確かな愛を込めて
厳かな執務室の中、王とフレイが大切な話をしていた頃。
フィルハイド公爵家の館、その一室にて。
「……ゼルロース侯爵子息殿から?」
「えぇ……」
陽光に金の髪を煌かせるライオッドは、自らの侍女が持って来た手紙の差出人に、その藍眼を細める。
それは確かに、フレイが王の執務室へと赴く前、早くから目を覚まして書きあげ、ライオッドへと送ったものだった。
――フレイ・ディア・ゼルロース。
ライオッドはその名に、束の間、昨晩の出来事を思い出す。
パチンッ――と耳元で響いた音と、確かな頬の痛み。
驚愕に見開いた瞳に映ったのは、幼馴染の令嬢、セシーリア・レア・フィーリス。
引かれる手を振り払う事も出来ずに、二人揃って視線集める舞踏会場から出て、長い廊下を進み辿り着いたのは、夜の庭園で……。
そこで、幼い頃に出会ってから初めて、セシーリアの怒りを身に受けた。
「――ライオッド様」
さっと振り返り、紡がれた言葉は鋭く。
向けられた水色の瞳は、いつものやわらかさなど、少しも宿してはいなくて。
「ティリア姫様とダンスを躍られるならば――順番を、守らなければなりませんわ」
そう告げられた言葉が、正しく己の失態を示して、胸に強く突き刺さった。
「――」
一度の瞬きの後、ライオッドは回想から意識を戻す。
改めて開いた真白な紙の内には、丁寧な文字がさらさらと綴られていた。
読みやすいその文字に、早速と内容に目を通したライオッドは、次いで感心を含んだため息を零す。その一方で、精悍な顔に浮かんだのは、困ったような苦笑。
「……なるほどな。――セシーリアが怒るわけだ」
「ライオッド様?」
困りながらも納得を呟くライオッドに、手紙を渡した侍女が不安そうに問いかける。
それになんでもないと返しつつ、ライオッドは今一度、フレイからの手紙を見つめた。
フレイがライオッドへと送った手紙。
それは、初めてライオッドと会う時に手紙を用いていたティリアに倣って、成されたことだった。
形をなぞり、しかし文字にした言葉は大いに異なる、その手紙の内容は、一言で表すならば――〝真正面から勝負をしましょう〟。
勝負、などというフレイらしからぬ好戦的な言葉は、しかしかつての願いを訂正し、新たな決意を抱いたフレイにとっては、避けては通れないもの。
すなわち――ティリアの未来の夫として、ライオッドとその座を競おう、というものだった。
ただただ真剣に綴られた言葉に、ライオッドは思わず、と言った風に呟く。
「自分という婚約者がいると言うのに、第二王女殿下をたぶらかしたと怒るでもなく……こうして律儀かつ一切の欺きなしに私と対決することを、それこそ真正面から伝えてくる――」
続く言葉が、不思議そうな感情を宿して紡がれた。
「本当に……ゼルロース侯爵家に相応しくない方だ」
次いで、或いは――と。
「――或いは。ゼルロース侯爵子息殿こそが。……昔から続いてきたと父上が語る、清く良き――真のゼルロースであるのだろうか……」
そっと窓へと向けられた藍眼が、鮮やかな蒼穹を映す。
紡がれた言葉は、正しくまぎれもない真実であり。
王でさえ、この同じ時に知ったその真実は、しかしライオッドの中ではまだ、単なる憶測にしかすぎない。
それでも、その表情はふと、真剣なものへと移り変わる。
それはただ、以前ティリアと約束した、今日の昼の昼食会を思い出した、というだけではあったが。
むしろその事を思い出したからこそ、ライオッドは気を引き締めた。
ライオッドにとっては、手紙の返事を書くまでも無く――昼食会という形で、フレイの勝負を受けなければならない事態が、目の前に迫っていたから。
「あっ! いらっしゃい、フレイ!」
王との話を終え、共に朝食をとる為にと、いつも通りティリアの部屋を訪れたフレイ。
そんなフレイを、ゆったりとソファーに座り、エフェナとの会話に花を咲かせていたティリアが、満面の笑顔を向けて迎えた。
次いで、これまたいつも通り、嬉しそうにフレイの傍へと歩んできたティリアに、フレイもまた嬉しげな微笑みを浮かべて返す。
「はい。おはようございます、ティリア」
穏やかな声音での応えに、ティリアもまたおはよう、と返したところで、朝食が部屋へと運ばれてくる。
そうすれば瞬く間に始まる、有能な侍女たちの素早く華麗な食事の準備に、思わず顔を見合わせて笑みを零す、フレイとティリア。
ごくわずかな時間で整えられた朝食の席に、幼い頃から変わらない、互いに対面の席に座っての朝食が開始された。
穏やかに始まった朝食の途中、ふとティリアが思い出して言葉を紡ぐ。
「そうだわ。今日のお昼は、ライオッドと一緒に食べる事になっているの」
「!」
唐突に紡がれた言葉に、昨晩の王城舞踏会での悲劇が再来するのでは、と思わずエフェナたちティリアの侍女一同が、身を固くする。
しかし、返すフレイの声音は、揺らぎ無く穏やかだった。
「そうでしたか。――では、今日は私もその昼食会に、参加しても?」
「えっ?」
「!?」
ティリアの言葉に対する返し言葉。
その後に紡がれたフレイの言葉の内容に、ティリアのみならず、エフェナたちティリアの侍女全員が、驚きに瞳を見開く。
一方で、まだ王の執務室から戻ってきていないマイアを除いた、フレイの侍女たちと近衛騎士は、フレイと同じように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
それを一瞬で確認し、これは一体、と困惑した視線をフレイの侍女たちへと送るエフェナ。
その碧の視線に、二人の侍女は後でお話します、と微笑む。
時間にしてわずかな侍女三人のそのやり取りの後、驚きに瞳を瞬かせていたティリアが、ようやくフレイの言葉の意味を理解した。
理解して――その可愛らしい美貌に、満面の笑顔を咲かせる。
「まぁ! もちろんよフレイ! 今日は時間があるのね? 楽しみだわ!」
続けるべき食事も忘れ、両の手を合わせて喜ぶティリア。
「ようやく三人でお話できるのね!!」
そう続けられた言葉どおり、今回の昼食会は、ティリアがずっと望んでいた三人での語り合いが、ようやく叶う。
待ち望んだ時間が今日訪れることを喜ぶティリアに、フレイが深緑の瞳を眩しそうに細めた。
穏やかなその視線は、ただ真っ直ぐにティリアへと注がれる。
その視線にふと、穏やかさでも、温かさでも、優しさでもない――けれど最も深い感情が、静かに宿った。
その感情の名を、多くの命は――〝愛〟と呼んでいる。
次いで紡がれた言葉こそ、フレイが密やかに決意した事を成すため必要な、きっかけだった。
「――話は変わりますが、ティリア」
「? なぁに? フレイ」
穏やかな言葉に、小首を傾げて問うティリア。
それに、フレイは実にやわらかな微笑みをたたえて、次を告げた。
「この後、庭園に行きませんか? 昨晩眠る前に、雨の音を聞いたのです。雨上がりなら、さぞ綺麗に花が咲いているでしょうから……」
ティリアが望む、三人での時間のその前に。
フレイは、ティリアへどうしても告げておかなければならない言葉を、その胸に秘め。
そっと、言葉を付け加えた。
「――私と、見に行きませんか? ――ティリア」
「!」
ふわりと紡がれた、甘い声音での言葉。
それに、昨晩と同じ微笑みまで重なり、たまらずティリアの頬が染まる。
思わぬ不意打ちに、しかし綺麗な花を見に行くと聞いて、ティリアがうなずかないわけがなかった。
「もちろん行くわ! きっと綺麗だもの!」
まだかすかに染まった頬のまま、そう答えて笑ったティリアに、フレイもまたにっこりと嬉しそうな笑顔を返す。
それと共に再開された朝食は、そう時間をかけることなく終わり、食事の片付けと庭園へ行くための準備が並行して行われる。
そうして準備が整い、いよいよ庭園へ! とティリアがその青の瞳を輝かせた時。
「ティリア」
そう名前を呼んだフレイが、そっとティリアの右手を取り、自らの左腕へと導くように引いた。
当然そうすれば、腕は自然と絡まるのだが……。
――今までのフレイは、ティリアが手を伸ばしてくるまで、その手を導くことは無かった。
今までに比べ、いささか強引なフレイの行為に、再度エフェナがフレイの侍女たちへと視線を飛ばす。
その中で、ティリアだけは楽しそうに小さく笑い声を立てた。
「ふふっ、フレイったら! そんなに早く庭園に行きたいの? 珍しい!」
そう紡ぎ、自らの左側から見上げてくるティリアに、フレイは小さく笑む。
ささやかな問いかけに対する答えは、優しく紡がれた。
「行きたいですよ。――ティリアと一緒に」
そうして再び浮かんだ甘い微笑みに、ティリアもまた、無意識に頬を染めてはにかむ。
踏み出された一歩は、すぐに朝露に煌く庭園へと、辿り着いた――。
「まぁ! すごく綺麗!!」
「えぇ――とても」
はしゃぐティリアと、そっと呟くフレイ。
その青と深緑の瞳には、陽光を受けた水玉が眩く反射し、その煌く飾りをつけた色とりどりの花々が、そよ風に揺れている様が映る。
予想以上の美しさに、思わず侍女たちも感嘆のため息を零し、しばし誰もがその光景に見惚れた。
――ややあって。
「もっと近くで見ましょう!」
そう言って、花々よりも輝く瞳をフレイへと向けたティリアにより、穏やかな沈黙が華やかに終わる。
「えぇ」
ティリアの言葉にうなずき、微笑みを重ねたフレイが、そっと足を踏み出した。
寄り添い、ゆったりと花々の間を歩む、フレイとティリア。
時折花弁から伝い落ちる雫に、小さな花々が揺れる様がなんとも可愛らしく、二人は視線を交わして微笑み合う。
吹き抜ける風は、降り注ぐ陽光を含んでいるのか、まだ朝なのに冷たくは無く、二人の薄緑と白金の髪をさらっては、どこかへと流れて行く。
幾つかある庭園の中でも、今フレイたちがいる庭園は、王族、あるいは王族が招いた者のみが入る事を許されている場所。
当然ながら、執務室にいる王がいるはずはなく、王妃の姿もない今は、フレイとティリアたちだけが、この美しい光景を見る事が出来ていた。
そうして、多様な種類の花々を見てまわる、美しい庭園の中。
休息やお茶会に用いるテーブルのところまで辿り着き、そこで王との語り合いから戻って来たマイアを加えて、少し足を休めていた時。
テーブルのすぐ近くの花々を眺めていたティリアが、ふととある一角を示した。
「まぁ、見てフレイ! ティレネリアに雫がついて、本当に水のお花みたいに見えるわ!」
「おや、本当ですね。水の花そのもののようです」
そう紡ぎ、二人が歩み寄ったその一角には、幼子の掌ほどの大きさの、澄んだ薄青の花が集まって咲いていた。
薄青の花弁に、ところどころ雫をつけたその様は、雫の青――別名として〝水花〟と呼ばれるその花の、まさに別名そのもの。
まるでその一角だけは、水の中にあるかのようだった。
「綺麗……!」
そう瞳を煌かせるティリアに、そういえば、とフレイが紡ぐ。
「ティレネリアは、確かティリアの名前の元となった花でしたよね?」
かすかに小首を傾げてのその問いに、ティリアは自らの名前の元となったもう一つの要素――水を思わす青の瞳を瞬き、それから笑顔でうなずいた。
「えぇ! ――わたしの名前は、この瞳と、そしてお母様の名前の元でもある、このティレネリアからつけられたものよ」
嬉しそうに語られたティリアの言葉に、フレイは納得を返す。
「なるほど。水の色に近しい青の瞳と、そして水花のティレネリア――」
そっと移動した深緑の瞳が、その薄青の花を映し――ふと、愛しさを宿して細められる。
次いで足を一歩踏み出したフレイは、絡められていたティリアの手を優しくほどくと、眼前で揺れるティレネリアの花を一つ、丁寧に摘み取った。
「フレイ?」
その行動に、不思議そうにフレイへと問いかけるティリア。
自らへと紡がれたその言葉に、くるりと振り返りティリアへと向かい合ったフレイは、しかし無言のままその場で跪いた。
何事かと高まる緊張感の中、フレイはゆっくりと、右手に持ったティレネリアの花を胸元に掲げる。
そして――その薄青の花弁に、そっと口付けを落とした。
「っ!?」
はっと瞠目し、そして同時にかすかに頬を染めたのは、フレイをのぞくその場にいた、ほぼ全員。
とっさにエフェナとマイアが視線を交わす中、ティリアは思わず口元をおおっていた片手をそろりと外し、そのゆれる瞳をフレイへと注ぐ。
戸惑うティリアに対し、しかしフレイは静かにその青の瞳を見上げながら、ふわりと甘く微笑んだ。
――〝花の王国〟と呼ばれる、このフィンフィール王国では、花を絡めた作法や仕草が多く存在する。
花が名前の元となるのも、このフィンフィール王国ならではの名付け方だ。
そして、先ほどフレイが行った行為もまた、この〝花の王国〟では意味がある。
……その人の名前の元となった花、或いはその人の髪や瞳の色と同じ色の花に、口付ける事。
それは――〝あなたを愛しています〟――という、愛の告白を意味するものだった。
「フレイ……?」
沈黙に耐えかね、ティリアがか細くそう問いかける。
それに、フレイはただただ嬉しそうに微笑み――今一度、言葉で以って、自らの思いを告げた。
「ティリア。私は貴女を――愛しています」
「っ!!」
響いた確かな告白に、再度頬を染めるティリア。
きゅっと結ばれる口元と、胸元で重ねられたその細い両の手が、かすかに震えを帯びる。
自らの名前の元となった花へ口付けるその意味も、告げられ響いたその言葉も、決して幻で無いことに――ティリアは純粋に、戸惑った。
心底嬉しいと思う心と、一瞬思い浮かんだライオッド。
正反対な二つの思いに、ティリアは返す言葉を思いつけない。
――それでも、フレイはその沈黙を恐れることなく、真っ直ぐな思いを、ティリアへと紡いだ。
「いつまでも。いつまでも、貴女のお傍に私が在る事――私はそれを、望みます」
その声は、どこまでも優しく、愛しさを含み。
その微笑みは、どこまでも甘く、穏やかで。
何よりも、と続く言葉が、遠い日の約束さえ宿して。
「何よりも。ティリアが隣にいてくれる事を――僕は幸せと呼びたいのです」
――歌のように、心へ響く。
「わたし、は……」
思わず零されたティリアの声が、風に乗って舞い上がる。
同じように舞い上がった色とりどりの花びらに、ふわりと彩られたティリアとフレイは――確かに、幼き日と同じように。
互いの瞳に、美しく輝いて見えた――。




