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ネガティブ戦線  作者: 楽夢智
間章 「きっとまた会える」と君は泣いた
59/60

彼女の世界は嘘で出来ている 後

ツァラトゥストラ書院の開けっ放しの玄関から中へ踏み込むと同時に、紙とインクと、それから古い本特有の匂いがアレスティーナの鼻腔をくすぐる。

入ってすぐの吹き抜けとなっている円状に開けた玄関ホールから放射状に本棚が整然と並べられており、天井から吊り下げられた木製の看板に『薬草学』『魔法学』といった文字が書かれている。

最上階まで見上げても、どの階にも一階と同じように吹き抜けから放射状に本棚が並べられている様は圧巻だ。

カルディア城にある書庫とは比べ物にならない程の蔵書量にアレスティーナの胸が高鳴る。

彼女は本、というより『新しいもの』や『未知のもの』が好きだ。

これだけの本があれば、どれだけ新しい知識や発見を得られるのだろうかと考えるとわくわくする。

アレスティーナはスキップをしそうになるのを、自分は今はしがない平民だ、目立つ事をしてはいけないと抑えて、看板を頼りに目当てのジャンルの列を探し始めた。

一階は最も利用者が多いのだろう薬草や魔法、精霊術といったジャンルが揃えられている。残念ながら彼女のお目当てのものではないので別の階を探す事にした。

司書に訊いた方が早いのかもしれないが、自分の足で探し出すからこそ見つけた時の喜びもひとしおだ。

それに何処に窓や扉があって、何処が死角になりやすいか、何処が隠れる際に適しているか、最短で安全な逃走経路はどれか、そういったこの図書館の造りを頭に入れておく必要がある。これは初めて行く場所や初めて通る道での癖だ。悪戯や悪ふざけをした後の説教から逃げる際にも有利になるし、暗殺者に狙われたり予想外の事件や事故に巻き込まれた際にも役立つ。

二階は剣術や戦術の指南書といった武道関連の本が、三階には経営術やコミュニケーションについて書かれた起業者向けの帝王学の本が揃っていた。

勉学の為にこの図書館を訪れたならば一階から三階が最適なのだろうが、アレスティーナの目的は精霊学でも武道関連でも帝王学でもない。その手の本ならばカルディア城の書庫だけで充分だ。

後で一応覗いてみるとして、アレスティーナは更に上を目指した。

「あった……!」

低層階には疎らに居た利用客がほとんど見当たらないちょっと埃っぽくて薄暗い最上階で、ようやくアレスティーナは目当てのジャンルを見つけて喜ぶ。

天井から吊り下がった看板には『異世界文献』と書かれている。看板はその一つだけしか見当たらないので、恐らく最上階に置かれている本は全て異世界文献、異世界の書物なのだろう。


アレスティーナが好きな新しいものの中でも『異世界』は別格だ。


自分の住む世界にだけ目を向けていては絶対に気付く事の出来ない発見。異世界それぞれの環境や歴史から独自に発展していった文明。この世界とは全く異なるけれどどこか似通ったそれらは未知への好奇心を掻き立てる。

カルディア城の書庫にほんの数冊だけあった異世界文献は魔法や歴史について書かれたもののみだったが、アレスティーナの興味を引くには充分過ぎる内容だった。

書庫に籠って勉学に励んでいるフリをして異世界文献を読み耽っていたのも良い思い出だ。

――異世界のことを勉強してるだけだから、ウソはついてないもんね。

早速手近な本棚から適当に一冊選ぶ。

この本の中には一体どんな未知と発見で溢れているのだろうかと期待に震える手で本を開いた。

そして、予想だにしなかった事態にアレスティーナは固まる。


――よ、読めない……!


本には今まで見た事もない文字が書き連ねられていた。エステルダストで使われている共通語でもなければ古代語でもない、エルフやドワーフといった人間以外の種族が各々用いている種族語でもない。

どこの世界のものかも分からない異世界の文字で書かれている。

未知と発見を期待してはいたけれど、こんな形の未知は求めていない。

――ボクが読んでたのって、ちゃんとホンヤクされてたやつだったんだ……。

異世界文献の多くは異世界人や異世界を渡航する術を持っていたと実しやかに伝えられている種族が持ち込んだ貴重な資料で、当然の如く異世界の文字で書かれている。

膨大にあるとされる異世界の千差万別な文字の翻訳はそう易々と出来るものではなく、未翻訳の本の文字を使っていた異世界人に依頼する以外の方法は未だにない。

アレスティーナはしばらくミミズが這った様な文字と睨み合い、けれど睨み合ったところで読めるようになる訳もなく、がっくりと肩を落とした。

何故異世界文献が最上階に置かれているのか不思議だったが、大半の人には読めないからだったようだ。読めないが世界に二つとない貴重なものだから、ほとんど利用客の来ない最上階に保管されているのだろう。

渋々本を元の場所に戻す。先程までは浮ついていて気付けなかったが、背表紙に書かれた題名も異世界の文字で書かれていた。本棚にきっちりと並べられた他の本もざっと背表紙だけ確認してみるも、やはり読める文字ではない。

だが、まだ何百何千とある本棚の内の一つを見ただけだ。これだけ膨大にあるのだから翻訳済みの本の一冊や二冊や三冊ぐらいあるだろう。


――アレスティーナちゃんはあきらめ悪いんだからね! かくごしろ、つぁら……つぁ……なんとか書院め!


気合を入れ、整然と立ち並ぶ本棚に置かれた本の背表紙を一冊一冊確認していく。

丸っこい文字に角張った文字、どこまでが一文字なのか判断がつかないような蛇行しながら一直線に繋がった文字、と本それぞれで特徴が違うのだなと感心する。

感心はするが、彼女の欲する発見ではない。それでも細かな箇所に関心を持たないと心が折れそうだ。

一列目を見終えたけれど、とうとう翻訳済みの本は見つからなかった。

落胆しそうになるアレスティーナは、まだ一列目しか見終えていないのだから諦めるのは早過ぎると自分を励まして、今見てきた本棚と背中合わせに並べられた本棚を見てみようとトボトボと回り込む。

一列目と変わらない、ずらりと並んだ本の詰まった本棚を見ても、最初の頃の様に胸は高鳴らないどころか胸焼けを覚える。


唯一一列目と違うのは、本棚に凭れかかり大きめで重そうな本を膝で抱えるようにして座り、読み耽っている少年が居る事だ。


――あ、人いたんだ。ボク、変なこと言ってなかったよね……騒いでなかったよね……。

まさか人が居るとは思わず先程までの自分の行動や言動を省みた。

これ以上変な挙動をして怪しまれないよう本を探している風を装うが、どうしても気になってしまい横目でちらちらと少年を見る。

肩辺りまで伸びた濃紺の髪は部屋の薄暗さも相まって、陰鬱な雰囲気を醸し出している。翠玉の様な目はただ手元の本に書き連ねられた文字を追っており、アレスティーナの存在など気にも留めていないようだ。

そこではたと気付いた。少年がここで読んでいる本は恐らく異世界文献が纏められたこの階のもので、読んでいるという事は読める文字で書かれているという事だ。果てのない探索に光明が差した。

――やっぱりホンヤクされてる本はあるんだよ!

この少年が読み終えたら自分も読ませてもらおうかなと考える。けれど、どんな本を読んでいるのか気になってしまうので、視線は本棚に向けたままそっと横に歩いて少年の傍まで近寄り、今少年が開いているページの内容をこっそりと伺う。

そこに見慣れた文字の羅列はなく、文字なのか図形なのか判断に困る様な、アレスティーナには読めない文字で埋め尽くされていた。


「ね、ねえ、キミ! この文字、読めるの!? 読めるの!?」


アレスティーナはしゃがんで少年に詰め寄った。

少年は突然声を掛けられて肩を跳ねらせると、怪訝と困惑に満ちた顔をアレスティーナに向ける。

「よ、読める、けど……誰?」

「スゴイ……! スゴイ、スゴイ、スッゴイよ! キミってもしかして異世界人なの!? どんな世界から来たの!? これってなんて書いてあるの!? どんな内容なの!?」

目を爛々と輝かせて矢継ぎ早に訊ねるアレスティーナに少年は若干引いている。

「えぇっと、僕は異世界人じゃなくってね、魔法で――」

「え、異世界人じゃないの!? じゃあなんでこの文字が読めるの!? っていうかこれって文字なの!? 図形とか記号とかにしか見えないよ!? なんて書いてあるの!? ねえ、なんて書いてあるの!?」

「いや、あの、だから、僕の話聞いて……」

「コラッ!! 図書館では静かにしなさいっ!!」

階段の下から司書の怒鳴り声が響いた。

知らず知らずの内に声が大きくなってしまっていたらしい。

「ご、ごめんなさい!」

アレスティーナは慌てて謝り、気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「あはは……怒られちゃった。ごめんね?」

ようやく静かになってくれた事に少年はほっと胸を撫で下ろす。


「それで、それで、今キミが読んでる本は、どこの世界のものなの? どんなことが書いてあるの?」

「えっと、どこの世界のものかは分からないけど、一人でドラゴンを倒した旅人の冒険譚だよ」

「ぼうけんたん!? それって本当にあったことなの!?」


身を乗り出して訊ねるアレスティーナに気圧されて少年は体を仰け反らせる。

「そこまでは分からないよ。史実かもしれないし、御伽噺かもしれないし……その辺りの記述はなかったから」

異世界の冒険譚、今まで読んだ事のない本だ。

カルディア城の書庫にある異世界文献は簡潔な年代表が書かれた歴史書数冊に、魔法の理論や種類が書かれた魔道書数冊だけ。その上異世界文献以外でも何の知識にもならない、娯楽でしかない冒険譚は城の書庫に無い。仲の良い騎士団員や魔道兵団員が持っている本を借りるぐらいでしか読む事はなかった。時々アレスティーナが使う何処の方言かも分からない言葉遣いの大半は、その借りた本から影響を受けている。

冒険譚、しかも異世界のもの、これは読まずにはいられない。

「ね、ね、読み終わったら、ボクに貸して!」

「え、君、読めるの?」

「…………あ、読めないんだった」

根本的な問題をすっかり忘れていた。

「……ホンヤクずみの本ってあるかな?」

「うーんと……翻訳された本は、同じ種類のエステルダストの本とまとめられてるから、別のところを探したがいいんじゃないかな」

「ぼうけんたんはあるかな!?」

「魔道書とか、歴史書ぐらいしか見たことないよ」

「そんなぁー……」

アレスティーナはがっくりと項垂れる。

魔道書も歴史書も面白くはあるのだが、城の書庫にあったものを読み込み過ぎてしまったので改めて読みたいとはなかなか思えない。それに今はそれ以上に興味を引かれる冒険譚が読みたくて仕方ないのだ。

だが、読めないものはどうしようもない。宣言通り真面目に勉強をしろという啓示なのだろうか。


「……読んであげよっか?」


見兼ねた少年の提案にアレスティーナは勢いよく顔を上げる。

「ホントに!?」

「う、うん……全部読むのは疲れるから、掻い摘んででも良かったらだけど」

「ぜんっぜん気にしないよ! ありがとー!」

感極まって勢いよく抱き付くと、少年は抱き止めきれずに凭れかかっていた本棚に後頭部を強打した。

「ご、ごめんね、ごめんね!? だいじょうぶ!?」

小さく呻き、打ちつけた頭を押さえて痛みに肩を震わせる少年。

つい、いつも騎士団員や魔道兵団員にするのと同じように力加減など考えず飛び付いてしまった。助走を付けて思い切り体当たりしても微動だにしない位には鍛え上げている団員らと、見るからに貧弱そうな自分と同年代ぐらいの少年とでは力の差は歴然だというのに。

「あ、そ、そうだ! 精霊術! えっと、えーっと」

「だ、大丈夫だから、少し大人しくしようね? あと、もう少し静かにね?」

慌てて精霊に傷を治すようお願いしようとするアレスティーナを少年が落ち着かせる。まだ痛そうに頭を擦っているが血は出ていないようだ。

「でも、でも、いたいよね? いたいよね?」

「この位なら魔法で治せるから気にしないで。とにかく落ち着こう? ね? また怒られちゃうよ?」

これ以上迷惑を掛ける訳にはいかないとアレスティーナは慌てて両手で口を塞ぐ。

大丈夫だという言葉に精霊達が騒がないところを見ると、少年は嘘をついていないらしい。それでも心配になるが、これ以上自分が騒ぎ立ててもまた司書に怒られてしまうだけなので、少年の言う通り少し落ち着く事にする。

やっと落ち着きを取り戻しつつあるアレスティーナに少年は安堵の息をつくと、取り落してしまっていた先程まで読んでいた本を拾い上げて表紙の汚れを軽く払う。

そして最初のページを開き膝に抱えるようにして本棚に凭れかかるとアレスティーナを手招きする。

アレスティーナはパッと顔を明るくして少年の隣に座り、彼が広げた本を覗き込んだ。

摩訶不思議な異世界の文字の洪水に思わず顔を顰める。小さくだが、旅人が精霊のような存在から剣を授かる様子を描いた挿絵があったのでそちらを見ておく事にして、少年の口から紡がれる異世界の冒険譚に耳を澄ませた。


「昔々あるところに、あてのない旅を続ける一人の旅人がいました」


何の目的もなく流浪の旅を続けていたしがない一人の旅人が、偶然出会った精霊から「邪竜を倒す勇気を持つ者に渡して欲しい」と剣を預かった事から物語は動き出す。

険しい山の上に築かれた国、豊かな緑と鮮やかな花々に彩られた国、四方を海に囲まれた小さな国、雪に覆われた極寒の国、砂漠の中のオアシスに栄えた国、環境も景観も人の暮らし方も様々な国々にアレスティーナは目を輝かせる。

異世界ではどんな花が咲くのだろうか。天にも届きそうな程の高い山があったりするのだろうか。雪はエステルダストと同じで白いのだろうか、海も青いのだろうか。その世界の果てまで見通せそうな程の地平線を砂漠では見る事が出来るのだろうか。

少年が紡ぐ物語を聴いて、まだ見ぬ異世界の景色を思い浮かべた。

旅人は自由にその素敵な世界を練り歩く。

お祭りを楽しんだり、温かな料理に舌鼓を打ったり、時には諍いに巻き込まれたり、絶体絶命のピンチに陥ったり、一筋縄ではいかない旅路がこれまた面白い。

エステルダストにあるお祭りとか料理とかは何があったかなとアレスティーナは考えて、沢山知ってはいるけれど何一つこの旅人の様に一喜一憂して体験したものではない事に気付いた。

料理なんて毒が盛られていなければ何だって食べているから、どれが自分の好きな物でどれが美味しいと思えるか考えたり感じたりする暇がない。平民たちが催すお祭りだって憧れはするけれど、人混みの中では暗殺者から逃げ辛い。社交パーティーなら幾度も経験しているが、ドロドロとした陰謀や策略が渦巻いていて、精霊達が生き生きと噂話に興じていても自分は気持ち悪くてとても楽しめない。


――いいなぁ……旅人……。


物語の中で世界中を自由に旅する旅人が心の底から羨ましい。

何のしがらみもない旅人に比べて、カルディア国第一王女の自分にはあまりにもしがらみが多過ぎる。

旅人が立ち寄った山の国も、花の国も、海の国も、雪の国も、砂の国も、戦火で焼き尽くし大勢の犠牲を払い統治していったのがカルディア国だ。まるで精霊が旅人に語った邪竜そのものではないか。

カルディア国の王女として生まれなければ、自分も旅人になれたのだろうか。


「そこで旅人は決意しました。邪竜を倒す勇気を持つ者が見つからないのならば、自分が邪竜を倒してしまおうではないか、と」


旅人の旅が終わりへと近付いていく。

この旅が終わったら旅人はどうするのだろう。

邪竜を倒した英雄として何処かの国で名誉ある地位を授けられるのだろうか。領地を得てそこに永住するのだろうか。またあてのない旅を始めるのだろうか。それとも、邪竜に負けてそこで旅を終えてしまうのだろうか。

どんな結末を迎えるのも旅人の自由なのだろう。しがらみも期待も背負うべきものも旅人が自由に取捨選択して、旅人の思う結末を選ぶ事が出来る。自分にはとても真似出来ない。


「大地を揺るがす程の激闘の末に、遂に旅人は邪竜を討ち果たし、旅人の名は英雄として語り継がれていったのでした……こんな感じのお話だよ」


本を閉じる音と共にアレスティーナはどこまでも広がる異世界からツァラトゥストラ書院へ戻ってきた。

――終わっちゃった……。

どれだけ旅人と一緒に異世界の景色を見て回っても、本を閉じてしまえば旅人も異世界の景色も夢幻として消えてしまう。夢幻から現実へと切り替わるこの瞬間が物悲しくて息苦しい。

「……大丈夫? 具合悪いの?」

先程までとは打って変わって静かなアレスティーナに少年が心配を口にする。

「う、ううん! ちがうよ! すっごくおもしろかったから、感動してただけ!」

慌てて取り繕い笑顔を浮かべた。精霊が『嘘つき』と言ったのを聞こえないフリをする。

「ね、ね! ほかにも読んでよ! キミがオススメの本とか!」

「えぇ……時間は大丈夫なの?」

そう言われて窓の外を見ると空は茜色に染まっていた。

もうカルディア城へ戻らないと帰り着く頃には真っ暗になってしまう。

城に戻ったら、お忍び計画の完遂を父と協力してくれた騎士団員に報告して、夕御飯は毒が盛られているものを避けて食べて、精霊達が噂する家臣らの陰謀や策略に耳を澄ませて、能天気で明るい王女様のフリをして。考えただけで疲れるが、自分の代わりに王女様をしてくれる人など誰も居ないのだから仕方ない。

ただ、今はまだ、名前も知らない少年に本を読んでとせがむ普通の子供で居たいと思ってしまう。


「ねえ、キミっていつもここで本読んでるの?」

「え? そうだけど……」

「じゃあさ! 次会えたら、また異世界の本を読んでもらえないかな!」


まだまだ異世界の事を聞き足りない。それに、また普通の子供で居られる時間が欲しかった。迷惑なのは百も承知だ。

少年はあからさまに嫌そうな顔をする。

「僕、歴史書とか魔道書とかも読むんだけど」

「異世界の本ならボクはなんでもいいよ!」

「たまに異世界の魔法とかも試したいし」

「異世界の魔法!? 見たい、見たい!」

「でも、怪我とかしたら危ないから」

「ボク、精霊術使えるからへーきだよ! キミがケガした時もなおせるよ!」

少年がどうにか断ろうとするが、絶好の機会をみすみす逃してなるものかとアレスティーナは引き下がらない。

とうとう少年の方が折れた。

「わかったよ……けど、僕が読みたい本を読むから文句は言わないでね」

「もんくなんて言わないよ! ありがとー!」

アレスティーナは少年の手を両手でぎゅっと握る。

「あ、そうだ! まだ名前言ってなかったね! ボクは――」

名前を言おうとしてハッとする。本名を名乗ってしまったら自分は普通の子供では居られなくなってしまう。心苦しいが偽名を名乗らなければならない。

「ボクはアレス。アレス・カールだよ! キミは?」

少年は言う。


「僕は、ホロ。ホロ・シュヴァルツ」


■□■□


――どっかで聞いたよーな名前だなーって思ってたけど……やっぱり、あの時のホロホロだよね。

王女だった頃の思い出を振り返っていたカルディア国王アレスティーナは、クローゼットに詰められたお気に入りのドレスを掻き分けながら考える。


魔王と呼ばれる存在が現れて以来、人が足を踏み入れない様な地でしか生息していなかった魔物が郊外の村付近で目撃され始めている。最近ではロウロの森にまでも現れたと聞いた。

可能な限り騎士団と魔道兵団を派遣して村や町の警備を強化している為、今のところ死傷者の報告は無い。けれどもしこのまま魔物の侵攻が続き魔物の中でも最強の種族と言われるドラゴンまでもが現れたら、今の兵力で勝てるかどうか怪しいところだ。

充分な戦力がある内に魔王を討つべきだとの進言があったが、村や町の警備を疎かには出来ない。

それならば他国に救援か協力を仰ぐのはどうだろうかとの進言もあったが、他国も例外なく魔物の被害に頭を悩ませており魔王討伐に割ける兵力はほとんど残っていないだろう。もし兵力が残っている国があったとしたら、それは魔王討伐を狙っているのではなく疲弊した他国、特に広い領土と潤沢な資源を持つカルディア国を狙っている。

いっその事ギルドへ大々的に御触れを出したらどうかとの進言もあったが、横行している非公認ギルドを認める事になりかねない。それに魔物の被害が増えればギルドに届く依頼が増える。今が稼ぎ時という時に、その稼ぎ時を作り出している魔王を討つギルドが居るとは思えない。

画期的な打開策は出ず、状況だけが日に日に悪化していく中、どんな些細な情報でもいいから教えてほしいとお願いしていた精霊から『凶暴な魔物をたった三人で倒している、兵士でもなくてギルドにも所属していない人達が居る』と教えられた。

藁にも縋る思いでカルディア城に呼んだその三人の中に、昔ツァラトゥストラ書院で異世界の本を読み聞かせてくれたホロ・シュヴァルツの姿があった。

背は随分と伸びて、声は低くなって、昔感じた陰鬱な雰囲気は無くなっていたが、間違いなく本を読んでくれたホロだと確信した。

ホロがアレスティーナの事を憶えているかは分からないが、そもそもホロに異世界の本を読んでとせがんでいたのは"アレス・カール"という平民の子供で、出会って一カ月にも満たない位の頃にホロは親の都合で辺境の村へと移住してしまった。憶えている方が珍しいだろう。


――……ホントに、大丈夫……なわけないか。


クレナハーツとミーリィテスとホロ、そしてロラン騎士団長が加わった勇者一行は今朝出立した。

もう何名か、いっそ騎士団と魔道兵団全軍動かしてもいいと何度も言ったが、ロランには子供を相手にするかのように小言付きで諭され、アーニャ魔道兵団長には馬鹿かと呆れられ、クレナハーツらにはそこまでしなくてもと若干引かれた。

実際には実現不可能な提案だったので、断ってもらえてこれで積極的に国の防衛へ兵力を割けると安心した。


四人を犠牲にして国を守ろうとする自分が、かつて母と自分を犠牲に王族の品格を守ろうとした家臣らと重なって、憂鬱で仕方ない。


そんな家臣らはカルディア国王がアレスティーナの代へとなる前、彼女の父が組織を一新した際に全員が解雇されている。

当時の魔道兵団長が亡くなった事もあっての組織の刷新だったが、アレスティーナの命を執拗に狙っていた主犯格の家臣らが全員解雇されていたのは果たして偶然だったのか。食事に毒を盛られる事も、暗殺者に襲われる事も、その日を境にぱったりと無くなったのは何故なのか。逆恨みされるだろうと踏んで今まで以上に警戒していたにも関わらず、それが杞憂に終わったのは何故なのか。

問おうにも、父は亡くなった後だった。

もしかしたら、子供の拙い嘘など父にはお見通しだったのかもしれない。

王女のアレスティーナの命を狙われる事は無くなったが、今度は国王のアレスティーナを利用しようとすり寄る人が大勢現れた。どんな計画を立てようと精霊がいち早く教えてくれるので飄々とかわし続けているので特に問題はない。

ただ、王女の時には殺意や悪意を向けていたのに、国王となった途端に掌を返してすり寄ってくるのを見て怒りよりも呆れの方が上回った。


――ボクは、絶対にあいつらと同じになんてならない……っ!


クローゼットの奥深くを探っていた手がようやく目的のものを掴んだ。

それは正義の味方に憧れてギルド団員達を参考に揃えてみた、動き易くて機動性に優れ、布擦れの音を立てない造りになっている隠密向きの服。盗賊と呼ばれている鍵開けや偵察を得意とするギルド職業の人が好んで着ているらしい。

何故数あるギルド職業の中から盗賊を選んだのかといえば、騎士団員や魔道兵団員とギルド職業の中だと誰が何に向いているか話し合った時の意見を参考にした。王族なのに盗賊とは如何なものかと思ったが、王女の時の色々な経験を活かす事を考えると確かに向いている。

ちなみに史上稀に見る盛り上がりを見せたその話し合いで出た意見等は、今後の参考になればと書類に纏めて後日両団長へと提出しておいた。今回の村や町の警備隊を編成する際に役立ったようで何よりだ。


――誰もケガしてないといいな……また、くだらない話、出来るよね……。


魔物の侵攻からカルディアを守る為に前線で戦ってくれている団員らの事を想った。

先祖が戦争などに手を出さなければ、こんなにも広過ぎる領土をギリギリの兵力で防衛せずに済んだし、他国も少しはカルディアに協力的だったかもしれない。

友好国のオステオンは協力を仰げば力を貸してくれるかもしれないが、平和主義の宗教国家に頼りになる程の戦力があるかどうか。

気持ち悪くて仕方のなかったドロドロと渦巻いた陰謀も策略も目を背けたい歴史も、今では何も感じない。今は何が利用出来て何が利用出来ないか、ただそれだけを考える。

段々と感情を無くしていっているようで怖いのに、その怖いという感情もこんな感じだっただろうかと分からなくなってきている。

本当に感情を無くし、利用価値だけで人を見るようになった時、自分は王女の自分が最も嫌ったものと同じ存在となってしまうのだろう。


『アレスティーナちゃんが脱走しないか、みんな目を光らせてるよ』

『団長ちゃんが指示を出してるみたいだね』

『団長くんは面倒臭そうにしてるよ』

『団員さん達の方がやる気満々だからかな』

『変な事しないか不安なんだよ』


物騒な言葉が上らなくなった賑やかな精霊達の噂話。もう勘付かれたか、とアレスティーナは先程までの暗い思考を振り払って手早く着替える。

どれだけ強固な包囲網を敷こうと、こちらには精霊が付いているので大した問題ではない。精霊達の耳と目があればカルディア城を脱走する事など朝飯前だ。

兵力は足りない、他国の協力も仰げない、国どころか世界の命運はたった四人の人間に託された。

そんな中で"四人を犠牲にして国を守ろうとする自分"を否定するにはどうすればいいのか、考えるまでもない。


――「そこで旅人は決意しました。邪竜を倒す勇気を持つ者が見つからないのならば、自分が邪竜を倒してしまおうではないか、と」。


今の自分を突き動かす、昔ホロが最初に読んでくれた異世界の冒険譚に書かれた一節。

魔王討伐に割ける兵力がないのならば、自分が動けばいい。とても簡単で単純で、国王という立場上してはならない極論。

それでも、広大で漠然としたカルディア国を、エステルダスト大陸を守るのに自分の両手で足りるのならば、城に引き篭もっている訳にはいかないのだ。

着替え終え、最後にキャスケット帽を深く被る。


"アレスティーナ・カルディア"は、カルディア国の王女で国王。

"アレス・カール"は、異世界好きな平民の子供。

今度は、正義の味方に憧れる"スティ"という名の盗賊のフリをしよう。


『嘘つき』と言う精霊の言葉は、もう聞き慣れた。

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