願い――涙と約束
「フレイ! きょうはおにわにお花をみにいくのよ!」
「ていえんに? わかりました。行きましょう」
そう言って繋ぐ、互いにまだまだ小さな手。
扉の外へと踏み出し、まだ日も浅い今日。
いまだかすかに震える身体に、それでもティリアは歩みを進めていく。
――フレイと一緒に花が見たい、その一心で。
フレイは、そんなティリアの手をしっかりと握り、微笑みを浮かべて導く。
決して早くは無い、ゆっくりとした歩み。
しかしそれは、確かに庭園へと辿り着いた。
「きれいっ!」
「うわぁ……!」
互いに見開いた円らな瞳に、色とりどりの花々が映る。
幼い二人には、その様が宝物のように輝いて見えた。
しばし見惚れ、しかし吹き抜ける少し冷たい風に、フレイがけほっと咳をする。
「フレイっ、だいじょうぶ!?」
慌ててフレイの顔をのぞき込むティリアに、フレイは笑顔でうなずく。
長年毒に蝕まれた弱い身体は、すぐに強くなるわけでは無い。
ようやく外へと踏み出したティリアと同じく、フレイもまだ、新しい道を踏み出したばかりだった。
「あまり長居をすると、お体に響きます。いくつか花を摘んでまいりますので、お部屋に戻って花瓶に飾りましょう?」
「そうね!」
フレイの身を案じ、そう提案したエフェナに、うなずくティリア。
そうして侍女たちが花を摘み終わる、わずかな時間。
ティリアとフレイは、今一度その瞳にゆれる花々を映し、美しさに微笑みを交わす。
繋いだ手の温かさが、その日はいつもより強く、フレイの掌には残っていた――。
――まだ、朝の光が満ちていない、暗い時間。
自らの部屋の寝室で、はっと深緑の瞳が見開かれた。
そっと上半身を起こしたフレイは、幼い頃の夢を見ていたのだと、遅まきながら理解する。
理解した途端、つとその瞳から、小さな雫が零れ落ちた。
「っ?」
自分でも何故涙が零れるのか分からず、フレイは戸惑いを浮かべる。
しかし、ためしに拭ってみても、儚く零れる涙が止まることは無く……。
「――あぁ……」
ふと紡がれた声が、納得を宿して、静かな部屋に響いた。
それは、涙に対するものというよりは、何故幼き日の夢を見たのかという、もう一つの疑問に対するもの。
――同時に、涙の答えをも導く思いつき。
フレイは、昨日の庭園パーティーの後半、楽しかったティリアとの時間を思い出し、それが懐かしい夢を見せたのだと、小さく微笑む。
次いで、もっと重要な出来事があったことをも思い出し、そこでようやく、止まらない涙の意味を理解した。
そっと移動した深緑の視線の先。
窓の先の空はいまだ暗く。
――まだ、とうぶん夜は明けそうにない。
実の妹との狂気の再会、ティリアとの楽しい時間、そして改めて知った、家族の悪徳。
苦しみと喜びを行き交う感情に、溢れる涙を止めるすべが無いまま。
フレイはただただ、一人きりの部屋で、流れる雫に身を任せた――。
涙の痕跡を癒しの魔法で消し、何事もなく朝と昼を過ごしたフレイは、再び訪れた夜の時間に、少しだけ期待を抱く。
今晩は、ティリアとフレイが始めてライオッドと出会ったあの時と同じ、王城舞踏会が開かれることになっていた。
昨日の少しだけ楽しかった庭園パーティーの時間を思い出し、美しく着飾ったティリアを、フレイは微笑んで舞踏会場へと導く。
――しかし、舞踏会場に着いた二人を微笑んで向かえたのは、王と王妃だけではなかった。
「あら、ライオッド」
「!」
王と王妃に挨拶をして、入り口に近いその場から、少し広い空間の内側へと進んだ時。
二人の目の前に、純白の貴族服をまとったライオッドが現れ、優雅に礼をした。
それに嬉しそうに礼を返すティリアと、小さな微笑みを浮かべながらも殊更ゆったりと礼を返すフレイ。
幸い周囲にいる者たちの中でも、三人の近くにいる貴族は老年の者が多く、皆口を開くことなく静かに成り行きを見守っている。
時は、そろそろダンスが始まる頃。
少し離れた所に立つライオッドと話そうと、ティリアがフレイからするりと離れ、ライオッドに近づく。
それに、ライオッドはその藍眼を細め、そして静かに言葉を紡いだ。
「ティリア様……その、もしよろしければ、なのですが……」
「なあに?」
ライオッドにしては珍しく、ぽつぽつと続けられる言葉に、不思議そうにティリアが尋ねる。
そんなティリアを見つめたライオッドは、意を決したように背を伸ばし、凛と紡いだ。
「私と――また、躍って頂けませんか?」
真剣な表情での問いに、フレイとティリアの瞠目が重なる。
ややあって、ティリアが嬉しそうにうなずいた。
「もちろんよ! 躍りましょう?」
顔が見えずとも、ティリアが笑みを浮かべていることを覚ったフレイが微笑みを浮かべなおす。
――最も、その微笑みは、決して嬉しそうなものではなかった。
ふと、流れていた音楽が変わる。
丁度、ダンスの時間が訪れたのだ。
ティリアはいつも、ダンスを躍る時は必ずフレイと一緒に躍っていた。
そこに前回の王城舞踏会から、ライオッドが加わり、それは今回も成されるのだろうと、フレイも予想していた。
――しかし。
「あら? ちょうどダンスの時間になったわ!」
「では参りましょう――ティリア様」
「えぇ!」
――しかしまさか、最初のダンスの相手が、ライオッドになるなど。
それも、舞踏初めのダンスの相手に、自ら以外をティリアが受け入れるなど。
……フレイは、よもやこのような事態が訪れるとは――思っては、いなかった。
「ティリア姫っ」
はっとして呼び止めるエフェナの声は、しかしティリアとライオッドには届かない。
舞踏初めのティリアとフレイのダンスを見ようと視線を向けた王が、その青眼を驚きに見開く。
楽しそうに何事かを語りながら、広い空間の中心へと進むティリアとライオッドの姿は、あっという間にフレイの視界から消えてしまった。
まるで、何かが崩れ落ちるような。
愕然とした感覚が、フレイの内を駆け巡る。
そこに、やや遠方から、追い討ちをかけるように言葉が響いた。
「おや……舞踏初めの姫君とのダンスを、ライオッド殿が?」
「いつもフレイ殿と行っていなかったかね?」
思わず肩を跳ねさせたフレイに、しかし少し離れた場所でそう語る者たちは、気付かず。
――そして響く、突き刺さる刃に似た、無情な言葉。
「致しかたなかろう。ゼルロース侯爵家より、フィルハイド公爵家」
いやに響いたその言葉に、いまだフレイの近くにいた老年の貴族たちが、声が響いた方へ鋭い視線を向ける。
それは、ひとえにその場で立ち尽くすフレイを、護ろうとしての行為。
一方で、愕然としたままのフレイは、耳に届いたその言葉に、かつての一瞬を思い出していた。
それは、ティリアが、ライオッドと初めてお茶会をした日。
庭園に面した廊下で、ティリアと、そしてそれに続くライオッドの声を聞き、足早に立ち去った時。
自らが思った、あの言葉。
すなわち、侯爵より、公爵の方が――王族には、相応しいのだと。
「ッ」
瞬間、胸の内に湧き上がった抑え切れないほどの哀しみに、さっとその身を翻すフレイ。
「!? フレイ様っ!」
焦って追いかけるマイアの声にさえ立ち止まることなく、顔を伏せたまま進むフレイは、あっという間に舞踏会場から出て行く。
その場に残ったのは、どうする事も出来なかった後悔に瞳を揺らし、出入り口を見つめるエフェナたちティリアの侍女と、厳しい瞳でエフェナたちと同じところを見つめる王。
そして、すでに幾人かが躍る只中で突然ダンスを中断したティリアを、ただ真っ直ぐに見つめる、王妃の視線。
華やかな舞踏会場の中。
その一角だけは、様々な思いに満ちて静まり返っていた――。
多くの人々が舞踏会場に集まっている今は、警護にあたる騎士とわずかばかりの侍女たちだけが、廊下を行き来している。
幸いにも人通りの少ないその廊下を、常に無い高い靴音を立てて通り過ぎたフレイは、自室の前に辿り着くなりマイアがするのを待つこと無く、自分で扉を開けて部屋へと入り込んだ。
追って入ったマイアたちが、急ぎ部屋へ明かりをつける。
光に照らされた部屋で、フレイは扉と対面する部屋の奥のソファーに、顔を俯かせたまま座っていた。
その見えない表情と、膝の上で固く繋がれた両手が、マイアたちの心に不安を宿す。
……ややあって、掠れた声が、フレイの口から零れた。
「どうして……元気になった、はずなんですけれどね」
笑っているような、響きを含んだ声音。
それに、確かな自嘲を秘めた言葉が、続いた。
「苦しいんです。苦しくて苦しくて…………ずっと、思っていたはずなんです……。初めて陛下にお会いした時から……いいえ、それより、前から……姫様に、幸せになって欲しいと…………けれど。――これでは、父様と同じだと言われても、当然ですね」
「!? そんな事はありません!」
懺悔に似た言葉と共に、悪徳の父と同じだと語るフレイへと、反射的に否定を叫ぶマイア。
しかし、その強い否定にさえ、フレイは弱々しく首を横に振り、言葉を続けた。
「……いいえ。だって、こんなにも、酷い感情が溢れてくるんです……」
「フレイ様……っ!」
続く言葉に、その名を呼ぶマイアと、はっと息をのむマイア以外の従者たち。
次ぐフレイの言葉は、固く繋がれていた両手が離れ、右手が顔へと当てられた事で、はっきりと悲嘆に満ちた哀しさを現した。
「……どこかで、思っていたんです。それで姫様が幸せになれるのならと……思う反対側で。……きっと、ずっと――」
――ずっと。
「――僕を、選んで欲しいと――」
それは、どこまでも静かな――愛を捧ぐ為の言葉。
聞いていたマイアたちが、思わず息をすることを忘れるほどに。
ふと上げられた端正な顔に浮かぶ、ふわりと儚い微笑み。
頬を流れる雫は、深緑の瞳を澄みわたらせ、宝石のように煌いた。
しかしそれは、束の間の事。
そっと閉じられた瞳と共に、フレイは再び俯き、ぽつりと呟く。
「……けれど……」
その言葉には、隠しきれない落胆と諦めがあった。
……哀しみを通り越した――達観が、あった。
瞬間、マイアが息を吸い込む。
茶色の瞳は力を湛え、踏み出された足が、フレイの目の前までその身を導く。
いまだ俯いたままのフレイを見つめ、マイアは心からの言葉を、凛と叫んだ。
「フレイ様っ! あなた様だって、幸せになって良いんですっ!!」
「っ!」
響いたのは、強く、優しい言葉。
――刹那、フレイの脳裏に、遠い過去の記憶が蘇った。
それは、大好きだった人の、最期の時。
むせ返るような赤色。
目の前に倒れた大好きな人。
わけも分からず伸ばした手を、懸命に握ってくれて――そして――。
「――〝幸せになりなさい〟」
「! フレイ様……?」
唐突に呟かれた穏やかな言葉に、マイアがはっとして、フレイへと問う。
それに、少しだけ顔を上げたフレイが、呆然としたように再び、言葉を零した。
「――あぁ……どうして、忘れていたのでしょう――」
思い浮かべる、大好きだった人の笑顔。
フレイの口から、遠い過去に喪った、大好きだった言葉が零れ落ちた。
「――おばあさま」
「!!」
息を飲むマイアに、彼女を見上げ、ふと微笑むフレイ。
――その微笑みに、もう陰は無かった。
「――えっと。皆さん、ごめんなさい。――もう、大丈夫です」
涙を拭い、立ち上がりながら穏やかな声でそう告げるフレイ。
改めて四人へと向き直ったフレイは、ずいぶんさっぱりとした笑顔を浮かべた。
それは、言葉で語るよりも如実に、もう憂いが無いことを、確かに四人に悟らせる。
「フレイ様」
そう紡ぎ、すぐ傍で微笑みを浮かべたマイアに、フレイもまた優しい微笑みを返す。
その微笑みは、二人の侍女と一人の近衛騎士にも向き、重なってゆく。
先ほどまでとは打って変わって、温かな雰囲気が部屋に満ち――次いで、明るく穏やかな声音が、朗らかに響いた。
「さぁ――舞踏会場へ戻りましょう。姫様を一人で部屋まで帰らせるわけには、いきませんからね?」
少しだけイタズラな雰囲気を宿した言葉に、自然と部屋に笑い声が満ちる。
フレイの朗らかな笑顔に、マイアが眩しげに瞳を細めた。
そして、入って来た時とは正反対の穏やかさで以って、フレイたちは部屋を後にする。
再び目指すは、ティリアを置いてきてしまった、舞踏会場。
やはり人通りの少ない廊下を抜け、明るい空間へと再び舞い戻ったフレイは、まず初めに、その顔を驚きに染めたエフェナと対面する。
周囲にさえ驚きが満ちたその場で、フレイは実に晴れやかな、憂いなき眩い笑顔を見せたのだった――。
ここからがフレイのターン!




