心の在り処
「ティリア姫。ライオッド様からお手紙が」
「まぁ! もう来たの?」
「……? なんの事ですか?」
華やかな舞踏会の翌日。少し遅めの朝食を終え、フレイとティリアがそろってティリアの自室にてくつろいでいた矢先。席を外していた初老の侍女エフェナが、戻ってくるなりティリアへと一通の手紙を手渡した。
喜ぶティリアが早速手紙を開く中、なぜ昨晩知り合ったばかりの者から手紙が来るのだろうと、フレイが不思議そうに尋ねる。それに、エフェナがそっと傍へ寄り、小声にて答えた。
「実は、今朝早くからティリア姫が、お会いしたいという旨の手紙をライオッド様へ送っておりまして……。昨日の今日で、ライオッド様もまだ城の客室にいらっしゃったようで、すぐにお返事を書かれたご様子で……」
「――ティリアが、フィルハイド公爵子息様と、会う約束を……?」
ぱちり、と瞬く深緑の瞳には、疑問とわずかな戸惑いが見て取れる。
それもそのはず。ティリアはフレイと出会った幼い頃から、他者と関わることに、決して積極的な娘ではなかった。勉学の時間でさえ、教師と一体一で接することを拒み、常にフレイが同席していたくらいなのだ。
その彼女が、手紙という形であるにせよ、自分から他者へと近づこうとしている。
唐突に舞い降りてきた事実に、フレイはただ静かに、揺れる瞳をティリアへと注いだ。
今日一日は、特に用事が無いと書かれていたライオッドの返事。それを読んだティリアは、ならば昼食を一緒にと願い出た。他ならぬ第二王女の願いである。それは当然として断られること無く、快い返事がすぐに送られてきた。
その時点で侍女たちを大いに悩ませた問題は、そのような会には必然的に加わるはずである婚約者のフレイが、今日に限って参加できないことであった。元々昼食を別々に食べる予定であった上、フレイは午後から用事があり、あまりゆっくりと食事が出来る状態ではなかったのだ。
結果、鮮やかな花咲く王城庭園にて、第二王女と公爵家次男の二人が、昼食をとる事となった。
徐々に雲を増し、白に染まって行く空の下。
色とりどりの花々が、そよ風にゆれる王城庭園は、実に美しい。
曇り空などものともしないその美しさは、他国の王族にも賛辞を受けるほどで、このフィンフィール王国の誇れる場所の一つであった。
その庭園の中でも、屋根のように広く空を覆う、蔦花の空間にて。
「お呼びいただき、光栄の極みに御座います、第二王女殿下」
訪れるなり、見事な最敬礼で以ってそう紡ぐライオッドに、ティリアが眩しそうに青の瞳を細める。
ライオッド・ディール・フィルハイド。
フィルハイド公爵家の次男にして、武に長ける美丈夫と有名な青年。
かと言って、武のみに傾倒するわけでもなく、知に長ける兄に次ぐ賢さをも持ち合わせ、家族の仕事を手伝っている。
社交界でも礼儀正しく真面目な人柄で知られ、しかし決して堅苦しいわけではなく、冗談も解する懐の広い人物として、彼と友好関係にある者は多い。
当然として令嬢たちからも、凛とした温厚な貴公子として、陰ながら大変な人気をほこっている。
事前に、自らの侍女一知識が豊富である、初老の侍女エフェナからそう聞いていたティリア。
彼女は、噂どおり礼儀正しく真面目な振る舞いを心がけている眼前の青年に、昨晩の所作をも思い返して加え、噂が確かに真実であることを確信する。
そうして安心したように微笑むと、その精悍な顔を上げたライオッドへと、一つゆるやかにうなずいてみせた。
「こちらこそ、急な願いを受けてくれてありがとう。……でも、王女殿下はやめてちょうだい? 名前で呼ばれることになれているから、緊張してしまうの」
「心得ました。――では、ティリア様、と」
「えぇ。そう呼んで、ライオッド」
穏やかな日陰の空間に満ちる、温かな雰囲気。頭上に咲く紫の花の影響か、そこには高貴さも見える。実際、その小さな机に向かいあって座った二人は、第二王女と公爵家の次男。王族と公爵家の者以外にとっては、まぎれもなく高貴な存在である。
当然として、机に並べられた料理も美味なものばかりで、加えてティリアの好物が多く含まれていた。
ライオッドに食事にと、密やかであっても忙しく瞳を輝かせるティリアに、彼女の後方で控えているエフェナが微笑む。
穏やかにして高貴なその空間にて、食事はすぐに開始された。
「! これは美味!」
「でしょう? わたしこれが大好きなの!」
始まった食事会は、ティリアにとってもライオッドにとっても、楽しいものとなった。
並ぶ食事をライオッドが賞賛すれば、ティリアが笑顔で同意する。移った視線の先で花々を見れば、ティリアが楽しそうに名前を教え、ライオッドもまた自らが知っているものを語って行く。
そうして食事も終わる頃、ふと表情を引き締めたライオッドが、それでも嬉しさを滲ませてティリアへと頭を下げた。
「昨晩は、ダンスの誘いを受けてくださって、ありがとうございました」
さらりと零れる金の髪に、思わずティリアが青の瞳を瞬かせる。次いで、昨晩の鮮やかなダンスを思い出し、ぱっと染まった頬に両手を当てながら、彼へと答えた。
「だ、ダンスの誘いを受けるのは、当然の礼儀でしょう? そんなに改まってお礼を言わなくても、いいのよ?」
困ったようでいて、どこか嬉しげにそう紡ぐティリア。後方に控えるエフェナが、そっと碧の瞳を細める中、顔を上げたライオッドが静かに首を横に振った。
それに小首を傾げたティリアへと、ライオッドは凛とした笑みを浮かべて、強く告げる。
「いいえ。ティリア様と躍れることが、いかに名誉なことか……私は、存じ上げておりますので」
「!」
ぱちり、と見開かれた青の瞳と、少しだけ細められた藍眼が、しばし交わる。
涼しげなそよ風が、長い白金の髪と、眩い金の髪とを揺らし――先に視線を外したのは、ティリアの方だった。
いまだ薄く頬を染め、軽くうつむいたティリアは、視線だけをそっとライオッドへと向けて、ぽつりと呟いた。
「……わたしの方こそ、ありがとう」
「は。――何の事でしょう?」
次は、ライオッドが驚く番であった。礼儀正しく応えたはいいものの、何についての礼か分からず、少しばかり困ったようにティリアへと尋ねる。その問いに、わずかに視線を彷徨わせるティリア。しかしその時間は決して長くはなく、次の瞬間には気品を宿して顔が上がる。
そこには、満面の笑みが、まさしく大輪のように咲き誇っていた。
ハッと魅入られたように瞠目するライオッド。
それに気付かないティリアは、実に、嬉しそうな声音で告げた。
「あなたとのダンス……とても、楽しかったから」
「っ」
美しき笑顔と、喜びの声音。
麗しく高貴にして、心優しく可愛らしい少女。
そのティリアの姿に、ライオッドは無意識に息を呑んだ。
「――光栄に、御座います」
努めて冷静に、うやうやしく頭を下げるライオッドの胸中は、決して穏やかではない。
第二王女殿下として抱いていた敬愛の中に、ふと生まれた、異なる思い。それがどのような感情であるのか、まだライオッドには分からなかった。
ただ、そっと上げた自らの顔が、熱を帯びている事だけはハッキリと感じ、そこから意識を外す為にと、横に咲く花々へと藍の視線を向ける。
その視線の意味を知らずに追ったティリアが、食事が終わり綺麗に片付けられた机をふと見直し、再度ライオッドの視線を追い、軽く両手で音を立てた。
ぽんと鳴った音に、何事かと振り返ったライオッドへと、ティリアが微笑んで提案する。
「ライオッド。少し庭をお散歩しましょ?」
「おお、是非とも」
その提案に爽やかに笑って、ライオッドが立ち上がる。ティリアもそれに倣い、自らに歩み寄るライオッドに右手を出しかけ、次いで慌てて左手を差し出した。
女性が男性の左側に並ぶのは、特別な関係の相手とだけ。
フレイとの癖でつい左側に並びかけたティリアは、左右の意味するところを思い出し、正しい並び方になるように訂正をしたのだ。ライオッドとは知り合ったばかりなのだから、当然として彼女は、彼の右側に並ぶ。
ライオッドもそれを当然として受けとめ、右の腕に手を添えたティリアをそっと導き、庭園を進み始めた。
赤、青、黄、白……鮮やかな彩を揺らして魅せる花々の中を、二人はゆっくりと歩んで行く。
白金と金の髪が揺れる様。青と藍の瞳が交わる様。そして、互いに微笑み合う様。
どの姿を切り取ったとしても、文句を付けられるものなど居はしないと、後方でつき従う侍女たちが、そう思えるほどに。
ティリアとライオッドが並び歩むその様は、麗しく肯定されるべきものだった。
「本当に、この庭園は美しいですな」
辺りの花々を見回し、しみじみとライオッドが紡ぐ。ティリアはそれに、楽しそうに笑って返しながら、足元の花へと視線を注いだ。
「ふふっ。でしょう? お義母様――王妃殿下も、いくつかの種類をこの庭に植えていらっしゃるの」
以前王妃と共にこの庭園へと来た時、王妃が楽しそうに話してくれたことを思い出して語るティリアに、ライオッドが驚きの声を上げた。
「なんと! どの花でしょう?」
「えっと……あ! あそこよ!」
くるりと地面を見回したライオッドに、同じように花々を見回したティリアが指で示す。
そこには、王妃の瞳とよく似た黄緑色の双葉を広げる、綺麗な白い花が咲いていた。
「近くで見ましょう?」
「ええ」
早速と足を進ませるティリアに対し、上手く導けるようにと少し大きく足を踏み出したライオッド。
結果的に、それは良い選択となった。
「きゃ!」
「姫!?」
「!?」
ティリアの短い悲鳴と、ライオッドの焦った声、それに侍女たちの無言の驚愕。
それらが上がった理由は単純で、ティリアが足元に這う蔦に気付かず、踏み出した足を引っ掛けてしまったに過ぎなかった。
――しかし、仮にも一国の姫。怪我などしたら大惨事と、ティリアの一番近くにいた侍女が走り出し支えようと手を伸ばしかけ……その手はすぐに引き戻された。
「姫、お怪我は!?」
「だ、大丈夫よ! 大丈夫!」
危うく地面へと吸い込まれそうになったティリアは、半身ほど前に出ていたライオッドによって、彼の腕の中へとしっかり抱き込まれ、ことなきを得ていたのだ。
「ご無事で何よりです」
「あ、ありがとう、ライオッド」
ほっと一息ついて腕から解放するライオッドに、赤くなりながらも素直にお礼を言うティリア。
しかし次いで上がったのは、ハッとした表情を浮かべたライオッドの、慌てた声だった。
「あ、申し訳ありません! つい、姫とお呼びしてしまいました……」
そう言って、すぐさま跪き頭を垂れる、ライオッド。
名前で呼んで欲しい――そう言ったティリアの言葉を、とっさの事とはいえ守らなかったが故の謝罪。
誠実な彼らしい姿に、くすり、とティリアが笑みを零し、そして再び思い浮かんだ彼の印象を告げた。
「ふふっ、いいの。――ライオッドは、本当に、物語の騎士のようね」
そのやわらかな声音に、思わず呆けて顔を上げるライオッド。彼の藍眼に映ったのは、自らを見下ろしているというのに、眩しそうに青の瞳を細めたティリアの姿。
「は……確かに、魔法より剣が得意ではありますが……騎士達ほど卓越してはおりませんゆえ……」
いささか戸惑ったような、はたまた照れたような表情でそう語るライオッドに、ティリアは楽しそうににこりと微笑んだ。
――と、いまだ跪いたままティリアを見上げていたライオッドの頬をかすめる、一粒の水滴。
「! これは」
素早く立ち上がり空を見上げた藍眼が、灰色に染まる曇天を映した。
「どうしたの?」
ライオッドの突然の行動に、不思議そうに小首を傾げるティリア。反面、すぐにライオッドの意図に気付いた初老の侍女エフェナが、他の侍女たちへ無駄なく指示を飛ばした。
「すぐに廊下までの道を確保して頂戴。雨が来ます」
エフェナと侍女たちに導かれ、ティリアとライオッドが丁度、庭園に接する開けた廊下へと戻った時。風と雫が急に勢いを増して、大粒の雨が降り始めた。
「すごい雨ね……花びらが散らなければいいのだけど……」
激しい音をすぐ傍で立てる大雨に、ゆらゆらと頼りなく揺れる花々を心配するティリア。そんなティリアの心優しい一面に、頬を緩めたライオッドが声をかけようと口を開きかけ、ふともう一度紡がれたティリアの声に無言で閉ざされる。
「でも、今日はとっても楽しかったわ」
そう言ってくるりと振り返り、満面の笑顔を咲かせるティリアに、ライオッドは反射的に顔を赤らめつつ、私も、と告げた。
「私も、とても素晴らしい時間を頂きました。感謝致します、ティリア様」
深々と腰をおっての最敬礼には、言葉どおりの感謝の念と、熱を帯びる顔を隠す、二重の意味が含まれている。
ただ、それを知らないティリアは、純粋な願いで次を紡いだ。
「明日も……会えないかしら?」
少しだけ寂しそうな声音と、表情。
バッと顔を上げたライオッドのみならず、その場にいた全員が思わず瞠目して、一拍の沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのはやはり、嬉しげに微笑んでうなずいた、ライオッドだった。
「――私で良ければ、喜んで」
「本当!? うれしい!」
叶った希望に、飛び跳ねんばかりに喜ぶティリア。
そうして互いに、気恥ずかしくも嬉しそうに、微笑み合う二人。
それは、二人の容姿をより美しく彩り、侍女たちの瞳に映った。
――ただ、多くの侍女たちが二人に見惚れる中。
初老の侍女エフェナだけは、その場からわずかに離れた位置で、少しだけ困ったように眉を寄せていた。
まっすぐにティリアを見ていた碧の瞳が、一瞬だけ雨空へと向けられ、そして小さな言葉が零される。
「……フレイ様……」
誰にも聞かれることなく、風に流され消えたその名。
長く王城に勤めてきたエフェナが、ティリアと同じようにずっと見て来た、もう一人の主人のように思う彼。
エフェナの心は、誰もが笑い合う眼前の光景には無く。
ただ誰よりも優しい青年の、見慣れた優しい微笑みを思い浮かべ――。
彼女だけはそっと、表情を引き締めたのだった。




