遠いそこにも届くように
華やかで真剣で、それでいて衝撃的であった朝のお茶会を終え、フレイとティリアはライオッドとセシーリアに昼食の席を譲り、ティリアの部屋へと帰った。
部屋へと向かう廊下の中で、普段は楽しそうに成されるはずの会話は無く。しかし、案じるフレイやエフェナたちの予想に反し、ティリアに落ち込んでいる様子もまた、無く。
ただ、少し疲れたようにフレイの腕へと頭をあずけ、何かしらの思慮にふけって青の瞳を前へと飛ばしているティリアに、フレイはただ、穏やかに寄り添うことだけを選んだ。
そうして部屋へと辿り着き、その内に入り――ふと、いつもフレイと二人で座るお気に入りのソファーの前で、ティリアが動きを止める。
その瞳が、つと懐かしげに、やわらかく細められた。
「ティリア?」
隣に立ち、そっと問いかけたフレイに、ティリアは答える。
ぽつりと、嬉しそうに。
「ここで、ご本を読んでもらった気がするの」
その言葉に、不思議そうにフレイが深緑の瞳を瞬かせる。
なぜなら、そのソファーは昔から使われているもので、ティリアもフレイも幼い頃から何度も、そのソファーで読書をして来たからだ。
フレイがティリアに読んだ事も、エフェナたちティリアの侍女たちが、ティリアに読んだ事もある。
そう思い、記憶を辿り……そして、もっと古い、そして自らの記憶には存在し得ない可能性を思い浮かべ、フレイの視線が素早くエフェナへと飛ぶ。
交わった碧の瞳は、ティリアと同じく懐かしそうで、けれども哀しげに揺れていた。
再び、ティリアが呟く。
次は、フレイへと振り返って。
「たぶん、数回くらいだと思うのだけれど。――ここで、お母様にご本を読んでもらったのよ」
にこり、と咲いた笑顔を、大きな窓から射しこんできた陽光が、眩く照らす。
明るく、美しく、けれどどうしても儚くて――。
「っ」
思わず一歩を踏み出し、ティリアとの距離をつめたフレイが、腕を伸ばしてティリアをその内に抱く。
常ならば優しくなるはずの抱擁は、しかし今は消えてしまいそうに感じたティリアを放さないよう、少し力がこもっていた。
唐突なフレイの行動に、しかしどこか察したようにティリアは笑う。
次に紡がれた声音は、セシーリアのようにやわらかく……フレイのように、穏やかだった。
「あのね、フレイ。わたし、フレイと出会うまでは、辛い記憶ばかり思い出していたの。……お母様がいなくなってしまった、あの瞬間だけを……ずっと繰り返していたわ」
放たれた、ある意味ではありふれた、悪意の災禍。
それは、戦う術を持っていなかった一人の女性の命を奪うことなど、あまりにも容易くて。
飛来した魔法の鋭さに、レティ・フィーリス・フィンフィールは、当然のように自らが咲かせた赤い花の中で、天と地へ還る眠りについた。
それは、確かに悲劇であったはずだ。
けれど――今。
「でもね」
そう響いたティリアの声に、フレイが腕を放して顔を上げ、すぐそばにあるティリアを見つめる。
その可愛らしい美貌に、しかしやはり憂いも、哀しみも無く。
交わった青の瞳は、ただただ、感謝に似た色を宿していて。
「でもね、今は違うの。だって――楽しい思い出も、たくさんあったの。ご本を読んで、お歌をうたって、お花の名前をおぼえて……」
指折り数えるようにそう紡ぎ、ティリアは思い出す。
――それは、決して哀しい記憶ではなかった。
やわらかな陽光に抱かれた、小さな部屋の中。
「おかあさま! このごほんをよんでください!」
小さな腕をめいっぱい使って本を抱き、ぱたぱたとかけよる、幼き日のティリア。
「あら。ティリアは本当にご本が好きね?」
そう言って、小さな部屋が楽しげな笑い声に満ちた、記憶。
綺麗な月光が落ちる夜、ふいに響いた美しい音色。
「? おかあさま、それはなあに?」
その不思議さに、小首を傾げて問うと、微笑みが返された。
「ふふ。これはお歌よ。ティリアも一緒に歌いましょう?」
「はい!」
無邪気な笑顔を輝かせ、そして共に歌った、記憶。
色とりどりの花々が咲き誇る庭園で、そっと差し出される一輪の花。
「これは、ティレネリアの花。わたしとティリアにとって、とても大切なお花よ」
「てぃれねりあ……」
自らの名を示す花に初めて出合い、その名をおぼえた、記憶。
朝のお茶会から帰ってくる中、ティリアは幸せの意味を考える中でいくつも思い浮かんできた記憶を、ゆっくりと思い返していた。
それらは、どれも温かな陽射しのように穏やかで、けれど星々のように煌いていて。
そしてどれも共通して――幼き日のティリアと、実母レティが寄り添っている、懐かしい記憶だった。
そっと伏せられた青の瞳の内に、優しかった母の笑顔が浮かぶ。
その笑顔に返すように、ティリアはそっと、微笑んだ。
「会いたいとは、今でも思うわ」
大好きでしかたのなかった、明るくて優しい母。
もう二度と会えないと、そう気づいた時の哀しさは、今でも胸を刺すけれど。
「でも、わたし今、幸せよ」
「!」
ぱちりと開かれたその瞳が、眼前にある深緑の瞳と交わって、飛沫のように煌いた。
はじける様に浮かんだ満面の笑みに、フレイは思わず瞠目する。不意打ちに近いその笑顔は、次いで喜びに満ちた。
「だって、エフェナたちが、居てくれたの。お父様や、お義母様や、他の色んな人達だって、傍に居てくれたの。居てくれたから……フレイにも、会えたの。そして――みんなは今も、わたしと一緒に居てくれているの」
紡がれる言葉に、嘘偽りはなかった。
みんなが居てくれたから、今はもう幸せだと。
ティリアは、それに気付いていた。
「もし、この声が届くなら」
そっと移った青の瞳が、窓の外、鮮やかな蒼穹を映す。
「わたし、お母様に――幸せですって、言えるもの」
向き直った顔に浮かんだ笑顔を、きっとその場に居た誰も、忘れることなど出来はしない。
ふわりと浮かんだフレイの微笑みと、そっと細められたエフェナの瞳は、確かに同じ温かさをたたえて、ティリアへと返された。
――〝悲劇の王女〟と呼ばれたティリアは、もう悲劇など背負ってはいない。
優しい過去と確かな今がある事に、ティリアはもう一度、嬉しそうに微笑んだ。
成長を見せたティリアと、それを受け止めたフレイと従者たち。
一時心配していた昼の時間は、他ならぬティリアが秘めていた強さによって、常の穏やかさと楽しさを取り戻し、あっという間に過ぎて行った。
「――それではお休みなさい、ティリア」
「えぇ、お休みなさい、フレイ」
そう、寝る間際のあいさつを交わし、フレイとマイアたちフレイの従者はティリアの部屋から、フレイの部屋へと戻ってくる。
用事がない時は基本的にティリアの部屋で居る分、物も少なく、また綺麗に整頓されているフレイの部屋は、夜はどこか冷たく見えた。
その冷たさを物静かな穏やかさに変える部屋の主は、寝る準備をさらりと済ませると、マイアたち侍女と近衛騎士へ振り返って微笑む。
「今日も一日、お疲れ様でした。今日はもうご自分の部屋に戻ってもらってかまいませんよ」
「まぁ、よろしいのですか? フレイ様」
普段フレイが寝付くには幾分か早い時間に、マイアが茶色の瞳を瞬いて問う。
それに、フレイは穏やかに微笑んだままうなずき、肯定を示した。
それが主の意向ならば、従うのが従者の在り方。こんな日もあるのだろう、とその場はすぐにお開きとなった。
ただ、マイアだけは、部屋から出て行く前に一度フレイへと振り返り、その茶色の瞳を深緑の瞳と交わらせる。
主役はティリアだったとしても、今日一日の出来事は、フレイとて色々思うところがあっただろう、とマイアは考えていた。
しかし、どこか不安げなその瞳に、フレイは大丈夫、と微笑んで返す。
それに反論をすることは、誰よりもフレイを信じているマイアだからこそ、出来なかった。
「――何かあれば、すぐに呼んでくださいませ」
「えぇ、分かっていますよ」
願うような言葉に、微笑みながらも真剣な声が返る。
その声音に、これならば大丈夫だろうと経験から考え、マイアは今度こそ部屋を後にした。
従者たちが居なくなり、フレイ一人だけになった部屋は、よりいっそうの静寂に満ちる。
その中で、フレイは静かな足取りで窓へと近寄り、その外側にある夜空を見上げた。
今晩は、控えめな明るさで照らす月と、小さなものまでよく見える星々が煌く、美しい夜空だった。
深緑の瞳に、蒼銀の煌きが映って光る。
その美しさは、フレイにも、かつて亡くした大好きな人との記憶を、甦らせた。
「――お祖母様」
それは、フレイにとって、大好きな響きの言葉だった。
「おばあさま、おばあさま! お空がとってもきれいです!」
寝る準備を整え、しかしふいに訪れた穏やかな空白に、窓の外へと飛ばした瞳が夜空を映す。
円らな深緑の瞳に映って煌いたのは、無数の星々と大きな月が闇を彩る、美しい光景だった。
「まぁ、本当ね」
そう紡がれた言葉は、とてもやわらかく。
響いた声音は、幼い日のフレイが、世界で一番好きな音だった。
「とても綺麗な月と星……よく気が付きましたね? フレイは凄いわ」
癖のある薄緑の髪を、温かな掌が優しくなでる。
それがとても心地よくて、幼い日のフレイは嬉しそうに笑顔を咲かせた。
そうして見上げた大好きな人が、同じように笑っているのを見て……。
――それがたまらなく嬉しかったのを、フレイは今も、憶えていた。
「お祖母様」
フレイは、今一度、そう紡ぐ。
今は亡き、大好きだった祖母――マリーフレア・ゼルロース。
貴族社会において、偉大さと敬愛の記憶を呼び覚ますその名は、しかしフレイにとってはただただ、大好きという思いを重ねさせるものだった。
――優しく、穏やかで、誰よりも、フレイを思ってくれていた、大好きな人だったから。
「……今でも」
ぽつり、と呟かれた声は、少しだけ哀しげで。
「あの日、あの時……もう少し早く、僕が外へ出ていたら、とは……思うのです」
それは、フレイの中に唯一残る――後悔を表した、言葉だった。
あの日。
外へ出ていた大好きな祖母を探し、偶然館から外へと出たフレイが見たのは、見知らぬ男が振り下ろした銀の線が、大好きな祖母に吸い込まれる瞬間だった。
「っ!!!」
ビクッと肩を跳ねさせたフレイが、その甲高く響いた声が、祖母に仕えている侍女の悲鳴だと気付いた時には、見知らぬ男はすでに走り出していて。
「マリー様!!」
悲鳴を上げた侍女がかけよった祖母は、目が痛いほどの真っ赤な――真っ赤な鮮血で、服を染め上げ、仰向けに倒れていた。
ぞっと、背中に這い上がるものが、恐怖だと気付いた時。
ようやくフレイはその場を駆けだし、大好きな呼び名を叫んだ。
「おばあさまっ!?」
その声に、はっと振り向いた侍女の瞳は、すでに涙で濡れていて。
彼女が何故泣いているのか、混乱した頭では理解出来ないまま、それでも震えそうな恐怖が導く衝動のままに、フレイは倒れた祖母の傍に膝をついた。
のぞき込んだその顔は、暖かな色を失いながらも、常と同じように、優しく微笑んでいて……。
「――フレイ」
「! おばあさま!」
掠れた声が、それでもしっかりと自らの名を呼ぶのに、フレイも必死になって呼び返した。
そっと動き、持ち上がり伸ばされた右手を、どうしても掴まなければならない気がして、小さな両手がきゅっと握り込む。
「おばあさまっ、しっかりしてください!」
気付けば溢れていた涙を散らして、フレイはそう叫んだ。
大好きな祖母は、ただそれに、優しく微笑み――そして。
「フレイ……」
フレイのものより、ずっと明るい、緑の瞳。
それが、ゆっくりと、細められて。
「幸せに……なりなさい」
ただただ、目の前で涙する大切な孫の、幸福を願って紡がれ咲いた、その言葉と笑顔。
それが、マリーフレア・ゼルロースという女性の――フレイが大好きだった祖母の――最期の姿となった。
ゆえに、フレイは今でも思う。
あの日、あの時、自分がもう少し早く外へと出て、祖母を見つけて駆け寄っていたら。
あの見知らぬ男が、祖母を切り殺すことなど、なかったのではないか……と。
そして、同時に、今再び。
はっきりと思い出すことのできる、大好きな祖母の最期の言葉と笑顔を、強く思い浮かべて。
「――けれど。……僕は、もう未来を歩んでいて」
夜空へと向けられている深緑の瞳が、強い光をその内に宿す。
「過去を振り返って嘆くばかりなのは、きっとお祖母様も、望んでいませんよね」
その光は、ある種の確信だった。
自分に、〝幸せになりなさい〟と言った、祖母ならば。
きっと、〝未来を見なさい〟と言って、笑うのだと。
そう――思ったから。
だから、とフレイは呟いた。
そして、遠い果てにも届くように――誓いを乗せて、言葉を紡ぐ。
「お祖母様。僕は、姫様の――ティリアの手を、取ります。そして、彼女を幸せにしてみせます」
強く深い、愛情を満たした、その言葉。
それは、かつての日、マリーフレアがフレイへと告げた言葉の中にも、確かに宿されていた――心。
ふと、フレイは肩の力を抜いた。
そして、今一度美しい夜空を見上げ、ふわりと微笑みを浮かべる。
――大好きだった祖母に、とてもよく似た、優しく穏やかな微笑みを。
「どうか、見守っていて下さい、お祖母様」
静かな部屋に、言葉が響く。
今でも重ね続ける、大好きな気持ちを込めて。
「――必ず、幸せになりますから」
そう紡がれた言葉が、窓を抜け、美しい夜空へと舞い上がった――。




