温かかった背中
時は、舞踏会場からフレイが立ち去った、その瞬間までさかのぼる。
ライオッドと舞踏初めのダンスを躍り、すでに数人の組が近くでダンスを始めていた時。
「!?」
ティリアは、自らの青の瞳に映った光景に、驚き息を詰めた。
見つめた視線の先には、足早に会場を去る、フレイの背中。
「! ティリア様」
思わず止まったその足に、すぐさま異変に気付いたライオッドが、ティリアが転ばないように支える。
しかし、仕切り直そうとステップを踏みかけたライオッドは、不安げに揺れるティリアの瞳が、自らの後へ注がれていることに気付いた。
チラリと振り返ったライオッドが、すでに立ち去ったフレイの背中を見る事は無く。
それでも、この場にいては他の人達に迷惑がかかってしまうと、エフェナ含めるティリアの侍女たちがいる場所へと、ティリアを導いた。
「エフェナ!」
見慣れた姿を見つけ、思わず駆け寄るティリア。
しかし、常に温かさを宿して自らへと向けられるその碧の瞳が、揺れながらフレイが去った先を見つめている事に気付くと、さっと顔色が変わった。
「フレイ、具合が悪くなったの!?」
「!」
とっさに紡がれたその問いかけに、エフェナは瞠目してティリアへと振り返る。
ティリアが、フレイがすでに元気な身体であることを知っていてなお、体調のことを心配するのは、ひとえに幼い頃の出来事ゆえ。
その変わらぬ優しさを感じ、しかし決定的に違う原因の心配に、エフェナの口元に複雑な微笑みが浮かぶ。
それでも、眼前で瞳を揺らす自らの主に、答えないわけにはいかないと、エフェナは強く首を横に振った。
「いいえ、ティリア姫。フレイ様は、体調を崩されたわけではありませんよ」
「……そう……そうなのね。――なら、良かった、けれど……でも……」
自らの侍女の筆頭であるエフェナの、ハッキリとした否定の言葉に、ティリアはほっと胸をなでおろす。
しかし一方で、それでも思い出した幼い頃の記憶を、どうしても仕舞い込むことが出来ず、視線が床へ落ちた。
――と、いまだティリアの傍に立ち、心配そうにティリアへとその藍の視線を注いでいたライオッドへと、近寄る一人の令嬢。
すぐ近くでカツンと鳴った靴音に、はっとティリアやエフェナ、そしてライオッドが振り返った時には……すでに白く細い手が、振り上げられていた。
パチンッ――と音を立て、ライオッドの頬が、その手によって叩かれる。
「!?」
思わず、叩かれたライオッドや傍にいたティリアたちのみならず、周囲にいる人々までもが、驚愕にその目を見開く。
唖然とした中で、不思議と終始優雅に振りぬかれた手が素早く下がり、今度はライオッドの片手を掴んだ。
そうしてライオッドの手を掴んだ令嬢――セシーリアは、わずかな微笑みも浮かべることなく、真剣な表情で反転し、無言でライオッドを引っぱって行った。
あまりにも唐突に過ぎる展開に、止める声さえかけられず、引っぱっていかれるライオッドの背中を、多くの人々が見送る。
それはティリアも同じで、予想外の出来事に先の不安も飛んで行ってしまったらしく、青の瞳がせわしなく瞬いていた。
そんなティリアを見つめ、エフェナは心の中で自らに問いかける。
このまま、何も言わないことが、本当にティリアの……あるいはフレイのために、なるのだろうか? と。
そして、問うまでもないことだと、自ら答えを出した。
フレイが去ってしまった、つい先ほどの後悔。
それを思い出し、これ以上ティリアに何も言わないままでいれば、自分は必ずもう一度後悔することになると、エフェナは強く思う。
同時に、確かに。
自分はフレイにも、幸せになって貰いたいのだと――そう改めて思って、心が震えた。
深く呼吸をして、エフェナは決心する。
真っ直ぐにティリアへと向いた瞳が、揺らぐこと無く碧を魅せた。
多くの侍女のお手本に相応しく、凛と澄んだ声が、ティリアへと紡がれる。
「――ティリア姫。貴女様がフレイ様にできることは、ありますわ。――幼い頃から今に至るまで。フレイ様がティリア姫にしていらっしゃったことを、今度はティリア姫が、して差し上げればよろしいのです」
「フレイが、わたしにしてくれたこと……」
強く紡がれたエフェナの言葉に、ぱっと振り返ったティリアは、繰り返すようにそう呟く。
先ほどまでの驚きを仕舞い込み、そっと閉じられた青の瞳が、かつての幼いフレイをその内に描いた。
「大丈夫ですよ、ティリア」
そう言って、目の前に伸ばされた小さな右手。
見つめた微笑みは、どこまでも優しく、穏やかで。
「ティリアが恐いと言うのなら、ぼくはティリアが恐くなくなるまで、いつまでだってそばにいます。ティリアが進めないと言うのなら、ぼくがティリアの手を引きましょう。もしそれが嫌だと言うのなら、ティリアが進めるようになるまで、ぼくはティリアの手を握って待ちましょう」
紡がれる言葉は、どこまでも自らを大切にする思いで満ちていて。
「――それでまた、ティリアが笑ってくれるなら」
そうしてもう一度重ねられた微笑みは、どこまでも眩しかった。
かつての日、自らを導くために繋がれた手の温もりが、ふとティリアの掌に甦る。
自らの手を引き、半歩前を行くその背中は――いつも、温かかった。
ぱちっと開かれた青の瞳に、力ある微笑みを浮かべて自らへと視線を注ぐ、エフェナが映る。
それに、ティリアはしっかりとうなずいてみせた。
いまだ幼さが目立つその心は、しかし純粋であるが故に、とても素直だった。
「フレイは、いつもわたしのためを思って、たくさんのことをしてくれたわ」
可愛らしい美貌に、真剣な表情が浮かぶ。
ティリアは、その青の瞳を逸らすことなく、エフェナへと言葉を紡いだ。
「今日は、わたしがフレイの傍ですごすわ。エフェナ」
「――かしこまりました。ティリア姫」
きっと、ティリアにとっては深い意味などない。
ただ、何かあれば自分の傍で寄り添ってくれた、幼い頃のフレイを思い出しただけ。
そう分かっていても、エフェナは内から溢れる嬉しさが、自らの口元に微笑みとして浮かぶことを、止める事が出来なかった。
例えその言葉が、偶然から出たものだったとしても。
それでもティリアが告げた行為こそが、今最もフレイに必要な行為だと――そう思ったから。
深く礼をして下げていた頭を、エフェナはそっと上げる。
そうして、ならば早速とフレイを探すために後を振り返り――その碧の瞳に、見慣れた薄緑の長髪が映ったことに、心底驚いた。
「!?」
思わず瞠目するエフェナと、エフェナと同じくその姿を見つけた周囲の人々の驚愕に満ちた動揺が、あっという間にその場に満ちる。
その中で、再び舞踏会場へと戻ってきたフレイは、実に晴れやかな笑顔をエフェナへと向けた。
「フレイ!」
はっとしたティリアが、焦って駆け寄る。
その華奢な身体の突撃を、フレイは驚きながらもしっかりと受け止めた。
「危ないですよ? ティリア」
少し困ったように苦笑しながら、その声音はどこまでも穏やかで……。
――しかし、どこかすっきりしたようなその表情とは裏腹に、見る者が見ればすぐにそれと分かることが、一点。
「……フレイ様」
小さく呟いたエフェナへと、そっと向けられたフレイの瞳。
そこには確かに、涙を流した痕跡が残っていた。
周囲にいる者たちも、幾人かはそれに気付き息をのむ中、フレイはやはり気にした風も無く、いつも以上に穏やかな微笑みを浮かべてみせる。
――その微笑みが、大丈夫と告げていた。
瞬間的に重くなりかけた雰囲気が、ふわりと軽くなる。
丁度そこに、ティリアの声が響いた。
「今日はもうお部屋に戻りましょう? フレイ」
「はい?」
自らの胸元に顔をうずめていたティリアが、唐突に顔を上げて紡いだ言葉に、珍しくも思わずきょとんとした表情で疑問を零すフレイ。
最も、すぐに立ち直り、しかしまだ舞踏会は始まったばかりだからと、改めてティリアへと答えた。
「ですが、まだ退場する時間ではありませんよ? お菓子も見に行っていないのに、よろしいのですか?」
常のティリアを知るが故のその言葉に、しかしティリアはフレイの左手を引いた。
「いいの! 今日はもう帰るのよ!」
強い言葉と共に手を引かれ、フレイは戸惑いながらも繋がれた手に視線を落とし、ふわりと嬉しげな表情を浮かべる。
そうして、再三の周囲の驚きを置き去りに、ティリアがフレイを引っぱる形で、二人はそれぞれの従者たちと共に舞踏会場を後にする。
その様を、驚きに瞬く王の青眼と、優しく細められた王妃の黄緑の瞳が、無音で見送った――。
「……ティリア? ここは私の部屋なのですが……?」
「今日はフレイのお部屋にいるの」
「!?」
ティリアに手を引かれながら、来た道を再び引き返したフレイ。
フレイは、ティリアの部屋に帰るのだと思っていたが、どうやらティリアは違ったらしく、驚くフレイをそのままに、二人はフレイの部屋へと入った。
続くマイアやエフェナたちも全員入って来る様に、深緑の瞳を瞬かせて先の問いかけをしてみれば、間を空けずに返されたティリアの返答。
それは、フレイを驚愕させるには十分な内容だった。
「え、えぇっと、ティリア? 何故また急に、私の部屋にいることに……?」
当然としてエフェナとティリアの会話を知らないフレイは、もっともな疑問を口にする。
その問いかけに対し、ティリアより先に、まずエフェナが答えた。
「ティリア姫は、はじめは舞踏会場から出て行かれたフレイ様が、体調を崩されたのではないかと、心配していらっしゃったのです」
「……それは……」
やわらかな微笑みを浮かべるエフェナの言葉に、一瞬舞踏会場を出た本当の理由を思い出して、微妙な微笑みを浮かべるフレイ。
しかしその表情は、次いで紡がれたティリアの言葉によって、驚きながらも嬉しげなものへと変わった。
「でも、そうではないのでしょう? ――だから、今日はわたしがフレイの傍にいることに、決めたの」
しっかりと向けられた、青の瞳。
驚くほど澄みきったその瞳が、先の言葉と共に、真剣な色を宿してフレイへと注がれる。
紡がれた言葉は、何よりもフレイが望んだもの。
「――ティリア……」
呆然として呟いたフレイは、それでも、自らが嬉しそうな微笑みを浮かべるのを、止める事が出来なかった。
「……今日は、一緒に居てくれるのですか?」
囁くようなフレイの問いかけに、ティリアは強くうなずく。
続いたのは、エフェナとの会話を思い出しての、呟き。
「……わたしは、フレイがどうして舞踏会場を出たのか、知らないわ。――でも、たとえその答えを聞かなくても。わたしにも出来ることがあるのよって、エフェナが教えてくれたから……」
――そうして紡がれる、その言葉。
「わたしだって、フレイが恐いって思うなら、フレイが恐くなくなるまで、ずっと傍にいるわ。……もし、フレイが一人で歩けなくても、さっきみたいに手を引くことだって、もう出来るから。……だから、わたしも、わたしの出来ることをするの。――わたしなら、それでもう一度、笑うことが出来たから――」
すっと向けられた青の瞳が、深緑の瞳を射抜いて煌く。
まるで祈りのように。
最後の言葉が、紡がれた。
「だから、今度はわたしが――フレイを笑顔にするのよ」
優しく、しかし常のティリアには無い、強さをも秘めて紡がれた言葉。
その言葉は、ティリアが思い浮かべたかつての瞬間と、同じ瞬間を、フレイにも思い出させた。
例え、その真白い右手が、左手と共に祈るように、組まれていたとしても。
それでも、紡がれた言葉は、かつて自らが告げたものと、とてもよく似ていて。
ただ、嬉しいと。
フレイはそう思って、ティリアへと微笑んだ。
「ありがとうございます――ティリア」
消えないように、零れないように。
大切に、その名を紡ぐ。
そんなフレイに、ティリアもまた、嬉しそうにうなずいた。
それぞれの侍女たちや近衛騎士も、安堵と嬉しさを宿し、互いの視線を交わし合う。
部屋には温かな雰囲気が満ち、穏やかな時間が流れ始めた。
「――座りましょうか」
「えぇ!」
そっと紡いだフレイに、笑顔でうなずくティリア。
今度は正しくフレイがティリアを導き、部屋の奥のソファーへと、二人は並んで腰掛けた。
それに、マイアやエフェナたち侍女が、素早く二人へと出す飲み物の用意に取りかかり、さすがの手際のよさでテーブルへとすぐ、二つのカップが並ぶ。
微笑みを交わし合ったフレイとティリアは、自分たちの前に置かれたカップを手に取り、同じように上品に傾けた。
美味しい、と同時に感嘆が零れる。
それに再び微笑み合った二人に、従者たちもまた笑顔を浮かべた。
そっとカップがテーブルへと戻され、穏やかな静けさが訪れる。
その中で、ふとフレイが自らの左手を動かす。
その手は、自らの左側に座るティリアの右手に、そっと重ねられた。
「!」
ぱちり、と一度の瞬きの後、ティリアがフレイへと顔を向ける。
移動した青の瞳に映ったのは、優しげに細められた深緑の瞳と、甘ささえ宿すやわらかな微笑み。
思わず、知らぬ内にティリアの頬が、わずかに赤く染まる。
そんなティリアを見つめ、フレイは重ねた左手にそっと、力を込めたのだった――。




