緑の謁見
わずかに軋む音を響かせて、一台の馬車が王城の裏手で止まる。
無駄に金銀で飾られたその中から、フレイはそっと外をうかがった。小さな微笑みをうかべた顔と深緑の視線が、心なしか興味深げに移動する。
「フレイ様、ご気分は悪くありませんか?」
フレイの対面に座っていた女性が、静かに彼へと問いかけた。綺麗にまとめた茶色の髪と同色の瞳には、限りない慈しみの上に、わずかな不安が見え隠れしている。彼女はフレイが幼い頃から彼の世話をしてきた、侍女のマイアである。数年前のとある一件より病弱になってしまったフレイのことを常に気にかけ、いつも彼のそばにあろうとする、フレイにとっては姉のような存在。
「大丈夫ですよ、マイア」
振り向きざまにそう答える彼の笑みは、幾分か温かさを増しているように見えた。
「それは何よりです。――では、参りましょう」
「――えぇ」
にっこりと嬉しげに笑んだマイアが、そっと立ち上がる。短い会話の中には、含まざるを得ない緊張があった。
しとやかに立ち上がったマイアが、そっと開いた扉の向こう。
幼い少年が歩む先には、眩い白磁の城が佇んでいた。
一歩を進めるごとに圧し掛かってくる、重圧。
くすみない白に、花の王国の名に相応しき細やかな花が刻まれた四方と、両端に居並ぶ重鎮たち。
フレイは一人、その間をゆっくりと、前へ進んでいた。
慣れた者さえも緊張し、表情を固めるその場所で、しかしフレイは小さな笑みを消していなかった。
そっと立ち止まり、膝をついたその先には、静かに玉座より見下ろす王。
鮮やかな金の髪に青の瞳をもった初老の王は、己が眼下にてひざまずいた幼い少年に対して、隙の無い視線を向けた。
ややあって、その口から落ち着いた声が発せられる。
「……よく来た。楽にするとよい――フレイ・ディア・ゼルロース」
「――はい」
短いやり取り。
ゆっくりと顔を上げたフレイに、両端に並ぶ重鎮たちの多くが、その顔をわずかにしかめた。
――ゼルロース。それは、近年になって地に堕ちたと密やかに語られる、悪徳貴族の名。
公爵の次である侯爵の地位を持ち、貴族においては二番目に尊いとされる家柄でありながら、当代ゼルロース侯爵の行動はまさに悪辣。
その長男であるフレイが、良い目で見られるはずも無かった。
そもそも、フレイがこの王城にやって来たこと自体が、重鎮たちにとっては大問題である。
理由は至って単純。
悪徳貴族ゼルロース侯爵家の長男であるフレイが、この王城へとやって来たその理由が、王の末の娘である第二王女の婚約者として、今後王城で暮らすためだから、だ。
「……今後は、この王城にて、あの子と共に過ごすこととなる」
王が努めて静かに告げた、あの子、という言葉に、フレイはその深緑の瞳を瞬いた。次いでふわり、と浮かんだ笑みに、白と花の空間が微かな緊張で満ちる。
その空気に気づくことなく、幼い少年は口を開いた。
「そのことで、お話があります、陛下」
「……何かな?」
わずか九歳とは思えぬ落ち着きを宿した眼前の少年。
王さえも、重い胸中を低い声で示した先で、フレイはふと表情を変えた。
次いで紡がれたのは、穏やかながらも真剣な言葉。
「はい。その、婚約のことなのですが……失礼ながら、姫様のお年は、ぼくとおなじだとききました。それは、婚約をするには、早いお年だとも。そこで、陛下におねがいがあるのです」
「…………」
束の間、王が逡巡するように目を伏せる。
それは決して王のみではなく、重鎮たちの多くの胸に、今一つの不安が浮かび上がっている証拠であった。
婚約、幼い、第二王女。そして、かの悪徳貴族の長男が告げる、願い。
それらの言葉から導き出される願い出など、ろくなものではない。
そもそもこの婚約自体、ゼルロース侯爵家が仕組んだことなのだから……。
それでも聞かねばならないと、王はそっとその青眼を、フレイへと向けた。
「聞こう」
その凛とした声に、真剣な表情を浮かべたフレイが、まっすぐに王へと視線を注ぐ。
青と深緑の瞳が交わり――その中にある不思議な色合いに、わずかに王が瞠目した。
そこには、ある意味ではまだ幼い少年にあるまじき色合いと、しかし今はそれを凌ぐ純粋な真剣さがあった。
それは、危惧すべき深い陰と、その陰とは無関係に宿る、信念。
……あるいは、その陰は危惧すべきものではなく、より心と直結した、癒すべきものなのでは無いか。
胸中で呟いた自らの言葉に、王は瞬間、納得した。
それは、刹那の時の中で行われたことだったが故に、王にとってただ単純な疑問として頭の片隅に刻まれる。
そうして交わされた視線が瞬くのと同時に、いっそう真剣な声で、フレイが願いを告げた。
「もし、この先――姫様が大きくなられた時。姫様が愛するかたを見つけられたのなら……」
――それは、本当に心からの、言葉。
「……その時は、ぼくとの婚約を、無かったことにしてください」
――心から、その人の幸せを願って、紡がれるもの。
「ぼくとの婚約を無かったことにして――姫様が愛するかたといられるように、してください。――おねがいします」
静寂が降りた広い部屋で、ハッと誰かが息を呑んだ。
瞬間、そこに居た多くの者たちは、理解した。
目の前の少年は、自分たちが警戒していた存在――悪徳貴族の長男などではない、と。
そこにいたのは、ただ尊き王女の幸せを願う、純粋な少年――この国の民であり、王族を思う臣である、自分たちと同じ心を持つ、幼くも優しき子であるのだと。
長い長い、静寂の後。
「――分かった」
沈黙していた王が、吐息を吐くようにそう答えた。
穏やかな表情が、その心境を表す。
優しげに細められた青眼が、そっとフレイへと注がれていた。
それを見たフレイが、嬉しそうに笑み、頭を下げる。
「ありがとうございます!」
心底嬉しげな声音が、芽吹く若葉のような晴れやかさで、白花の空間にはじけた。
次話で姫様と出逢います。