孤独な勇者はもういない
――お、終わった……の?
訪れた静寂に、希美はどこか落ち着きなく周りを見回した。
戦いの邪魔になってはいけないと白猫のカカを腕に抱きかかえて謁見の間の外、倒壊した壁の陰に隠れながらずっと中の様子を窺っていた希美。窺うといっても殆ど魔道兵団員の後ろ姿しか見えていなかったのだが。流石に火球や氷の槍が降り注いだ時には肝が冷えたが、魔道兵団の魔法と思われる半球状の透明な壁が阻んだお陰で謁見の間の外にいる希美らへの被害はない。
魔法のぶつかり合う音も、ドラゴンの咆哮も、人の声も無い、一転してしんと静まり返った謁見の間に希美は戸惑う。戸惑いは段々とクレナハーツに何かあったのではないか、ドラゴンが何かしたのではないか、静まり返ってしまうほどの事態が起こったのではないかという不安へと変わっていく。
とりあえず近くの魔道兵団員に何があったのか訊くべきだろうか、もし何か起こっているのならば訊ねる事は迷惑になるのではないか、と悩み始めた時、わっと歓声が上がった。
希美は肩を跳ねらせて驚き、何が起こったのかと再び周りを見回す。
ある者は近くに居た者と抱き合い、ある者は安堵の息と共にその場に座り込み、その喜びに満ちた声と達成感に溢れる表情がこの戦いの勝利を物語っていた。
「ヤッタよ! 勝ったよ! 勝ったんだよボク達! ヤッタよ、ホロホローッ!!」
「わっ、ととっ……いつになったらいきなり飛び付くのをやめてもらえるのかな〜」
感極まって勢いよくホロに抱き着くスティ。不意打ちを受けたホロはよろけて倒れそうになるがなんとか堪えた。いつもならスティはすぐにハッとして謝り離れるのだが、今回だけは何故か謝る素振りも離れる素振りも見せない。
「うぅ……ぐすっ……だって、だってぇ……」
スティはぼろぼろと涙を零し鼻を啜る。嗚咽混じりに必死に言葉を紡ごうとしているのだが何を言っているのかどう頑張っても聞き取れない。恐らく無事に勝てた事が嬉しいのだろう、スティの涙腺の緩さは今に始まった事ではない。ホロは観念したのか一つため息をつき、スティが落ち着くまでこのまま待つ事にした。
「……結構やるじゃない。今だけは"だらん"じゃなくてデュランって呼んであげても良いわよ?」
「今だけじゃなくてちゃんと名前で呼べっつーの。オレはだらんじゃねぇって何回言えばいいんだよ」
盾に凭れかかるように座り込んでいたデュランの頭を杖で小突かれ、デュランは面倒臭そうに小突いてきた相手の方を振り返る。
「あれ〜? 姐さん、さっきまで普通に名前で呼んでませんでした〜?」
デュランを労おうとやって来ていた騎士団員の一人、開戦前にアーニャのある発言を聞き冷やかそうとしたものの傍にいた弓兵隊に阻まれていた騎士団員がアーニャの背後でニヤニヤしながらそう言った。アーニャは表情を変えずに杖を握り直し、振り向く事無く騎士団員の着込んだ鎧の隙間を的確に狙い腹近辺を渾身の力で突き上げた。騎士団員は腹を押さえて崩れ落ちる。
「だから止めろって言ったのに……姐さんはデュラン団長相手で喧嘩慣れしてるんだからよぉ……」
何事かを呻く騎士団員を哀れな目で見つめてそう言ったのは、冷やかそうとした騎士団員を阻んだ弓兵隊。治療をと寄って来た魔道兵団員を「こいつの自業自得だから」と言って追い払っている。
「この多過ぎる賑やかし要員共、早急にどうにかしなさい。特に、姐さん呼びをやめさせてちょうだい」
「このくらい賑やかな方が楽しいし、いいじゃねーか。それに"姐さん"も"アーニャさん"も語感似てるし、そんなに気にすんなよな」
「ああ、そう。そうよね、語感が似てるなら些細な事よね。じゃあ"だらん"も"デュラン"も語感が似てるから気にしないでもらえるかしら」
「なっ、それとこれとは話が別だろ!」
「いーえ! 全く別じゃありませんわ!」
始まったいつもの言い合いに騎士団員と魔道兵団員は顔を見合わせて肩を竦ませると、それぞれの団長を止めに入った。
「あ、あの、く、クレナ、さんっ!」
各々喜びを分かち合っている所を邪魔してしまわないように人混みを掻き分けて、ようやくクレナハーツの元まで辿り着いた希美がパッと明るい表情を浮かべて名前を呼んだ。黒い塵となって次第に消えていくドラゴンの遺骸を見ていたクレナハーツはその声にようやく振り返った。
「あ、あの、あの、その、ええっと……」
駆け寄って口を開いたまでは良かったのだが、こういった場面では何という言葉を言えばいいのだろうかと思い口ごもる。お疲れ様でしたが一番無難な言葉なのだろう、しかし元はと言えば自分が不用意な発言をしてしまった事が発端になっているのだから有難う御座いましたとお礼を言うべきではないのだろうか、それならばお礼を言う前にごめんなさいと謝罪の言葉を述べるべきではないのだろうか、いやまずはお怪我はありませんかと身を案じた発言をするべきではないのか、だが目立った怪我がないのは見れば分かる事だし、むしろドラゴンと戦って心身ともに疲れているのだから自分なんかの話し相手をさせずに休ませるべきではないのか。
頭の中を色んな考えがぐるぐると巡り、口から出る言葉は「あの」や「その」といった意味を成さないものばかり。段々パニックに陥りつつある希美の言葉を、すぐに切れないよう自分に言い聞かせて気長に待っていたクレナハーツだったが次第に苛立ちが募り始める。
クレナハーツが一つ乾いた咳をした。
「! あ、あああああの、あの、ご、ごめんなさい! だい、だいじょうぶ、ですか!?」
咳一つであわあわと慌てふためく希美がどこか面白く、けれど面白がってやり過ぎてはいけないなと思い平気だと言おうとした。
しかし、咳は止まらない。
何の前触れもなく表れた身体の不調にクレナハーツは眉を顰める。
「く、クレナ、さん……?」
乾いた咳は徐々にくぐもったものへと変わっていき、そして一際くぐもった咳をした。
口元を覆っていた手の隙間から血が溢れ出て、床にぽたりぽたりと流れ落ちる。
口の中一杯に広がる血の味。震える手を口元から離して掌を見ると、べったりと血が張り付いていた。訳も分からず掌に張り付いた自身の血を呆然と見つめていると一層酷い吐き気と咳が襲い、おびただしい量の血を吐き出した。
「クレナさんっ!!」
その場に崩れ落ち膝をついたクレナハーツに希美は悲鳴に似た声で名前を叫び駆け寄って倒れそうになった彼の身体を支える。希美に凭れかかったクレナハーツは痛みや恐怖を堪えるかのように彼女の肩を強く掴んだ。額には脂汗が滲んでいる。その間も吐血は止まる様子を見せない。吐き出される血が希美の服にもべったりと付着した。
希美は必死にクレナハーツの名前を呼ぶ。それ以外に出来る事があるのか分からなかった。見た限り外傷はなく、原因など皆目見当もつかない。
「どうしたの!? ノッちゃん!!」
「わ、わか、わからない、です……! い、いきなり、クレナ、さん、血、吐いて、それで……!」
希美の声に異変を察知したスティが素早く二人の元に駆け寄った。各々喜びを分かち合っていた人達も談笑を止め口々に心配そうに声を掛けながら近寄ってくる。
「精霊よ、その力を以ってかの者の傷を癒せ」
スティが短く唱えるとクレナハーツの身体を柔らかな光が包んだ。どこかに傷があるならすぐにでも塞がるハズである。けれど、まるで精霊術など効いていないのかクレナハーツはまた大量に吐血した。
希美の肩を掴む手から、次第に力が抜けていく。
「クレナ、さん、クレナさんっ、しっかり、しっかり、して、ください!」
肩を掴んでいた手が力無く床へと落ちた。倒れそうになる上体を希美は慌てて抱き止め名前を呼び続けた。まだ辛うじて息はある。
「ホロホロ、ねぇ、ホロホロ! ボク、どんな精霊術を使えばいいの!? どうしたらいいの!? 分かんない、分かんないよぉ……!」
「うん、とりあえず落ち着いてね〜」
ようやく来たホロにスティは縋りつくようにして訊ねた。ホロはいつも通りのんびりとした口調でスティを宥め、そして顎に手を当てて何事かを考えながらクレナハーツを見る。そして「もしかして」と呟き、クレナハーツの傍にしゃがむと彼の前髪を掻き上げた。
露わになった脂汗の滲む額には、禍々しさを体現したかのような小さな幾何学模様が浮かんでいた。妖しげに光るその模様は先程まで対峙していたアジ・ダハーカと呼ばれるドラゴンの目に似ている気がする。
「……これを使えるぐらいの魔力は隠してたか……死ぬ直前、目から魔力が発せられていたからまさかとは思ったけど……いや、呪術も幻術も扱うようなドラゴンだし可能性としては十二分にありえた事……失敗したな〜」
「ホロホロ? ねぇ、ボク、何したらいい? どんな精霊術だって使うよ!?」
一人納得するホロにスティが問う。ホロはただ、首を横に振った。
「……これは、道連れの呪術って言ってね。たぶん、アジ・ダハーカが死ぬ直前にクレナに掛けたんだと思うんだけど、この呪術は術者と同じ傷を与える呪いなんだ。術者が怪我すれば、呪いを受けた人も同じように怪我する。つまり――術者が死ねば、呪いを受けた人も死ぬ。そういう呪術なんだ」
頭を殴られたかのような衝撃が走った。心臓辺りからすっと冷えていく感覚。意識はなくか細い苦しげな息だけがまだ生きている事を証明しているクレナハーツを抱き止める腕が震える。喉がからからに乾いて声が出せない。
「……魔力馬鹿様なら、どうにか出来るんじゃなくて?」
「どうにか出来たら、それは呪術じゃないよ〜。呪術は術者、呪いを掛けた張本人にしか解けないから恐れられてるんだからね? 呪詛返しっていう方法もあるけど、返す相手、術者が生きていないと返したくても返せないし……」
「じゃあ、つまり……助ける方法って、何もないのか……?」
「そうだよ、残念だけどね〜」
皆の声がどこか遠くに聞こえる。
自分が走り抜けた先にあると信じていたハッピーエンドなど無く、あったのは一番生きていてほしかった人の死という最も悲惨で悲痛なバッドエンドだったのか。
「……嫌だよ……」
からからの喉から絞り出した言葉。こんな終わりがあっていいハズがない、彼の徐々に消えていく体温が突き付ける現実を言葉だけででも拒否した。ボロボロと涙が零れて、クレナハーツの頬に落ちる。
もう彼を苦しめた偽者の王は居ないのに、ようやく今までよりも明るく開けた日常が待っているハズなのに、どうして彼は死ななければならないのか。
「死んじゃ、嫌だよ……っ、死んじゃ嫌だよっ!! クレナさんっ!!」
希美の心からの悲痛な叫びが、戦場の跡地にただ響き渡った。




