真のゼルロース
一日遅れての更新となり、大変遅くなりましてすみません。
今話も楽しんで頂ければ嬉しいです。
多くの人々に、驚きを残して終わった王城舞踏会の、その翌日。
フレイは、早朝に目覚め、王が政務を始める前に、少しだけ話す時間を貰っていた。
告げられた時間どおりに、朝の光に照らされた廊下を従者たちと歩み、指定された王の執務室へと赴く。
近衛騎士が護る扉の中へ通された先では、数人の重臣たちに囲まれながら、すでに書類が重ねられたテーブルに、王が座っていた。
王は、扉が開く音に視線を上げ、入って来た人物がフレイだと分かるとおぉ、と朗らかな声を上げ、自らのすぐ傍に置かれているイスへと促すように手を向ける。
「こちらへおいで、フレイ。皆にも言ってあるから、時間は気にせず、ゆっくりと語ろう」
そう言って優しく微笑む王に、しかしフレイはゆっくりと、首を横に振った。
「いいえ、陛下。時間があるのは嬉しく思いますが、私は座るわけにはいきません」
穏やかな微笑みに反する、強い口調。
それに、王が不思議そうに青眼を瞬いた。
一瞬生まれた空白に、王が執務をこなすテーブルの、その対面へと歩み出るフレイ。
どこか困惑を宿した雰囲気の中、フレイはその場で片膝をつき、深く頭を下げた。
すっと、王が青眼を細めて、フレイを見つめる。
瞬間的に緊張が満ちた部屋で、静かなフレイの声音が、それでもはっきりと紡がれた。
「陛下。私は、陛下にお願いがあり、この時間を頂きました」
「願い?」
「はい」
反射的に問った王に、速答で肯定するフレイ。
それに、王は静かに自らのおとがいへと片手を添えた。
「ふむ……何かな? フレイの願いなら、私もなるべく聞いてあげたいと思うのだが」
〝王〟へと語りかける姿を見せたフレイに、それでも王は〝父〟としての姿を、まだ崩さない。
当然のように紡がれた言葉に、そっと顔を上げたフレイが、束の間嬉しそうに微笑み――次いで、改めて真剣な表情を見せた。
「ありがとうございます。――ではまず。陛下は、八年前。私が始めて陛下とお会いした時に、姫様について私が陛下へと願った言葉を、憶えていらっしゃいますでしょうか?」
わずかな沈黙。
その後に、王もまた真剣な表情で、深くうなずいて答えた。
「――勿論。憶えているとも」
静かな王の言葉。
それに、王の傍で事の成り行きを見守っていた重臣たちも、八年前の記憶を思い出す。
実は彼らもまた、あの場でフレイが語った言葉を聞いていた、かの謁見の参加者であった。
当然として、フレイがそれに気付くことはない。
しかし、フレイにとって大切なことは、自らの言葉――あるいは思いが、王へ届くか否か。
ただ、それだけだった。
一度閉じられ、そして改めて開かれた深緑の瞳が、迷いなき光を宿し、王の青眼と交わる。
王の確かな肯定に、続くフレイの言葉は、いっそうの真剣さを帯びた。
「陛下。私の願いは、かの八年前の言葉――」
あるか無いかの刹那の間。
そこに、フレイは本気の心を込めて、続く言葉を響かせた。
「――願いを。――訂正し、可能ならばそれを陛下に、受け入れて頂くことです」
訂正――そこに、重さが宿るフレイの言葉を聞き、王が一瞬口元を引き結ぶ。
ややあって、王は静かに問いかけた。
「……訂正、とは。つまり、どのように?」
至極当然の問いに、フレイはいまだ真剣な表情のまま、はい、と答える。
「今回訂正したいのは、八年前の願いにおける、〝婚約の破棄〟と言う点です」
「っ」
さらりと告げられた答えに、重臣たちの幾人かが、不意打ちをくらったように息をのむ。
〝婚約の破棄〟という物騒な単語に、王とて、昨晩の王城舞踏会の事を思い出す。
そして、一瞬表情を悲痛に歪めかけ――その手前で、〝訂正〟と紡がれた言葉を思い返し、はたと青眼を見開いた。
はっとして下ろした視線の先には、やはり真剣な表情で自らを見つめるフレイがいる。
しかし王は、そこでようやく、その深緑の瞳がわずかな憂いも宿していないことに、気付いた。
そんな王の変化に気付くことなく、フレイは続けて言葉を紡ぐ。
「――八年前の願いは、姫様が成長された後、愛する方を見つけられたその時には、私との婚約を破棄して欲しい、と言うものでした」
「うむ。――その通りだったと記憶している」
かつての願いの言葉を、正しく紡ぐフレイに、自らの記憶と照らし合わせて肯定する王。
それに再び言葉を続けようと、フレイが息を軽く吸い込み――その瞬間、この部屋に来て初めて、深緑の瞳が揺れた。
「……陛下。私の……今の私の願いは――」
迷い無く紡がれていた言葉に、ふと選ぶような間が加わる。
真剣のみを見せていた表情もまた、懇願を含んだものへと移ろい……それでも、逸らされない深緑の瞳と共に、〝今〟のフレイの願いが――言葉と成った。
「――もし、姫様が私とは別の、愛する方を見つけても。姫様が、本当に嫌がらない限り――私との婚約を、破棄しないで頂きたいのです」
誰もが、微かに動く事さえ、叶わなかった。
その言葉が、あまりにも純粋に――全員の心に、響いたが故に。
ただ、王だけは。
かつて王妃が響かせた言葉を思い出し、天啓に似た光を、フレイに見る。
――きっと、大丈夫です。
記憶の中、そう紡がれた優しい言葉。
やわらかな声音はそっと、王の胸中を温かさで満たした。
フレイにとっては、強く祈り続けた、長い、長い、沈黙の後。
「……気が変わったのは――恋ゆえかい?」
囁くように、王がフレイへと問いかけた。
ぱちりと瞬かれた深緑の瞳に、王の顔が改めて映る。
そこには、囁きのような問いを成した声音と同じく、どこまでも優しげな微笑みが浮かんでいた。
言葉に詰まったような、一拍の間が空く。
次ぐ答えを紡ぐのに、フレイは小さな苦笑を浮かべた。
「それを否定できるほど、私は強くはありませんが……」
そう紡がれた言葉の後、フレイはふとその微笑みを柔らかなものに変化させる。
――そうして続いた次の言葉こそ、王の問いに対する、フレイの本当の答えだった。
「しかし、それよりも。――私も、幸せになりたいと思うのです」
「!!」
再三の驚愕に、今度こそ、重臣たちと共に王が瞠目し、驚きを示す。
そんな王を見つめ、常の穏やかさを取り戻したフレイが、歌うように言葉を紡いだ。
「――大切な方と、遠い日に交わした約束を、私は思い出しました。ただただ優しく、〝幸せになりなさい〟と、そう願ってくれたその思いを、私はもう忘れたくはありません。だからこそ――」
ふわりと語られる言葉に、自然と伏せられていた深緑の瞳が、そっと開かれる。
今一度王へと向けられた、深緑の瞳の中。
そこには、ただただ愛する人を思って浮かぶ――純愛があった。
「私は、姫様が隣にいてくれる未来を、望みます。それを――僕自身の幸せと、そう、呼びたいのです――陛下」
「――あぁ――」
確かな愛情を宿す、その言葉に。
慈しみさえ宿す、その表情に。
王は、深い感動さえ宿して、言葉を零し、瞳を閉じた。
訪れる空白の沈黙は、しかし決して、長くは無く。
ふと開かれた青眼が、実の息子のようにさえ思う青年を映して、嬉しさに細められた。
次いで成された深いうなずきに、重臣たちから感嘆の声が上がる。
おぉ、と重なって響いたその声に、一瞬そちらへと気を取られていたフレイは、やはりどこまでも〝父〟としての姿を失わない、王の言葉を聞いた。
「私は、やはりいまだ幼いティリアが、幸せになってくれることを強く願ってはいるが――しかし同時に、フレイ。君の幸せとて、強く願っているよ」
「!」
君にも、幸せになって欲しい。
そう響く王の言葉に、束の間瞠目したフレイは、ふとその口元に微笑みを戻し、そしてそれを満面の笑顔に変えた。
「ありがとうございます、陛下」
「当然の事だよ」
心底からの感謝の言葉に、心底からの肯定の言葉。
――緊張が満ちた語り合いの場に、ようやく、穏やかな雰囲気が舞い戻った。
「あ、では、私はこれで」
多くの者たちが和やかに微笑み合う中、王の眼前に積み重なる書類を改めて認識したフレイが、慌てて再度頭を下げてから、素早く立ち上がる。
「おお、そうだな。そろそろ仕事をせねばならん――と、そう言えば、フレイ」
それに納得してうなずいた王は、しかし最敬礼をしてくるりと反転したフレイへ、忘れるところだったと声をかけた。
「はい。何でしょう?」
帰るための一歩を踏み出す直前だったフレイは、唐突にかけられた王の言葉に、慌てることなく再度振り返って王へと視線を合わせる。
向けられた深緑の瞳に、ふと青眼へと疑問を浮かべた王は、会話の中で気になっていた事をフレイへと問った。
「そういえば、遠い日に約束を交わしたと言っていたが……その約束を交わした人は、一体誰なのかね?」
ある意味当然の問いかけに、フレイは一度の瞬きの後、ふわりと微笑んで答えた。
「私の祖母――マリーフレア・ゼルロースです」
「!?」
どこか嬉しそうにその名を告げたフレイに対し、部屋に満ちたのは、今回の語り合いで一番大きな、驚愕。
王や重臣たちにとっては、まさに核心に至るにたるその名に、しかしフレイは何故王たちが驚いているのか分からず、小首を傾げる。
そんなフレイに、かろうじて平静を掴んだ王が、ややぎこちない動きでうなずいて見せた。
「う、うむ。そうであったか。いや、引きとめてすまなかったね。――さて。君とティリアはそろそろ朝食をとる時間だろう。ティリアが探し出す前に、帰っておやりなさい」
「? はい、分かりました。――では」
言葉の初めの方には疑問を浮かばせていたフレイだが、しかし続くティリアとの朝食の時間という言葉に、確かに早く帰らなければとうなずきを返す。
そうして、驚愕の真実を残し、フレイは従者たちを連れて執務室から退出をした。
――語らなければならない言葉を抱えた、マイアだけを、残して。
「――そうか。……マリーフレア・ゼルロース、か……」
閉じた扉に青眼を向けたまま、王がため息をつくように呟く。
他の重臣たちも似たようなもので、しかしその瞳は多く、一人だけ部屋に残ったマイアへと向けられていた。
再び緊張が満ちて行く中、王の青眼が、マイアの茶色の瞳と交わる。
その静かな瞳に、王もまた静かな声で、問いかけた。
「フレイが、あの悪徳の家族に囲まれながら、それでも清い心のまま育ったのは――先々代ゼルロース女侯爵、マリーフレア・ゼルロースが、フレイに関わっていたから……と言う認識で、合っているかな?」
「――はい。その通りにございます、陛下」
的確な問いかけに、マイアは深くうなずき、そう答えた。
わずかなどよめきが、部屋に満ちる。
重臣たちは互いに、あの、やはり、なるほど、と呟きながら意見を交換し合っては、フレイが告げ、マイアが肯定した名に、深くうなずく。
王は、ようやく辿り着いたフレイの真実に、そっと瞳を閉じた。
フレイの祖母――マリーフレア・ゼルロースと言う女性は、実に偉大な人であった。
フレイの実の父である、現ゼルロース侯爵から遡り、当代の実の兄である先代、そしてその前のゼルロース侯爵家の当主にあたる、先々代ゼルロース女侯爵。
当時の清く気高いゼルロース侯爵家に相応しく、多くの上級貴族と肩を並べ、慕われた女傑。
また、多くの女性貴族が敬愛した、心優しく賢い女性貴族のお手本。
多くの人に好かれ、尊敬され、認められた――真のゼルロース侯爵家の、その姿を示した人。
――そして。
フレイが六歳の時、何者かに斬殺された……今は亡き人。
静寂に包まれた部屋で、多くの者たちがかつて見た優雅な姿を思い出す中、マイアはそっと言葉を紡いだ。
「――わたしは、マリーフレア・ゼルロース女侯爵様……マリー様に、幼い頃からお仕えさせて貰っていた者たちの、その内の一人です。――フレイ様も、幼い頃から見てまいりました。……当代ゼルロース侯爵様の、悪行も」
その言葉に、そっと瞳を開く王。
移動したその瞳は、懐かしさや後悔、敬愛や怒りが混ざった、複雑なマイアの表情を映す。
ふとついたその吐息で、王は納得を表した。
「――そうか。……だから君は、八年前。私がフレイに虚弱の真相を告げたあの時――〝分かっていたはずなのに〟と、言っていたのか」
「……はい」
静かに伏せられた茶色の瞳。
その顔に、確かな後悔が浮かぶのを、しかし王はよい、と穏やかな声で止めた。
「もう、よいのだ。――君は、フレイの傍に居るという大役を、ずっと立派にこなしてきたではないか。私たちにとっては、フレイが心優しい者で在り続けたその秘密――マリーフレア・ゼルロースの事が聞けただけでも、満足なのだよ」
「……陛下」
優しい王の言葉に、一筋の涙を零す、マイア。
誰よりもフレイを大切に思うからこそ、この八年間ずっと後悔し続けて来たマイアは、ようやく自らを許すきっかけを見つける。
それを与えた王は、今一度、マイアへと感謝を宿して言葉を紡いだ。
「ありがとう。君は確かに護ってくれた。私や、私の父や祖父も認め続けた――真のゼルロースの、その心を」
悪徳に染まり、失われたと思っていた、清く良き侯爵家としての、ゼルロースの姿。
その心が、フレイという形で確かに目の前に残っていることを、王は心から嬉しく思った。
同時に、いまだ残る可能性を考え、その青眼に決意が宿る。
――真のゼルロースは、まだ失われてはいない。
誰かがそう、呟いた。




