儚い優しさの形
お待たせ致しました。
早朝。
早起きの侍女たちを筆頭とした、従者たちだけが目覚めている時間。
高齢の侍女らしく、手本になるような優雅な所作で廊下を歩いていたエフェナの耳に、若い侍女たちの噂話が届いた。
「あなたはご存知? 第二王女様と、フィルハイド公爵様の次男、ライオッド様のお噂」
「もちろん存じ上げておりますわ!」
ハッとして音を立てずに立ち止まったエフェナは、行儀の良いことでないと承知しながらも、若い侍女たちの声に耳を傾ける。
「以前行われた王城舞踏会で出会われてから、たびたびお会いしているとか」
「そうなの! 王城舞踏会では、婚約者であるゼルロース侯爵家のフレイ様と舞踏初めのダンスを踊られた後、ライオッド様が優雅に登場なされて、第二王女様と踊られたそうよ」
「まぁ! 第二王女様は、今まで婚約者であるフレイ様以外の方とは踊りませんでしたのに……」
「きっと、それほどにライオッド様が素敵だったのですわ!」
「そうですわね……。それなら、王城舞踏会以来、たびたびお会いしているのにも、納得できますもの!」
楽しそうに語られる噂話は、ここ数日のティリアとライオッドの接触が、すでに城内の少なくない者たちに知られていることを意味する。
サッと表情を真剣なものにしたエフェナは、足音を消したまま、その場を素早く去った。
ティリアとフレイを起こすべき時間の、その少し前。
「――と言うことがありまして。……どうやら、気付かない間にずいぶんと噂が広まってしまっているようです」
「そう、ですか……」
エフェナは、足早に去った廊下で語られていた話を、自らと同じくティリアに使える侍女たちは当然として、マイアたちフレイの侍女や近衛騎士も含め、密やかにその内容を告げていた。
困ったことに確かな事実であるその話に、表情を曇らせたのは、その場に集まった全員。
特に複雑な心境を表情に表したのは、マイアだった。
「……フレイ様と姫様が婚約者同士であることは、すでにほとんどの貴族方の知るところ……。成人も近くなってきたこの時期に、ライオッド様との噂がたつのは……」
うつむき、茶色の瞳を揺らしながらそう紡ぐマイアに、エフェナを筆頭とした侍女たちが深くうなずく。黙したままの近衛騎士でさえ、厳しい表情を隠そうとはしなかった。
現状が、まさしく〝まずい〟の一言で納得してしまうような状態であるのは確かだ。
普通に考えて、結婚を前程に過ごしてきた者たちの間に、他の人物が混ざることが、喜ばしいわけがない。
確かに、フレイとティリアの婚約は、フレイの家族であるゼルロース侯爵家が仕組んだことではあるが、フレイ自身に非がないことはすでにかつて証明されているのだ。
国王夫妻とて、フレイとティリアが結婚することを望ましく思う現在、ライオッドの存在は不穏を呼び寄せるだけ。
――しかし、この問題はなにも、ライオッドだけが不和をもたらしているものではなかった。
「……しかし、今は他ならぬティリア姫が、ライオッド様との時間を楽しんでいらっしゃいますから……」
瞳を閉じてうつむくマイアに、ティリアの侍女の一人が言いにくそうにそう告げる。
それに、今度はエフェナがきつく瞳を閉じた。
そう。問題なのは、ライオッドだけでは無い。
むしろ、ライオッドと過ごすことを純粋にただただ楽しんでしまっている、ティリアの心の内こそ、厄介な問題だった。
「――ティリア姫様の御心は、すでにフレイ様から離れてしまっているのでしょうか……?」
マイアと共に、フレイの傍に在り続けてきた侍女の一人が、不安げに呟く。
同じようにそっと顔を上げたエフェナとマイアが、互いの視線を交わし合った。
漠然とした不安が、徐々に、従者たちの中で確信となる。
ティリアとフレイを起こす時間になり、素早く互いの主の下へときびすを返すその表情は、未だ晴れないまま。
それでも今日一日はすでに始まっているのだと、各々が自らの仕事に取りかかった。
成長をして行くにつれて身体が丈夫になって行ったフレイは、最近ではマイアが起床を知らせに来る頃には、すでに目覚めて窓から朝日を見つめている事も多くなった。
どうやら今日の朝もすでに目が覚めていたらしく、マイアが寝室の扉を開くなり、穏やかな声が響く。
「おはようございます、マイア」
「! フレイ様」
慌てて視線を移動させたマイアは、眩しい陽光が射し込む窓の傍で微笑むフレイを見つけ、ほっと自らも微笑んだ。
「おはようございます、フレイ様」
「はい。今日は良い天気ですね」
気を取り直して朝の挨拶を返すマイアに、うなずきながら再び視線を窓の外へと向けるフレイ。
確かにフレイの言葉どおり、花の王国の空は昨日とは打って変わり、鮮やかな青色を魅せていた。
マイアは、空を眺めるフレイをこそ眩しそうに見つめ、しかし次いで一変して、その表情を曇らせる。
「ど、どうしたんですか? マイア?」
その変化に、慌ててマイアの傍へ駆け寄り声をかけるフレイ。
心配そうに自らを見つめてくるフレイに、これから告げなければならない話の内容を思い、マイアはそれでもそっと、顔を上げた。
幼い頃とは違い、自分を見上げてくる茶色の瞳に、フレイもまた表情を真剣なものに変える。
今からマイアが告げるのは、かの噂。
フレイにとっては、あまり耳に入れたくない、現状。
傷ついて欲しくないだけならば、告げなければいいだけのそれを、しかしマイアは告げることを、自らの意志で選んだ。
――それが、今のフレイにとって、苦しくも必要な情報であるが故に。
「――フレイ様。どうか、心穏やかにお聞きくださいませ――」
そうして始まったマイアの語りに、フレイは無言で耳を傾ける。
……その表情はやはり、話が進むほどに、複雑な胸中を表して曇って行った。
この現状を、一体誰が望んだというのだろう?
かのゼルロース侯爵家とて、このような事態を望みはしなかっただろう。
悪戯な偶然が引き寄せた、絡み合う無情の今。
かつて優しさとは、幼いティリアとフレイのためにあるような言葉だったというのに。
「……そうですか。もう、そんな噂になっているのですね……」
そっと閉じられた瞳が、束の間、非常な現実を拒絶するかのようにマイアの瞳に映る。
けれど、彼女の自慢の主は、決していつまでも俯いている人では無い。
かつての幼き頃。自らの生を諦め、達観をしてさえ。
――前を見つめることを、やめなかった人なのだから。
ふと開かれたその深緑の瞳は、まだ穏やかな光を湛えたままで。
「――そうですね。とりあえず、着がえて朝食を食べに行きましょう?」
苦しささえ静かに飲み乾して、フレイはふわりと微笑む。
マイアはただ、その微笑みの内に達観がないことに、心からの笑みを浮かべたのだった。
そうして、結局はいつも通りに始まった、穏やかな一日。
しかしそれは、ティリアの部屋での穏やかな朝食にのんびりとした昼食、と時間が過ぎると共に、従者たちに自らの願った平穏が叶わないことを痛感させて行った……。
朝食の席では、以前の約束通り、再びティリアがライオッドと昼過ぎにお茶会をする、という話題が出た。ただ、これはまだ仕方がないと、従者たちも思うことが出来た。
問題は、内心決して穏やかでは無いにも関わらず、それでも微笑みをたやさないフレイにより、いつも通りに終えられた昼食の、そのすぐ後。
食事を返しに行っていたマイアが、その帰りにフレイにと様々な者たちから渡された、数多くの手紙。
――その送り主が、全て貴族令嬢だったことだ。
当然として、新たに加えられた、ある意味では今までよりいっそう厄介な問題に、従者たちの誰もが思わず頭を抱えそうになる。
それでも、フレイにと渡されたものをフレイに見せる前に捨てるわけにもいかない。
結果、未だその場がティリアの部屋という状況の中、内心複雑ながらも安全を考慮して、貴族令嬢たちの手紙を開けていく侍女たち。
特に何か危険なものが入っていたわけでもなく、あっさり終わった作業に、しかしその内容を一通ずつ丁寧に読んでいたフレイが、五通目に目を通した辺りで、その深緑の瞳に疑問を浮かべた。
次いで、まだ十数通はある手紙を、取ってはざっと目を通し、それを置いてまた次を取り素早く目を通し……と、普段の礼儀正しい彼からは考えられない行為で、全てを読み終える。
思わずティリアまでもが呆けて眺めるだけだったそれが終わると、フレイはまず首を傾げた。
「どうしたの……? フレイ」
思わず、と問いかけるティリアに、フレイは小さな困惑の微笑みを浮かべる。
「いえ、それが……」
「? なあに?」
なかなか先を続けないフレイに、小首を傾げて再度不思議そうに問うティリア。
それに、一瞬迷うように視線を逸らしたフレイは、わずかな沈黙の後、言葉を選ぶように答えた。
「その……この、ご令嬢方の手紙の内容は、私とお茶会をしたい、というものだったのですが……えっと……すでに、皆さん、ご用意されているようでして……」
困ったように視線を彷徨わせて告げられたフレイの言葉に、しばしの沈黙がその場に落ちる。
ややあって、エフェナが静かに尋ねた。
「この手紙を出された皆様が、フレイ様とお茶会を望んでいらっしゃると?」
「えぇ。そのようです」
「……加えて、すでに皆様、ご用意されているということは、王城にいらっしゃるのですね?」
「……そうだと、書いてありました……」
「――そうでしたか……」
ため息をつくような、かすかな響きで成された問いと答え。
問いかける側であったエフェナは、内心お早いことで、と娘を仕向けたのだろう幾人かの貴族たちと、自らの意志で動いたのだろう同じく幾人かの令嬢たちを思い浮かべた。
なぜ、多くの貴族令嬢が、フレイとのお茶会を望むのか。
それは、ある者は個人的な利益、ある者は家の為、またある者は好奇心、そしてある者は、真実を知る為に。
ゼルロース侯爵家と元より繋がっている、同じく悪行を行う者たちの、自身が有利に立ち回る為の足がかりが、およそ半数。
悪徳貴族とは言え、侯爵家という家柄に娘を組み込むことで、自らの家の地位を上げようとする思惑が、そこそこ。
今まで語らう機会が多くなかったフレイに、近づく機会を得ての好奇心が、幾らか。
そして、娘を送ることで、ティリアとフレイ、そしてライオッドの三者の関係がどのようなものであるか、その真実を知ろうとする者たちが、残り。
互いに思うところはあれども、目的が同じならば共に手配をする。
困ったことに、今回はそういった事情により、すでにお茶会の場所が確保されてしまっていた。
予想以上に困った事態を目の前にして、その場には軽いとは呼べない沈黙が満ちる。
フレイでさえ、微笑みを消して真剣な表情で手紙を見つめる中――ふいに、明るく可愛らしい声が静寂を破った。
「まぁ! それなら、フレイは一人で待っていなくてよくなるわね!!」
「……? どういう意味ですか? ティリア」
場違いなほど嬉しそうに響いたティリアの言葉に、流石にいぶかしげに問うフレイ。
エフェナやマイアも意味がつかめず瞳を瞬かせる中、ティリアは胸の前で両手を合わせ、祈るように瞳を閉じた。
「――わたし、本当はフレイも一緒に、ライオッドとのお茶会に参加してほしかったの。……でも、たくさんの人たちがフレイとお茶会をしたいなら、仕方ないわ」
「っ!」
心の底から、残念そうに。
しかし、一方で自ら以外との……それも多数の貴族令嬢との茶会へのフレイの参加を、許可することを告げるティリアに、フレイが瞠目して固まった。
――当然だ。本来なら行ってはいけない場所に、本来なら誰よりも嫌がるべきティリアが、いってらっしゃいと背中を押すのだから。
「ティ、ティリア?」
最早動揺を隠すことさえ出来ず、反射的にティリアとの距離を詰めるフレイ。
……しかし、そんなフレイに対し、ティリアは自らも一歩前へと歩み出ると、ふいにフレイの右手を両手で取って包み込み、そしてやわらかな微笑みを浮かべて語った。
「ほら、このごろは、わたしはライオッドと過ごすことが多かったでしょう? フレイは用事が終わったらお部屋に帰ってくるのに、わたしが居ないから、一人になってしまっていたわ。――でも、フレイも他の人と一緒に居るなら、一人ではなくなるもの。それなら、フレイは寂しくないでしょう? ……本当に、よかった……」
――それは、心底フレイの身を案じ、そして自らが懸念する事態が避けられると分かったが故の、安心より生まれたもの。
未だ幼さが残るティリアが、確かに、フレイを思って告げた――優しい言葉。
「――」
ふと、フレイが無言で微笑んだ。
それは図らずしも、見上げて微笑むティリアと、見詰め合って微笑み合う儚い形。
ティリアの言葉が、自らを思うが故だと気付いたがために。
フレイも、そして主思いの従者たちも、誰一人として反論を告げることが出来なかった。
あるいは――長年あたり前に傍にいたからこそ、気付かない。
互いにはなれて他の男女といることが、〝婚約者〟としてあまりにも相応しくない状態で、あることに。
――そうして二人は、確実に違えた互いの日々を、送り始めることとなる……。




