それは――小瓶の中の悪徳
ティリアがライオッドと、フレイがセシーリア含める貴族令嬢とお茶会をする日々が幾度か繰り返され、それが半ば日常と化してきていた頃。
新たに咲いた花々を愛でるパーティーが、王城庭園にて開かれた。
当然、王城で開かれるパーティーなら、フレイとティリアも参加する。
――それは、ライオッドも同じだった。
「ティリア様」
「あっ、ライオッド!」
「! ――」
凛としたライオッドの声に、振り返って彼へと駆け寄るティリア。
つい先ほどまで繋がれていた腕が一瞬で離れ、フレイは驚きと寂しさに瞳を伏せる。
そっと開かれた深緑の瞳が、鮮やかな金と見慣れた白を映し、ゆれた。
変わらずに浮かべている微笑みのおかげで、周囲にいる多くの者たちには、フレイがただティリアの様子を微笑ましく見ているようにしか見えてはいない。
それでも幾人かの慧眼の持ち主たちは、その微笑みが複雑な色を宿していることを、見抜いていた。
マイアたちフレイの従者と、目の届く範囲かつ相手がライオッドということもあり、その場に残ったエフェナが、フレイをそっと見つめる。
フレイは、自らに注がれるその視線に気付き、振り返り――同時に視界で揺れた、自らと同じ薄緑の長髪に、ハッと表情を強張らせた。
思わず向けた視線の先――そこには、誘うように小さな笑みを残し、人波の奥へと入り込む、華奢な姿。
「……フレイ様?」
常の微笑みさえ消し去って彼方を見つめるフレイに、マイアが不安げに問いかける。
それに一度瞳を閉じ、大きく呼吸をして心を落ち着けたフレイは、真剣な表情でエフェナへと振り返った。
「エフェナさん。ティリアをお願いします」
「! ……如何なさいました?」
ことティリア関連では率先して自分が動くフレイのそのような言葉に、一瞬碧の瞳を見開き、次いで流石にいぶかしんで尋ねるエフェナ。
ある意味最もなエフェナの問いに、わずかに困ったような微笑みを浮かべたフレイは、ちらりと深緑の瞳を先ほど見つめていた方へと飛ばす。
「……少し。――呼ばれたので」
そうしてふとその表情が、警戒を宿したものに変わったのに対し、エフェナもまた真剣な表情を浮かべ直した。
「分かりました。――くれぐれも、お気をつけて」
しっかりとうなずき、しかし案ずる言葉は忘れないエフェナに、フレイは束の間戻した穏やかな笑顔でうなずく。
そしてさっと身をひるがえし、マイアたちを従え、人々の間を縫って庭園の奥へと赴き――そこで、実に八年ぶりとなる、よく知った少女との再会を果たした。
比較的人が少ないその場で、可愛らしくもどこか歪んだ声音が、可憐に響く。
「お久しぶりにございます――お兄様?」
「……久しぶりですね。……フレシアーナ」
あいまいな微笑みを浮かべ、フレイは静かに、その名を呟いた。
思わぬ再会に身を硬くしたマイアと、少女の素性に気付いたが故に警戒を強める侍女や近衛騎士。
そして、幼い頃の面影をいまだ残すその姿を、ただ見つめるフレイ。
彼・彼女らの視線の先には、十四歳ていどであろう、華奢な令嬢がいた。
まずその人目を引くのは、いまだ幼い年齢に見合わぬ、黒と見まがうほどに濃い深緑のドレス。次いで、波打つ薄緑の長髪と、綺麗な小顔に揃う、深緑の瞳。
ドレスを除いたその容貌と色合いは、一見しただけで、フレイと近しい者だと思わせる。
――事実、少女はフレイの家族の、その内の一人だった。
少女の名は、フレシアーナ・レア・ゼルロース。
フレイの実の妹にして、幼いフレイがその身に毒を盛られ、半ば捨て駒として扱われることとなった、原因そのもの。
父親たるゼルロース侯爵の悪事を率先して手伝う母親に、幼い頃から性格がよく似ており、フレイがまだゼルロースの家にいた頃から、母親と共に毒が入っていると教えられた上で、フレイに食事を持って行っていた――狂気を宿す少女。
フレイがティリアの婚約者として王城で過ごすようになってからは、次期ゼルロース侯爵は彼女が女侯爵としてその座につくことが決まり、以来両親共々密やかに多くの悪行に手を染めている。
多くの貴族令嬢が十四歳で貴族社会に正式に姿を現す中、フレシアーナは父親に連れられ、十二歳の頃からすでに社交界に現われ、瞬く間にその名を広めていった。
すなわち、悪の花――ゼルロースの黒花、と。
同じ悪徳の貴族からは、幼いながらも迷いのない悪行の手腕に感心され。
一方で善良な貴族たちからは、ある意味では父親であるゼルロース侯爵よりも性質の悪い者だと危険視されている、現在最も名高い悪徳の貴族令嬢。
幼い頃から心優しいフレイを知る貴族たちから、密やかにゼルロースの白葉と呼ばれているフレイに相反する、黒花の名で呼ばれるフレシアーナの事は、王城で勤める侍女たちも知っていた。
そのような悪名高い妹と、善良な兄がこのような場で顔を合わせる事。
それは必然、何かしらが成されることを予想させ、密やかなれども多くの者たちの目を惹く。
そうして、自然と様々な視線が集まる中心で、フレシアーナは鮮やかに笑んだ。
「お兄様。わたくしが、お兄様をお救いしてさしあげますわ」
「……救う、とは?」
狂気を秘めた言葉に、微笑みながらもその瞳から、決して警戒を消さないフレイ。
フレイの当然の疑問に、しかしフレシアーナは答えず、ゆっくりとフレイへと近づいた。
その動きに、反射的に近衛騎士が前に出ようとするのを、そっと止めるフレイ。
殊更ゆったりとしたフレシアーナの歩みに、周囲も緊張を強める中、手が届く距離まで来たところで、その華奢な足が止まる。
向かい合う眼前で自らを見上げてくるフレシアーナに、それでも一見して穏やかな微笑みだけは消さないフレイ。
両者は少しの間、その同じ色の瞳を互いの瞳に映し――次いでそれは、唐突にフレシアーナがフレイの右手を取り、そこに何かを握らせた事で、素早く外れる。
思わず右手へと視線を落としたフレイが、次の瞬間、今度こそ微笑みを消して驚愕に表情を強張らせた。
フレシアーナが、フレイの右手へと渡し、握らせた物。
それは、小柄なフレシアーナの片手に納まるほど小さな、透明な小瓶だった。
中に入っているものは、一見ただの水ではないかと思えるような、これまた透明の液体。
――しかしそれはフレイにとって、とても水と思えるようなものではなかった。
フレイは一瞬の内に状況を整理する。
悪の花と名高い妹、自らを救うという言葉、隠すのに容易い小瓶、そしてその中の液体。
これらを瞬時に頭の中に思い浮かべ、その上で、この液体が何であるのかに気付かないほど、フレイは愚かではない。
右手の中に落とされていた視線が、そろりと再び、フレシアーナへと向けられる。
それに、ふと笑みを重ねたフレシアーナの表情は、実に楽しげだった。
かすかにざわりと、周囲がざわめく。
ともすれば震え出してしまいそうな感覚の中、フレイはそれでも今はフレシアーナを刺激しないようにと、小さな微笑みを浮かべて見せた。
愕然とし、恐れを抱きながらも警戒を消さず、その上でようやく浮かべたその微笑みに、一歩離れてフレイを見つめていたフレシアーナは、次いで満足そうににっこりと笑う。
「では、わたくしはこれにて――」
「……えぇ」
可憐な声音と上手な礼。
それをさらりとこなして、あっけなく身を翻したフレシアーナに、少しだけ掠れた声を返すフレイ。
あっという間にいなくなったフレシアーナに対し、フレイがまず抱いたものは、眼前の脅威が去った事に対する安堵と――本当に自らの家族であるゼルロース侯爵家が、悪徳を行っていたという、確信。
その事実が確かに収まっている右手が、そっと握られた。
「フレイ様」
いつになく真剣な、マイアの声。
それに、右手の中の小瓶を、迷った末胸元へと仕舞い込みながら、フレイは小さく答えた。
「……後で」
――後で、陛下に。
自らの従者たちにしか分からないように囁いたフレイに、全員が強くうなずきを返す。
そうして、その場を後にしようと振り返りかけ、フレイはふと、実の妹が去った先を見つめた。
その瞳が、確かな悲しさを宿して、強く揺れる。
一瞬の悲哀に、けれどフレイは今度こそ反転し、その場から立ち去った。
「フレイ! どこへ行っていたの?」
元々エフェナがいた辺りへと戻ってきたフレイに、ライオッドと共にその場にいたティリアが足早に近寄る。
そっと立ち止まったフレイを、目の前まで来て見上げるティリア。
その湖に似た青の瞳は、少しの不満とたくさんの心配を宿していた。
しかし、依然として沈黙したままのフレイに、今度は不思議そうな色がその瞳に浮かぶ。
常ならすぐに返ってくる言葉が紡がれないことに、ティリアは小首を傾げた。
「どうしたの? フレイ」
その問いかけに、ふと様々な感情が胸の内に満ちたフレイは、複雑な微笑みを浮かべる。
「……フレイ?」
見慣れないその微笑みに、もう一度、しかし今度は不安げに問うティリア。
ティリアの後方では、エフェナは当然として、他のティリアの侍女たちやライオッドまでもが、穏やかでないその微笑みに、フレイへと視線を投げかけている。
それに気付いたフレイは、そっと瞳を閉じ、呟くように答えた。
「……いずれ、分かりますよ」
その言葉と共に戻ってきた穏やかな微笑みが、これ以上の追求を静かに拒む。
今までにないフレイの姿に、戸惑いを表情に浮かべるティリア。それでも、これ以上の問いかけはしてはいけないと覚り、変わりにそっとフレイの手を取った。
「!」
くしくも、ティリアの両手に包まれたフレイの手は、今は胸元にしまわれている小瓶に触れた、右手。
かすかに瞠目したフレイが、自らの右手をそっと祈るように持ち上げたティリアに、言葉をかける直前。
「ライオッド様」
「! ――セシーリア?」
フレイとライオッドには聞き憶えのあるやわらかな声に、視線が移動する。
ハッと振り返ったライオッドが、問いかけるようにその名前を呼んだ。
ティリアの青の瞳に映ったのは、真っ直ぐな白銀の髪と薄青のドレスを揺らし、ライオッドへと歩み寄る少し年上の令嬢。
不思議そうに瞳を瞬かせるティリアに、セシーリアがふと、その水色の瞳を向けて目礼をする。
束の間交じり合った二つの青の瞳は、しかしセシーリアがライオッドへと再び向き直った事で、外された。
いまだセシーリアへと視線を向けるライオッドに、彼が先ほど自らと視線を合わせたこの令嬢とお話をするのだと悟るティリア。
ならば、と再びフレイへと向けられた青の瞳は、今度は嬉しげに煌いた。
「あのね、フレイ! あのテーブルに、美味しそうなお菓子があったの! 一緒に食べに行きましょう?」
「え、えぇ。行きましょうか?」
無邪気に背伸びをしてまでそう言って笑顔を輝かせるティリアに、いまだ彼女の両手に包まれた自らの右手を引っ込める事も出来ず、勢いに押されてうなずくフレイ。
絶妙な時にセシーリアと言う穏やかな人が訪れ、一瞬悩みも憂いも消えていた空白時に、突然ティリアから一緒に行こうと言われたのだ。
浮かんだその笑みが、戸惑いながらも純粋な嬉しさを見せるのは、当然と言えた。
心なしかその頬が赤くなっているのは、久しぶりに間近で、ティリアの可愛らしく眩い笑顔を見ることができた故。
そうして、今一度婚約者らしく腕を組み、微笑みながらティリアが指し示すテーブルへと歩む二人。
二人の後方に控える従者たちも、互いに笑顔で視線を交わし合う。
正直、フレイにとっては、久しぶりに訪れた楽しい時間と言っても過言では無い。
事実、笑顔でお菓子を食べるティリアに注がれる視線も、浮かぶ微笑みも、嬉しげな色を湛えていた。
――しかし一方で。
フレイの意識から、胸元に仕舞った小瓶の存在が、消えることはなかった。
正しく華やかであった、庭園でのパーティーが終わった後。
多くの者たちにとって、何事もなく夕方が訪れ、晩餐を味わい、穏やかな夜の一時に身を任せようという頃。
フレイは許可を取り、従者たちと共に、王と王妃の部屋を訪れていた。
「よく来たね、フレイ」
「いらっしゃい。さぁ、座って」
共に優しく瞳を細め、テーブルを挟み自分たちが座るソファーの対面にあるソファーに、座るようフレイを促す王と王妃。
その言葉に小さく嬉しそうに微笑み、ソファーへゆったりと座ったフレイは、しかし次の瞬間にはその表情を曇らせて俯く。
その様に、互いに無言で視線を交わし合う、王と王妃。
二人はそもそも、フレイが二人に会いたいと言っているという報告を受けた時から、何かがある、もしくはあったことを、予想していた。
そしてその予想は、今自分たちの目の前で俯くフレイと、その後方でフレイを心配そうに見つめる従者たちを見て、確信に至る。
当然のごとく訪れた沈黙を、しかし王の穏やかな声が破った。
「必ずしも語る必要はないとも。……ただ、顔は見せておくれ――フレイ」
王としての言葉を残しつつ、それでも一人の父親としての声音で、そう告げる王。
それは、決して命じる言葉ではなく。
それでも、その言葉に応じ、フレイはそっと俯かせていた顔を上げた。
途端に、誰かが小さく息をのむ音。
対面に座す王と王妃の瞳に映ったのは――傷ついたように揺れる、深緑の瞳。
次の瞬間。
それが今一度伏せられ、次いで動いた右手が、胸元から何かを取り出した。
小さくコトリ、と音を立てて、その何かがテーブルの上に置かれる。
そっと離れたフレイの右手から現れたのは、透明な液体が入った、小さな透明の小瓶。
すっと青眼を鋭く細めた王が、今一度フレイへと視線を戻した、刹那。
「――ゼルロースの毒、です」
感情のないフレイの声が、そう紡いだ。
ハッと表情を変えたのは、王と王妃のみならず。
部屋の隅に控えていた王と王妃の侍女と近衛騎士も、顔色を変えて王へと、あるいはフレイへと、視線を向ける。
しかし、表情を真剣なものにした王が、言葉を紡ぐより早く。
フレイがふと小さく微笑み、静かに呟いた。
「本当は、まだ……私は、信じていたのでしょう」
「っ」
そのあまりにも穏やかな声音に、誰もが表情を歪め、フレイを見つめる。
多くの視線が向けられた中で、フレイは浮かべた小さな微笑みも、穏やかな声音も変えることなく、ただ言葉を続けた。
「――八年前。陛下に真実を教えて頂いた時。確かにその言葉は正しく、私は他ならぬ家族に自分が傷つけられていたのだと、理解しました。けれど――本当のところ、その真実を受け入れることは……出来ていなかったようです」
儚げに紡がれるそれは、賢い故に理解は出来ても、優しいが故に心が納得することを拒んだのだという、確かな実情。
「あの日から八年。実の父や母、妹の悪行を、聞かなかったわけではありませんでした。その度に、何故そのようなことを、と思いもしました。――それでも、まだ」
まだ、と繰り返された呟きに、侍女の数人が瞳を閉じた。
――穏やかな声音のその奥に、確かな悲痛を聞きとって。
「……どこかで、信じることを拒んでいたのです。人が、これほどまで容易に……誰かを傷つけられるなんて」
思いたくは、無かった。
知りたくは、無かった。
それは、至極当然の言葉だった。
誰が、実の母親に、父親に、妹に、毒を盛られていたなど、認められようか。
それも、病弱な自分を心配して、侍女の手も借りずに、自らの手で家族が持って来てくれていた、食事の中に、などと。
例え、事実を理解する事が、出来たとして。
それで心までも納得するとは――限らなかったのだ。
「――フレイ」
王が、ふとその名を呼ぶ。
その声に、そっと移動した深緑の瞳が映したのは、揺らめく青眼をそれでも真っ直ぐに向け、凛と威厳さえ宿して笑む、一国の王。
「よくやった」
一瞬視線を小瓶に移しての言葉に、一度の瞬きの後、最敬礼を行うフレイ。
ゆっくりと顔を上げたフレイに、王が深く、うなずいた。
役に立てたのだと、そう理解してわずかに嬉しげに細められる、深緑の瞳。
それが今度は、静かに立ち上がる王妃を捉える。
王妃は、柔らかな微笑みをたたえたまま、フレイが座るソファーの元へ歩み寄り、フレイの隣へと腰掛けた。
そろりと王妃へと向き直ったフレイは、眼前の優しい微笑みを無言で見つめる。
その口元に浮かぶ小さな微笑みは、いまだ消える事は無く。
しかし、同じように見つめる王妃の瞳には、耐え難い苦しみの中で涙を流す寸前の、幼き頃の少年の姿が、今のフレイに重なって見えた。
ふと優しく紡がれる、やわらかな言葉。
「――よく、頑張りましたね」
ふわりと微笑んだその姿は、王妃ではなく、慈しむ母としてのもので……。
王が、どうしても王で無ければならない時。
王妃は、王の代わりに、そして何より自らの意志で、一人の女性、母親としての姿を見せる。
そっと伸ばされた温かい手が、フレイの頭を、愛おしそうに優しく撫でた。
誰もがそっと見守る中。
ふとフレイがその微笑みを、心のままに悲痛さで歪める。
さっと伏せられた深緑の瞳は、しかしもう開く必要は無かった。
ふわりと微笑んだ王妃が、もう一人の大切な我が子を、その腕に抱きしめる。
わずかに震えたフレイを、安心させるように、幾度も温かな手が優しく頭を撫でた。
黄緑色の瞳が、よりいっそうの慈しみをもって、フレイに注がれる中。
王は決定的な証拠となる小瓶を見つめ、断罪の時は近いと、護るべきフレイに胸中で呟いた――。




