欠けた記憶
文句はない、と否定はしたものの、やはり腑に落ちないというか信じがたい。
誰もが一度は憧れたであろう存在、勇者。
公明正大で、慈悲深くて、運命付けられた使命と生まれ持った篤い正義で悪との戦いに身を投じて。
たくさんの困難とたくさんの試練を乗り越え、たくさんの悲劇とたくさんの絶望に終止符を打たんと、頼もしい仲間たちと共に悪の元凶へ挑んで。
いかにも特別な神に選ばれし存在。
――その"勇者"が、この人……?
バキボキとクレナが骨を鳴らす音に希美ははっと我に返る。
「目は口ほどに物を言い……って言葉ぐらい知ってるよな?」
「ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
勇者には到底見えない、見えるとすれば魔王のクレナに希美は顔を青くして慌てて謝る。
「もー、脅さない! クレナがそんなんだから怯えちゃってるの。えーと……そういえば、互いにちゃんと自己紹介してなかったね」
「あ……」
名前を呼ぼうとして名前を聞いていなかった事に気付いたホロが言った。
希美も自己紹介をしていなかったという失礼に自分から気付けなかった事に内心落ち込んだ。
気付けたとしても、自分から言えるかどうかは怪しいが。
ホロは軽く身だしなみを整えて、こほんと一つ咳払いをした。
「改めまして、僕はホロ。このツァラトゥストラ書院の館長をやってるよ」
ちなみにここは館長室だよ、と言うホロの言葉に思わず希美は辺りを見回した。
本が所狭しと積み重なり散乱している上に出入り口は見当たらない、言われるまで館長室なのか何なのか全く分かずにいたのだ。
「それから、今まで見てた通り、魔法が得意なんだ」
そう言って軽く人差し指を振ると、床に散乱した本が独りでに浮かび、空中を浮遊し始めた。
希美は不思議そうにその本を眺め、森と図書館を繋げた裂け目や、空中で静止し独りでにタワーを築いた本の事を思い出した。
やっぱり魔法だったのか、と納得する。
「得意ってレベルじゃねぇと思うけどな……」
「何か言ったかな、クレナくん」
「べっつにー?」
「そう。で、こっちが――」
「……クレナハーツだ」
やれやれ言いたげな表情でクレナ改めクレナハーツが言った。
「……え、それだけ? もっとこう……勇者でーす、とか、僕と幼馴染みでーす、とか言えばいいのに」
「別に言わなくてもいーだろ、めんどくせぇ」
不機嫌に眉を寄せるクレナハーツ。
「……それに、勇者とか正直どーでもいいし」
ぽつりと呟いた言葉は希美にまでは聞こえなかったが、それを聞いたホロはそれ以上クレナハーツの自己紹介を茶化す事をやめた。
「それじゃあ、君の名前は?」
代わりに希美へ問い掛ける。
「えぇ、っと……の、のぞみ、です。五十嵐、希美、です」
「ノゾミちゃん、か。可愛い名前だね」
「か……っ!? か、かわ、かわいくなんてないです! むしろ、名前に負けて、ますし……私、こんなん、ですし……」
希美は顔を一気に赤くして勢いよく反論したものの、段々とネガティブ思考が頭をもたげ、言葉の勢いは失せて声色は落ち込んだ。
「ところで、ノゾミちゃんはこの世界に来る前のことって覚えてる?」
「えっと……えっと……た、確か、買い物に、出掛けて……出掛けて……?」
希美は必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
今日は日曜日だったので昼近くに百貨店へ行き、そこで昼食をとり、アクセサリー店を見て回り、買いたかったペアの指輪が買えたので帰路についた。
――あれ、それから私、どうしたんだっけ?
記憶の糸が帰路についた後からプツンと途切れて、それから先の事がどうしても思い出せない。
なんとか思い出そうと途切れた記憶の糸を探すも、見つけたのはロウロの森と呼ばれるあの森で外套の男に殺されかけた時からの記憶だけ。
その間にあったハズの記憶の糸が、どこにも無かった。
「大丈夫? 何があったの?」
「その……えっと……出掛けて、買い物をした、あたりまで、は、覚えて、るんですが……それから先が、思い、出せなくて……その、ごめんなさい」
「そっか……となると、なんで天啓に殺されかけてたのかも分からない、ってことかな」
「はい……」
何故見知らぬ世界に来たのかも、何故殺されかけていたのかも、分からない。
希美は不安と恐怖に押し潰されそうだった。
小刻みに肩が震える。
ぎゅっと服の裾を掴み、震えを抑えようと試みた。
その時、希美の頭に手が乗せられた。
撫でる事もせずただ乗せられただけのその大きなその手は暖かく、不思議な安心感を与えてくれる。
その手を辿って持ち主の方に視線を向けると、それは意外にもクレナハーツだった。
きょとんとクレナハーツを見つめる希美は顔ごと彼の方へ向けようとしたが、頭に乗せられたクレナハーツの手によって顔の向きを無理矢理戻されてしまった。
「うーん……、異世界人はよく不思議な力を持ってるから、天啓はそれを狙ったのかもしれないけど、殺さなきゃならない理由にはならないだろうし……天啓が狙うような不思議な力をノゾミちゃんが持ってるようには見えないし……だとすると――」
ぶつぶつと呟きながら思考を展開するホロ。
「――"災禍"復活の為の生贄、ってところかな」
呟かれた物騒な結論に希美はただ顔を青くさせた。