駆け抜けた先の結末
白く霞んだ視界。それは焦点が合っていない所為だと気付くまでしばらく時間を要した。
何度か瞬きをしてぼんやりと見ていると段々焦点が合ってきて、今自分が見ているものが白色をした天井なのだと分かってきた。少しずつだが自分が今置かれている状況が分かり始めてくる。
まず自分は仰向けになって寝転がっている。背中にはふかふかの敷物が敷いてあり、自分の上には薄手の布が掛けられている。どうやら自分はベッドで寝ていたようだ。そういえばこの天井も見覚えがあるような気がしてきた。そうだ、カルディア城で自分に宛がわれている部屋のベッドに寝転んだ時、今見ているものと同じ景色があった。
カルディア城で寝ているのだとようやく自分の状況が出来て安心したのか、もう一眠りしようと目を閉じた。が、すぐに目を開いて飛び起きた。
「うっ……」
勢いよく上体を起こした途端視界がぐにゃりと歪むような感覚に倒れ伏しそうになる。頭から血の気が失せる感覚と血の気が失せて空っぽの頭にズキズキと響く痛み、胃から吐き気が噎せ上がった。頭を押さえて項垂れ、痛みと吐き気が治まるまでじっとする。
「おはよう、クレナ。急に起き上がらないがいいと思うよ?」
窓辺に置かれた椅子に座って異世界の物らしい本を読んでいたホロの明らかに遅過ぎる忠告。普段なら恨みがましい視線と文句を寄越すのだが、クレナハーツはズキズキと痛む頭を押さえたまま自分の身に何が起こったのかを思い出していた。
記憶が正しければ、自分は確かカルディア王に化けていたアジ・ダハーカと呼ばれるドラゴンと戦い、そして辛くも勝利を収めて各々が勝利の喜びに浸っている時、自分は突然身体を刃物で切り裂かれたような激痛に襲われ血を吐き、そこで意識を失った。
底知れぬ闇へと引き摺り込まれるような感覚に死を覚悟した、ハズだった。
「俺は……生きてる、のか……?」
「残念ながら生きてるよ〜。でも、結構血吐いてたから、しばらくは安静にしないとすぐ倒れちゃうからね?」
どうやら血を失い過ぎた事が今の身体の不調の原因らしい。まだ胃の中に吐き出しきれなかった血の塊が残っているような不快感から吐き気が治まらない。
ホロはクレナハーツが居るベッドのすぐ傍にあるサイドテーブルに本を置き、未だ頭を押さえている彼に水の入ったコップを差し出した。
喉は乾いてはいるのだが胃が食べ物も飲み物も拒否をする。クレナハーツはしばらく悩み、そしてコップを受け取り吐き気も不快感も押し込めるように一気に水を飲み干した。
口の端から零れた水を服の袖で拭いふぅと一息つく。少しだけ楽になった気がする。
このままホロの言う通り安静にして寝るべきかと考えた。少し気分は楽になったもののまだ少し頭はぼんやりとしておりふらふらする、下手に無理をすれば倒れそうだ。
しかしクレナハーツは気だるい身体に鞭打ちベッドから降りる。立っていられなくはないし、歩けない事もなさそうである。
「寝てた方がいいと思うけどな〜」
「外の空気吸ってくるだけだ」
庭へ行きたいだけだから嘘は言っていない。どこの庭かは分からないが、とにかく庭へ行けばきっと彼女が居る。今すぐにでも彼女に会って、きちんと感謝の言葉を伝えたなければと思った。
あの戦いの最中ではなんとなく気恥ずかしくて、口を開いたはいいものの不思議そうに自分を見る彼女の表情になんでこんな素っ惚けたような奴にお礼を言わなければならないのかという苛立ちが先行してしまい結局言えず仕舞いだ。
このまま一眠りしてしまっては絶対に言う機会を逃してしまう。
「あ、もしかしてノゾミちゃんに用があるのかな?」
「……なんで分かるんだよ」
「"ハーくんってば、最近いつもノッちゃんに会ってから出掛けてるんだよ、これはきっとアレだね、絶対アレだよ!"ってスティが言ってたからもしかしてって思っただけだよ〜。結局"アレ"って何のことだったのかな?」
別段隠していた訳ではないけれど、一体幾つ目と耳を持っているのだと問い質したくなる程に情報収集に長けたスティに知られていた事がなんとなく癪である。精霊にでも訊いて回っているのだろうか。だとしたらとんだ精霊術の無駄遣いだがスティならばやりかねない。
希美と会ったらついでにスティの所へ怒鳴り込んでやろうと目的を新たにしてクレナハーツは少々覚束ない足取りで歩き出す。
「待ってよクレナ。ノゾミちゃんなら、庭には居ないよ?」
「は?」
今日は嵐などではなくむしろ快晴である。ならば希美はいつも通り受け持った庭掃除の仕事に励んでいるのではないか。それとも急用で何か別の仕事を任されたのだろうか。いくら急用でもあんな鈍臭い人間に任せるとはとても思えないのだが。
ホロは「う〜ん……」と考える素振りを見せているがどこか言い難そうな表情をしている。
「……異世界人って、神様に一つだけ願い事を叶えてもらえるらしくってね。あ、なんでもって訳じゃなくってそれなりの代償がきちんと必要らしいんだけど。それでノゾミちゃんはね、クレナを助ける為にその願い事を使って、だからこうしてクレナは生きてるんだよ。え〜っと……ただ、ノゾミちゃんは――ってクレナ〜?」
ホロの話を最後まで聞かずにクレナハーツは部屋を飛び出した。
"代償"という単語に胸騒ぎを覚えいても立ってもいられず、とにかく自分の部屋から一番近い池のある庭へと急いだ。
整然と生え揃っていた芝生は嵐の影響で滅茶苦茶に乱れており、小道を作っていた石畳の何枚かは地面から剥がされて雨水を含んで湿った土が露わになっている。池の水は嵐に巻き上げられて減るどころか池を囲むように淵に置かれていた石を飲み込む程にその水位を増していた。その水面には落ち葉が浮かんでいる。
手入れも掃除も行われていない庭。嵐の後の復興作業で人員を割いてこちらまで手は回っていないのだろう。そして、いつも庭掃除をしているハズの彼女が何らかの事情で掃除をしていない事を示していた。
嫌な予感がした。
病み上がりだというのも忘れてクレナハーツは走り出し彼女の部屋を目指す。部屋へ着くまでの道すがらにある別の庭も見てみるもののやはり手入れも掃除もされておらず、箒を持つ彼女の姿さえない。
自分を助ける為の代償として彼女は彼女自身の命を差し出したのではないのか、嫌な考えが頭の中を埋め尽くしていく。そんなハズがないと振り払うようにして走り、彼女の部屋の扉を勢いよく開いた。
「ノゾミッ!!」
「だーかーらー、病人が居るのに騒ぐんじゃないわよこんのアホだらんっ!!」
部屋の中から豪速球の如く飛んできた銀細工の施されたトレイがクレナハーツの頭を直撃し鈍くも軽い音が響いた。避けれずに直撃した頭を押さえ、鈍痛に視界が眩み扉の縁に凭れかかる。
「……あら、短気勇者様じゃない。またアホだらんが騒ぎに来たのかと思ったわ」
トレイを投げつけたアーニャは悪びれもせずにそう言った。誰なのかを確認もせずに問答無用でトレイを投げつけたアーニャを怒ればいいのか、アーニャがトレイを投げるきっかけを作ったと思われる病人が居るにも関わらず騒いだデュランを怒ればいいのか。ズキズキと響くような頭痛を堪えてアーニャを睨んだ。
そしてアーニャのすぐ傍、ベッドの上で眠る希美に気付く。
ぜえぜえと苦しげな荒い息に汗の滲んだ赤い顔。額には濡らしたタオルが置かれている。
希美が生きている事に一瞬安堵しかけたが、アーニャの"病人"という単語と希美の苦しげな表情は無事だと安心するには早過ぎる。
「も〜……速いよクレナ〜」
「ハーくん! 良かったー、やっと起きたんだね☆ でも、まだ安静にしてたがいいと思うよ? 具合悪くない? 大丈夫? 顔色悪いよ?」
いつの間にかスティと合流したホロがようやくクレナハーツに追いついた。クレナハーツの姿を見てスティはいつも通りのハイテンションで話しかけるが、頭を押さえて痛みに堪える彼の顔を不安げに覗き込んだ。
「……コイツの所為で頭痛が酷くなった」
「女性の部屋にノックもなしに入ってくるあんたが悪い」
アーニャの言葉は至極正論であり反論の余地はない。けれどだからといってトレイを投げつけるのはあまりに理不尽というか短絡的というか、釈然としない。しかし今追求すべきはそれではなく。
「ノゾミは、どうしたんだ? 何があったんだ!?」
出来る限り平静を装おうとしたが無意識に語尾が強くなってしまった。
「え〜っとね、ノゾミちゃんはね、クレナの事が心配過ぎて今まで以上にぼんやりしてたみたいでね、庭掃除の最中に足滑らせて池に落ちちゃって、今までの心労とか色んなものが祟って風邪拗らせちゃって寝込んでるんだよ〜」
「…………は?」
長い沈黙の後、ようやくクレナハーツから発せられた言葉はそれだけだった。
つまり自分が想定していた最悪の事態は起こっておらず、単なる不注意で風邪を拗らせた馬鹿が一名居ただけ。
希美の事だ、恐らく先日の嵐で滅茶苦茶になった庭の掃除をしなければと使命感に燃えて風邪の初期症状を気のせいだろうと放置し、どこから手を付けるべきかととりあえず庭の現状を確認する為に雨に濡れて少々滑りやすくなった地面を歩き回りながらクレナハーツは大丈夫だろうかと部屋のある方を頻繁に見て、それを繰り返す内にとうとう足を滑らせて転んだ先の池に落ちたのだろう。あまりにも鮮明に想像出来て目眩がした。
「……なんであんなに言い難そうだったんだよ」
「え? だってクレナもスティも僕の説明って長くて分からないって言ってたよね? だから、出来る限り分かりやすく簡潔に言おうと思って、色々と言葉選んだりしてただけだよ〜。なのにクレナってば、最後まで聞かないで行っちゃうしさ〜」
確かにホロの説明はやたらと長くて分かり辛いと言った記憶はある。出会った当初から説明の長さは健在で今に至るまで直る気配は微塵もなく半分諦めていた。それを何でよりにもよって今直そうとしたのだろうか。
トレイを投げつけられた事といい、今日はつくづく間が悪い。
「ホロホロの話を最後まで聞かないですっ飛んでっちゃうなんて、ハーくんってばそんなにノッちゃんの事が心配だったのー?」
にやりと笑ってわき腹を肘で小突くスティを怒鳴りつける気力さえ沸かない程にクレナハーツは脱力していた。扉の縁に凭れかかった状態のまま長い溜め息をつく。希美が無事とは断言出来ないが命に関わるような状態ではない事への安堵半分、あの戦いの中で随分と逞しく立ち回っていたにも関わらず相変わらず鈍臭いままな事への呆れ半分。
心配した自分が馬鹿らしく思えてきた。
「用事がないなら帰ってくれやがらないかしら。病人の傍で騒ぐようなら今すぐ箒で叩き出すわよ」
「あーにゃん、ハーくんも一応病人……いや怪我人? うーん、病み上がりかな……むしろ黄泉上がり? とにかくそんな感じだからね? 暴力反対だよ?」
「黄泉上がりなら黄泉上がりらしく棺桶で寝てなさい」
「んん? 黄泉上がりなのに棺桶で寝るの? そのまま黄泉に帰っちゃわない?」
「あー、もうっ、面倒臭いわね……棺桶でも布団でも床でも何でもいいでしょ」
「何でもよくないよー! 言葉には魂が宿るって言ってたよね、ホロホロ!」
「へ、僕? う〜ん……言ったっけ〜?」
スティのペースに呑まれて話し込み始めた三人。騒ぐなと注意していた人間が騒いでどうするとクレナハーツは内心呆れながら、三人を無視して希美の傍へと歩み寄った。
汗の滲む赤い顔に自業自得だと悪態付くのは簡単だ。けれど、魔法もないような世界から死んだ事で突然この世界に来て殺されかけたり死にかけたりと波乱に満ちた日々を過ごしてきた彼女の心労や疲労は自分の尺度で測れるものではないだろう。むしろ今までよく体調を崩さなかったなとさえ思う。
頬に触れてみるとやはり熱い。ベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上に水の張った洗面器が置かれている事に気付き、タオルを取り換えようと彼女の額に置かれたタオルを取った。
「……くれな、さん?」
うっすらと目を開けた希美が言った。まさか起きるとは思っておらずクレナハーツは一瞬動きを止める。
希美は熱に浮かされていつも以上にぼんやりとしているのかクレナハーツをぼーっと見つめた。
「……よ、よかった、です」
何が良かったのか理解出来ず聞き流そうとしたが、恐らく自分が生きている事をようやく認識出来た安堵から来た言葉なのだろうと解釈する。
風邪を拗らせて寝込んでいるというのに他人の心配をするのかと呆れそうになるが、それが五十嵐希美という人間だから仕方ない。そもそも風邪を拗らせる原因になった池への転落は不注意もあるけれど、その不注意は他人の心配からきたものだ。
「ノゾミ……その……」
意を決してクレナハーツは口を開いた。緊張からタオルを絞る手に知らず知らず力が入る。
「……あ、ありがと、な」
視線を逸らし小さな声で言った。
希美はクレナハーツの言葉が意味するところを考えているのかしばらくきょとんとして、「えへへ」と恥ずかしそうにふにゃりと笑う。クレナハーツがよく見る希美の表情といえば落ち込んでいるか半泣きかが大多数を占めており、熱に浮かされ意識がはっきりしていないとはいえこんな表情も出来るのだなと新鮮に思った。
だが、段々と新鮮だなどと思った事や今流れている何とも言えない沈黙、そもそもの原因となってしまった感謝の言葉を口走った事に恥ずかしさが込み上げてきて、居た堪れなくなったクレナハーツはカラカラになるまで絞りきったタオルを希美の顔面に投げつけた。
何が起きたのか分からず混乱する希美を置き去りにクレナハーツは足早に部屋を後にする。
「ありゃりゃ、ハーくんってば……ノッちゃん! それ、ハーくんの照れ隠しだから気にしないであげてね! てなわけで、あーにゃんが怒る前に撤退だー☆」
「え? あ、え〜っと……騒いでごめんね?」
スティとホロはそれだけ言ってクレナハーツの後を追う。
アーニャは怒鳴る気力も削がれたのか額を押さえて長く重い溜め息をついた。
「あの三馬鹿、結局何しに来たのよ……」




