すれ違う笑顔
長らくお待たせいたしました。
「今日もフレイは来られないの?」
「えぇ……残念ながら」
「そう……」
ティリアとライオッドが、王城庭園にて昼食を取ったその次の日。
昨日の約束どおり、今度はお茶会が開かれることとなった。
昨晩の夕食の時に、とても楽しかったことをフレイへと語ったティリアは、当然として今回は是非とも一緒に、とフレイを誘う。
しかし今日は、午前中が忙しかったティリアとは反対に、フレイは昨日よりは少し余裕があるものの、午後から忙しくなる。
ひっそりと初老の侍女エフェナと、フレイの侍女マイアが困った顔をする中、ティリアは小さく肩を落とした。
ティリアにとって、ライオッドとのひと時は、本当に楽しいものだった。
あの楽しさを、フレイにも感じて欲しい。
いつも自分を楽しませてくれるフレイに対し、ティリアはそう思っていたのだが、結果は芳しくない。
結局、昨日と同じくティリアとライオッドの二人で、お茶会をすることとなった。
「じゃあ行ってくるわ、フレイ」
「えぇ」
フレイが行けないと決まり落胆していたティリアだが、またライオッドと会えることは変わらない。
綺麗な水色の刺繍流れる青のドレスをひらりと揺らし、早速と廊下へと出たティリアは、フレイから見ても浮き足立っていた。
同じように廊下へと出たフレイが淡い微笑みを浮かべる。
それに、楽しみで仕方ないとばかりの笑顔を浮かべたティリアが、一度だけ振り返って笑いかけた。
「……行ってらっしゃい」
常と同じ穏やかな声音が、廊下に響く。
ただ、浮かべられた微笑みと同じように、その声はどこか寂しげだった。
廊下にてティリアと別れたフレイは、マイアと他の侍女たち、専属の近衛騎士と共に、色々と調べ物をするためにと、王城の中にある書室へと赴いた。
整然と立ち並ぶ本棚を一見し、本を見るより先にフレイが行うことは、この書室を預かる司書への挨拶。
ここへは、幼い頃より幾度となく足を運んでいるフレイだが、司書たちへのあいさつだけは、一度たりとも欠かしたことが無かった。
「こんにちは」
「これはこれは、フレイ様。こんにちは。どうぞ、ごゆっくり見て行って下さい」
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑んで言葉を交わすフレイに、司書も嬉しそうに頭を下げる。
そうして司書に見守られながら、フレイはいつものようにゆったりとした歩みで、本棚へと向かった。
いくつかの本棚を回り、数冊の本を腕に抱いたフレイは、次にと回り込んだ本棚の一角で、ふとその足を止める。
立ち止まった場所は、幼い子供向けの本が並べられた棚の前。
無言で移動した穏やかな深緑の瞳に映ったのは、一冊の本だった。
いまだ男性にしては細く色白の手が伸び、その本をそっと引き抜く。深緑の瞳が、懐かしげにそっと、細められた。
表紙に、炎球を纏う魔法使いの青年が描かれた本。大きく刻まれたタイトルは、【まほうつかいのぼうけん】。
――それは、幼い頃のフレイとティリアを繋ぐ、大切な一冊。
閉じられた瞳の奥で、フレイは懐かしい過去を思った。
それは、丁度魔法使いの主人公が、魔物と戦っている場面。
「あっ! やられてしまうわ!?」
焦って声を上げる幼き日のティリアに、幼き日のフレイは、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ティリア。……ほら、水の魔法がまもってくれました」
めくられた次のページの文字をなぞり、にこりと笑うフレイに、ティリアは満面の笑顔を浮かべる。
「まぁ! すごいわねフレイ!!」
「えぇ。でも、いろいろな魔法をつかうのは、本当はむずかしいそうです」
「そうなの? なら、このまほうつかいは、とってもつよいのね!!」
「そうですね。とても強いです」
「すごいすごいっ!!」
そう言ってはしゃぐティリアの笑顔は、いつでも、フレイにとって眩く輝いて見えた。
「――」
ふと開かれた瞳に、過去の思い出が仕舞われる。
再び本へと注がれた視線は、口元に浮かんだ淡い微笑みと同じように、懐かしさだけを宿しているわけではなかった。
――今も、フレイにとってティリアの笑顔は、明るく輝いている。
それは、決して変わってはいない。
変わっているのは……彼女の周囲、なのだ。
近日の舞踏会を思い出したフレイの脳裏に、鮮やかな金を宿した青年が浮かぶ。
ティリアは今も、その青年――ライオッドと共に、時を過ごしている。
……それはフレイに、もう、幼き頃のように、ティリアを笑顔にできる存在は自らだけでは無いことを、強く実感させた。
フレイは、ティリアと共に読書をする時間も無かった最近を思い返し、小さな苦笑を零す。
寄り添って行う読書の時間は、フレイとティリアにとって何よりも大切な時間だ。それが欠けている日々が、色付くわけがない。
無言で仕舞い込む思い出の本。その手には、確かな寂しさがあった。
フレイの傍で控えていたマイアと他の侍女たち、専属の近衛騎士が案じる中、フレイは穏やかに歩みを再会する。
そのまま司書のところへと向かったフレイは、腕に抱く数冊の本を借り、静かに書室を後にした。
歩調も、その歩みの穏やかさも変わらないフレイに、それでも彼の胸中を思い、マイアたちが心配そうに続く。
書室からフレイの自室までの、長い歩み。誰もが無言の廊下で響くのは、靴音だけ。
そうして幾らか進んだ時、唐突に右側の壁が切り取られた、開けた場所に出た。そこは、庭園への出入り口の一つ。
少しだけ進む速度を緩めたフレイが、すぐそばにも咲き誇る花々に、ふわりと微笑みを浮かべる。
常のフレイらしいその様子に、マイアが頬を緩めた――その時。
遠くから風にのって、少女の声が届いた。
「! ティリア?」
思わず立ち止まるフレイの言葉どおり、それはこの庭園の奥にいる、ティリアの声だった。
庭園の彼方へと向いた深緑の瞳が、温かな色を湛える。
しかし、風が届けるのは、なにもティリアの声だけでは無い。
次にその場に届いたのは、若い青年の声――ライオッドの声だった。
わずかな間、フレイが瞠目する。ハッとしたのは、マイアたちも同じだった。
思わずフレイへと振り返ったマイアが見たのは、かつて見慣れた、儚い達観の微笑み。
「っ、フレイ様っ」
衝動的に紡がれたマイアの言葉に、フレイは彼女へとふわりと微笑み直し、そしてくるりと背を向けた。
「――行きましょう」
「っ」
常と同じ穏やかな声音。そこに、確かに幼き日の声音に似たものを感じたマイアが、息を呑む。
しかし、マイアが再び言葉を発する前に、前に向き直っていたフレイが歩みを再開してしまった。
穏やかでありながらも、どこか足早なその歩調に、マイアのみならず、この八年間フレイに仕えてきた他の侍女たちや近衛騎士も、苦い表情でフレイの後を追って行く。
「…………」
再び無言で進む帰路の中、フレイは本をよりいっそう強く抱いた。
今一度思い返すのは、ライオッド・ディール・フィルハイドという人物のこと。
華やかな舞踏会の中、それでも尚鮮やかに見えた、その青年の姿。
誠実だと語られる、フィルハイド公爵家の次男。
ティリアが心を許す、数少ない者の、その内の一人。
ふと、フレイは天啓のように閃く。
自分は、侯爵家の人間だと。
そして、ライオッドは、公爵家の人間。
――侯爵よりも、公爵の方が、王女には釣り合うのでは無いか? ――と。
口元に浮かぶのは、小さな自嘲。
今更、我が身が一番にティリアへと釣り合う存在では無いことに、気付いた、と。
フレイは胸中で呟く。
――ならばこの先、僕はどうすればいいのでしょう?
――どういう立場で、姫様の傍に在ればいいのでしょう?
――姫様は……これから先、どうするのでしょう?
答えの無い問いかけが、浮かんでは積もって行く。
通い慣れた自室と書室との廊下が、今のフレイには酷く長く感じた。
ただ、腕に抱えた数冊の本の重みだけが、フレイの足を前へと動かす。
窓から差し込む眩い陽光が、明るい緑の長髪を、いたずらに鮮やかへと仕立て上げていた。
月が昇り、優しく地を照らす時間。
いつも通りティリアの部屋で始まった夕食の席で、ティリアはとても楽しそうに、フレイへと言葉を紡いでいた。
「それからね、どっちがお花の名前をたくさん知っているか、競ったの!」
「楽しそうですね。どちらが勝ったのですか?」
「もちろんわたしよ! でも、ライオッドも本当にたくさん知っていて、驚いたわ」
「フィルハイド公爵子息様も、花が好きなのでしょうか?」
「お母様がお好きだと言っていたわ。よく花瓶にかざるお花を、一緒に買いに行くのに、連れて行かれてしまうらしいの」
「それはそれは……。少し大変そうですね」
「そうなの! ライオッドも困った顔をして話していたわ!」
料理を口に運ぶのもそこそこに、ティリアは先ほどからずっと、こうして話を続けている。よほどライオッドとの一時が楽しかったのか、昨晩よりも饒舌に語るその姿に、初老の侍女エフェナは後方で苦笑を零していた。
対するフレイは、常の微笑みを浮かべながら、穏やかに相槌を打っている。
それは一見、いつものように、ティリアの話を楽しそうに聞いているように見えた。
――しかし、その姿を上辺だけで判断する従者は、二人に従う者たちの中にはいない。
今日一日の情報交換をすでに終わらせている侍女たちは、ティリアの侍女であってさえ、フレイの心境が決して穏やかでないことを見抜いていた。
フレイの侍女マイアが心配するのは当然のことだが、マイア以外の者たちも、十分フレイを心配している。その原因が、他ならぬティリアであるのだから、尚のこと心配にもなるというものだ。
侍女たちと近衛騎士は、この八年間、二人が仲良く寄り添って育ってきたことを知っている。
だからこそ、二人の心がすれ違っている現状に、酷く危機感を抱いていた。
――同時に、この危機感を抱いている者が、自分たちだけで無いことにも、気付いた。
「そうしたらね? いきなりライオッドが笑い出したの! ひどいと思わない?」
「おやおや。しかし、それなら私も笑ってしまうかもしれません」
「も、もぅ! フレイまで笑ってはだめよ!」
「えぇ、そうですね」
そうして、穏やかな笑い声を立てるフレイ。
けれどその楽しげな声は、全てが本心から零れるものでは無く。
フレイもまた、その楽しげな笑顔の裏に、確かな危機感を持っていた。
楽しげにライオッドのことを語るティリアの姿に、フレイは思う。
今のティリアの心には、誰が居るのか? と。
ライオッド? それとも自分?
そこに、自分は居るのだろうか? と。
幼い頃からずっと、苦も無く浮かべてきた微笑みが、今は意識しないと消えてしまう。
それはどうしてなのだろう? と。
ただ一つ、フレイは明確な感情を自身が抱いていることに、気付いていた。
――怖い。全ての問いに、ティリアの心に、答えがあることが。
何よりも、それを知ることが。
怖い、と。
フレイは、ただそう感じる。
すぐ目の前で、自らに笑顔を向けるティリアが、少しずつ離れていくような、感覚。
フレイは、無意識に膝の上の両手を、ぐっと握りしめた。
震えそうになる声と、消えそうになる微笑みを、必死でいつもどおりに収める。
本当に楽しかったのだろうティリアの話を止めさせることは、フレイの選択肢には無い。
――どんな時も、フレイの行動は、ティリアの為に成されてきたのだから。
束の間に成された不安を示すフレイの行為を、目敏く捉えたエフェナとマイア。
刹那に視線を交わした二人は一度、互いの主人を見つめ、そして再び視線を合わせた。
双方共に、表情は食事の時間に相応しい、やわらかなもの。
しかし、その瞳に宿るものは、やわらかくもなければ、穏やかでもなく。
エフェナの碧の瞳には、確信を秘めた悲痛な複雑さが。
マイアの茶色の瞳には、不安を秘めた悲哀の複雑さが。
互いの複雑な色を映し、よりいっそう揺らいで行く。
今日の情報交換の際、二人は互いに、こう紡いだ。
エフェナは、ティリアの心はライオッドに傾き始めている、と。
マイアは、フレイの心が、幼い頃のように、諦めを抱き始めている、と。
そしてそれは、二人だけの意見では留まらなかった。
互いの従者たちに見守られながら、フレイとティリアの夕食は続く。
そこに、何十もの重なり合う思いがあることを、知らないままに。
優しくも賢い従者たちは、願った。
できればこのまま何事も無く、この気高くも儚い二人の花舞台が見えますように……と。
誰よりも傍に在った者たちだからこそ、誰よりも二人の幸せを願う。
――例えそれが、叶いそうにない願いであったとしても。
全てを諦めていた少年と、全てを拒絶していた少女。
互いに手を取り合い、だからこそ互いに成長をしてきた二人。
幼い頃からずっと、同じ思いで互いへと向けられていた、その笑顔。
それはすでに、ゆっくりと。
別の思い、別の方向へと……移り始めていた。




