私の願い
今にも消え入りそうなか細い苦しげな息。徐々にけれど確実に消えていく体温。
死にゆくクレナハーツを前にして何も出来ない希美は無力感に苛まれながら、彼をこれ以上体温が消えないようにと抱き締めて声を掛け続けた。
「嫌だよ……死んじゃ嫌だよ……っ」
『ノゾミ』
「クレナさん……クレナさん……!」
『ノゾミ!』
希美のすぐ傍で呼び掛けていたカカの声に彼女はようやく気付き、涙をボロボロと零す泣き腫らして真っ赤になった目でカカの方を見る。
「カカ、さん……っどう、しよう……クレナさん、死んじゃう、死んじゃうよぉ……」
嗚咽混じりに言う希美。カカは顔を俯かせ、そして何かを決意したかのように顔を上げて言った。
『ノゾミ、わたしが城下町で話したこと、憶えてる?』
「え、えぇっと……?」
何の脈絡もなく言われた言葉に希美は真っ赤な目を点にして、混乱する頭でカカの言う城下町で話した事を思い出す。城下町、と言われて真っ先に思い出すのは木材の下敷きになりかけた事だ。自分が死んだ時の事がフラッシュバックしていて、その時の様子が尋常ではなかったからか単に城下町でも騒動に巻き込まれる鈍臭さの持ち主だと思われたからか、それ以降城下町へ行った記憶はない。それまでも城下町へ行った事がなかった為カカとアーニャにあれこれ色々と聞いた記憶があるけれど、正直なところ全部憶えてはいない。カルディア城ご用達の店の名前と大まかな場所と道のりならば憶えていると言えるのだが。
『――異世界人は、その世界に早く順応できるように、神様が一つだけお願い事を叶えてくれる』
見兼ねたカカに言われ、希美はそういえばとやっと思い出した。
災禍を鎮める為の生贄になった彩歌という女性の銅像の前で、カカが教えてくれた異世界人への神様からのプレゼント。神様が色々と教えてくれる前にこの世界に引っ張られてしまった為、その存在を知る事も使う事もなかった。一緒にその話を聞いていたアーニャには鈍臭さ諸々を直すようにお願いしろと冗談交じりに言われたのだったか。色んな事が立て続けに起こってすっかり忘れてしまっていた。
「…………あ!」
その話が一体どうしたのだろうかとしばらく頭を捻って、そして気付きカカを見た。カカは頷く。
『そのお願い事を使えば、クレナハーツを助ける事が出来るかもしれないよ』
希望が見えた。まだ自分に出来る事は残されていたのだ。
『でも、ノゾミはホントにそれでいいの?』
カカの言葉の意図が分からず希美は首を傾げる。
『お願い事を使えば、どんな事でも叶えられるんだよ? ノゾミが直したいって思ってる鈍臭さとかも直せるし、魔法だって精霊術だって呪術だって幻術だって使えるようになれるし、誰よりも何よりも特別な存在にだってなれるんだよ? それなのに、この世界に来て初めて会っただけの、ノゾミを殺そうとするような赤の他人の命を救う為だけに使っちゃって、ホントにいいの!?』
カカの言葉に希美は思案するように顔を俯かせる。
冷たいかもしれないが、カカの言葉はもっともだ。
もし願いが叶うのならば、この生まれ持ったどうしようもない鈍臭さを直して欲しいと思った事は一度や二度ではない。そうなればもうこれ以上周りに迷惑を掛けずに済む。でも魔法や精霊術とかを使ってみたいという憧れもある。アーニャよりもスティよりもホロよりも強くと願えば彼ら以上の力を手にして誰かの為にその力を振るう事が出来るのだ。
苛められ、迷惑ばかり掛け、生きている価値さえ見出せないような人間でも、願い事次第でヒーローになれる。周りを見返せる、居場所だって作れる、どんな名誉も富も思いのまま。
その一生に一度のチャンスを、たかだか人一人の命を救う為だけに使い、棒に振ってしまって本当にいいのだろうか。
「…………あ、ありがとう、ございます、カカ、さん。でも……ごめんなさい」
俯いた先にあったクレナハーツの顔を見つめ、決意を固めた希美は顔を上げる。
自分の身を案じてくれたカカには申し訳ないが、今一番に願う事は"クレナハーツを死なせたくない"、それだけしか見つからない。
馬鹿だと言われても構わない、事実自分は馬鹿だから否定のしようがないのだ。未来を見据えて決めるべき決断を迫られても、馬鹿な自分には現在しか見る事が出来なかった。
「た、確かに、クレナ、さんは、赤の他人、です。でも、でも、赤の他人じゃ、ないんです。偶然、かも、しれないけど、気紛れ、かもしれないけど、クレナ、さんは、私を、助けてくれた、救ってくれた、命の恩人なんです」
ロウロの森を駆け抜けた時の手の温もりを覚えている。
おぶってもらった時の背中の大きさを覚えている。
抱き締められた時の暖かな心音を覚えている。
頭を撫でてくれた時の優しい掌を覚えている。
自分の名前を呼んでくれた、厳しい中にもどこか優しさのある力強い声が、まだ耳に残っている。
魔法や精霊術を使えるようにお願いして、その力で助ければいいのではとも考えた。しかし呪術に詳しいホロは術者本人にしか解く事が出来ない事が呪術と呼ばれる所以なのだと言っていたから、それでは彼を助ける事は出来ない。それ以外のまだこの世界にない呪術に対抗出来る力を望めば可能性はあるのかもしれないが、この世界で扱える人のいないような力など鈍臭い自分に使いこなせる訳がない。
考えれば何かもっと良い別の方法があるのかもしれないし、いっその事クレナハーツの命を切り捨てて願い事をじっくりと考える方が良いのかもしれない。
それでも、自分が導きだす答えは一つだけ。
庭掃除をしている自分の元を出掛けるついでに立ち寄った彼が挨拶代わりに片手を挙げて自分はそれにお辞儀で応える、そんな特別な出来事も大変な事件も起こらない当たり前な日常がこれから先も続けばいいなという、日和見な願い。
『でも、願い事はなんでもいいって聞いてるけど、人の命まで操れるかは分からないよ? もしかしたら……ノゾミの命と引き換えになるかもしれないんだよ?』
「そ、そんなのダメ! ダメだよ、ノッちゃん!!」
スティが声を上げた。ホロが宥めに入ってスティは渋々口を噤むけれど、それだけはいけないと目で訴える。
物事において代償とは付き物だ。魔法や精霊術を扱えるようにと望めばそれ相応の運命が与えられる。千年前、上級魔法や高位精霊術をも扱えるようにと願ったであろう女性は災禍を鎮める為の生贄という運命を与えられたのだから、この願い事にも代償と呼んでも差異の無い何かがあるのだろう。
死ぬハズの運命だった人の命を救うという事は、他の誰かがその運命を代わりに被る可能性がある事をカカは言っているのだ。
希美が思い描く当たり前な日常の中に当の本人は居られないかもしれない。
「……それでも、構わない、です」
希美は言い切った。これからの日常の中に居るべきなのはクレナハーツであり、異世界から来たこの世界にとって異分子である自分ではない。魔王と戦い近しい者を失い間違ったり迷ったりした彼にようやく明るい未来が訪れようとしている。自分はほんの少しの間でもこの世界に居られた、それだけで十分過ぎるほどに幸せなのだ。
どうせ一度は死んだ命だ、何を惜しむ必要がある。
「だって、私、ドジで、バカ、だから……そんな私でも、出来る事があるなら……私は、その出来る事から、逃げたく、ないんです」
唯一気にかかる事は、自分が死んだら災禍が復活してしまわないかどうかだ。その辺りは神様とやらが上手くやってくれるだろうと信じるしかない。彼に生きてほしいと望んでいるのに災禍が復活して世界が滅んでしまっては元も子もないのだから。
「魔法、とか、精霊術、とか、何も、使えなくても、何も出来なくても、いいです。私が、死んだっていいです。だから……だから、お願いですっ! クレナさんが、クレナハーツさんが生きたいって望んでるなら、クレナハーツさんを殺さないで下さいっ!!」




