしい。
身を寄せたまま、穏やかに正しく腕を組んだフレイとティリアは、お互いに抱えた本をしっかりと抱き、書室の出口へと足を踏み出す。
常通り本を借りる手続きを行い、書室を出る間、二人の後方に控える従者一同は、ずっと、嬉しげな微笑みを消す事ができなかった。
本を手に、マリアフィールの花が飾られたティリアの部屋へと戻ったフレイとティリアは、早速とソファーに並んで座り、朗読を始める。
初めはティリアからで、二人にとってはお馴染みである魔法使いの物語が部屋に響く。
二人が出逢った当初、これを朗読したのは、幼きフレイの声だった。
今響くのは、綺麗な女声。成長した、ティリアの声。
聞き慣れた物語は、今でも二人の心を躍らせるが、それ以上に読み上げる声の違いが、これまでの時間を思わせて二人と従者達の心を揺らす。
最早拙さも無く、物語をしっかりと読み上げる美しいティリアの声に、フレイは聞き入った。
単純で明快な魔法使いの冒険譚は、子供向けらしくあっという間に展開して行き、ほどなくしてティリアの声がおしまいを紡ぐ。
そっと開き左へと向けた深緑の瞳は、少し下から見上げてくる青の瞳と交わり、優しく細められた。
「今度は僕の番ですね」
「えぇ! 楽しみだわ!」
穏やかな言葉に、満面の笑みが返る。
ティリアの眩い笑顔に、フレイもまた嬉しげに微笑むと、膝に置いていた本の表紙を静かに捲った。
「【あなたはご存知でしょうか。数多の本、そこに綴られた物語の、登場人物たちと同じように。――あなたもまた、誰かに物語られる人だという事を――】」
冒頭の言葉が、常以上の穏やかさで以って、陽光差し込む部屋に広がる。
一冊のその本の中には、様々な物語があった。
それは例えば、二人が大好きな、魔法使いが主人公の物語。どこか繊細な言葉で綴られたその物語は、先のティリアが読み上げたものとは異なる、優美さを放ち、ティリアの心に響く。
しかし一方で、騎士の主人公や、二人にはあまり馴染みのない商人の主人公の物語などは、時として荒々しく、巧妙さを放ち、ティリアはその印象の違いに瞳を瞬かせた。
また、それだけではなく、吟遊詩人やエルフ族の主人公の物語などは、随所に知識を煌かせ、であるのに美しい文章で形作られており……。
それはたった一冊で、書き手が膨大な知識を有する人物である事を、読み手の誰しもに髣髴とさせるほどの、本だった。
――同時に、冒頭の言葉を、確かに確実たらしめる、本だった。
厚く、多くの物語が詰まった本を、読み終わる頃。
おしまいを紡いだフレイが一息つき、ふと見回した部屋の中は、すっかり赤みを帯びた光で満ちていた。
その沈み行く陽光の色に、丁度区切り良く読書の時間を終えようと考えるフレイ。
次いで途端に感じたかすかな肌寒さに、既に侍女たちによって閉じられていた窓を確認し、ほっと安堵の吐息をこぼす。
そうして移した視線の先。何故かいまだフレイの膝にある本を見つめ続けるティリアに、フレイが何事かと小首を傾げた時。
ふとフレイを見上げたティリアが、真剣な表情で言葉を紡いだ。
「フレイ。わたしにとってフレイは、幼い頃から、ずっと――物語の主人公だったの。――今も」
はっと、誰かが息をのむ音が、部屋にかすかに響く。
突然告げられた真剣な言葉に、思わず瞠目して固まったフレイに、ティリアは言葉を続けた。
それは、長らく言葉として紡ぐ事が出来なかった思いを、ようやく言葉として表す事が叶ったように。
思いを告げ、そしてその思いが正しい事を、ただただ問いかける、言葉。
「王子でも、魔法使いでも、変わらないの。――主人公って、そういうものでしょう?」
純粋で、真っ直ぐな、思い。言葉と、問いかけ。
それは、幼き日に出逢い、今までも、そしてこれからも自らを導いてくれるフレイに対して捧げる、ティリアの、本当の心だった。
――あなたは確かに。わたしの物語の、主人公。
――穏やかで、優しくて。
――そして誰よりも、わたしを大切にしてくれる人。
きっと、ティリアは幼い頃から気付いていた。
自らにとって、フレイが特別な存在であることを。
ただ、傍にいる事があたり前となりすぎて、忘れてしまっていた。
騎士よりも、魔法使いよりも。
――フレイこそが、ティリアにとっての主人公だという事を。
静かな問いかけに、フレイはふわりと微笑んだ。
それは、いつもと変わらない微笑みに見えて、しかし全てを肯定するものだった。
優しく伸ばされた手が、ティリアの白金の髪を一度だけ梳き、次いで愛しげに頭を撫でる。
発せられた声音は、誰もが予想した通り穏やかで。
そして、誰もが予想した以上に、凛として全ての者の耳を打った。
「――僕はこれからも、ティリアにとっての主人公で在り続けますよ」
ぱちり、と見開かれた青の瞳の中。
鮮やかに映ったフレイは、穏やかでいて真剣さと愛情を含む、それはそれは美しい笑顔を咲かせた。
ティリアはただ、ふいに胸の奥底から溢れ出した万感の思いに、フレイの胸へと顔をうずめる。
そんなティリアを優しく抱きしめ、フレイは囁いた。
ただただ。
「愛しています――ティリア」
――と。
わずか数日など、瞬く間に過ぎる。
フレイの十八歳の誕生日。フレイが成人となる日。
フレイとティリアが夫婦となるその日は、もう目前――。
花舞台が咲き誇るその日。
長らく伏せてきた、真実の花言葉を語るのだ、と。
フレイは一人密やかに、遠い空と幸福の花を見つめ――微笑んだ。
『フレイリーフの花言葉』第一部は、残すところあと一話となりました。
引き続き、ご愛読をよろしくお願い致します。




