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ネガティブ戦線  作者: 楽夢智
前編 「もう終わりにしよう」と闇が囁いた
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曇天の切れ間

ひとしきり泣き終えたクレナハーツは服の袖で涙の跡を拭いながら希美の上から退いた。希美ももらい泣きしてしまった涙を拭いながら、このまま地面に寝そべったままでいるのは宜しくないだろうと上体を起こす。高い位置から落ちた上、地面に叩きつけられた身体は未だに痛いが動けない程のものではない。

互いに鼻をすする音しかない沈黙に希美は段々と気まずさを感じ始めた。何一つ音のないワールドエンドの空気が耳に痛いぐらいまた響いてきて、どうするべきなのか、自分から何か話すべきなのか、と考えた。

希美が何か考えつくよりも早くクレナハーツが動き、気まずそうにそらしていた顔を希美に向き直して両手でそっと彼女の両頬に触れると、頬を掴んで左右に思い切り引っ張った。

「いっ!?」

「オマエは何も聞いてねぇし、何も見てもねぇ。いいな? 絶対誰にも言うんじゃねぇぞ?」

痛いです、と希美が言うよりも早くクレナハーツが詰め寄る。

「ふぁ、ふぁふぁっへまふっ!!」

「特にスティ辺りにそれっぽい事言ってみろ、ただじゃおかねぇからな……?」

「ふぁ、ふぁい! ふぃ、ふぃへまへんふぃ、ふぃいへまへんっ!!」

「よし」

そう言ってようやくクレナハーツは頬を引っ張る手をパッと離した。

来てませんし聞いてません、と最初の約束を繰り返し言ったつもりではあったが、あんな間抜けな喋り方でちゃんと聞き取れたのだろうか。ひりひりと痛む頬を押さえながら希美はそんな割とどうでもいい事を考えていた。

頬を引っ張られた事に対して怒り等は特に感じない。彼なりにこの気まずい空気を変えようとしたか、もしくは照れ隠しだろうと希美は思った。お姫様だっこされた時もおぶってもらった時も一様にして人が居る所まで着くと突然手を離されて地面に落されているのだから、頬を引っ張られる程度なら可愛いものだと思えてしまう自分がいる。

――暴力反対なんだけど……。

何度も殺されかかると人は死に直結しない事は些細な事だと認識してしまうのだろうか。随分と図太くなってしまった神経、否、随分と危機感の欠けた神経に我ながら呆れてしまう。

クレナハーツは立ち上がり衣服や肌に付いた砂を手で軽く払うと、未だ頬を押さえて座ったままの希美へと手を差し伸べた。希美は意図が分からずにしばらくその手をきょとんと見つめ、もしかしてと思う結論に辿り着いたのでおそるおそる自分の手を伸ばし、彼の手に控え目に指先だけをちょんと乗せた。

その控え目さに少し呆れたような表情を浮かべたクレナハーツは乗せられた手の手首まで掴むと軽く引張りあげるように手を引いて、希美は引かれるまま少しよろめきながら立ち上がる。

「あ、えと、あり、がとう、ございます」

「……別に」

希美がしっかりと立てている事を確認してクレナハーツはすぐに手を離した。

危機感の欠けた神経を否定するつもりではないが、不器用でぶっきらぼうな表現しか出来ないのが彼なりの優しさなのだと自分は思っているようだ。だから不思議と怒りも悲しさも湧いてこないのだろう。頬はまだ少し痛むが。


――不器用なのも、ぶっきらぼうなのも、直さなくてもいいけど、手加減は覚えてほしいかな。


二人とも随分と落ち着きを取り戻したが、希美は何かを忘れているような気がしてふと視線を盆地の中心の方へと向ける。

そこには未だ陽炎が揺らめき、歪んだ景色の向こう側から災禍が這い出そうともがいていた。

希美は思わず息を飲む。クレナハーツが災禍復活を思い止まってくれても災禍が復活しかけている事に変わりはない。

怖い、恐ろしい、それらが災禍を見た瞬間に全身を駆け抜けて総毛立つ。それを見る事も知ろうとする事も躊躇うどころか拒絶せずにはいられない。すぐにでも視線をそらそうとしたが、歪んだ景色の向こうの闇は這い出そうとしているのではなく必死にこちらへと手を伸ばしているように見えて、希美はそれから目を外せずにいた。

希美が見つめる先に気付いたクレナハーツは愛用の剣を握り直し、自身の手で呼び覚ましてしまった災禍が潜む陽炎へと近付いた。希美は彼の後を追おうとしたが何故かあの陽炎に近付いてはいけないような気がしてその場で待つ事にする。

クレナハーツは陽炎の前に立つとその歪んだ空間から覗く災禍を真っ直ぐに睨みつけ、精神を落ち着かせて集中する為に息を吐く。そして剣を横に振り払い空気を裂くと、丸くて白い発光体が一つ二つと現れて剣を包み込む。刀身を覆い尽すとその白い光を纏った剣は眩いばかりの輝きを放った。

光に照らされた陽炎が身悶えするかのように歪み災禍が身じろぎをした瞬間、クレナハーツは迷う事無くその歪みの奥で蠢く災禍目掛けて白光の剣を突き刺した。陽炎が苦しむかのようにその向こうの景色を更に歪ませる。


「悪いけど、もう少し寝てろ」


陽炎が歪ませた空間から眩い光が溢れ出して一瞬視界が真っ白に塗り潰された。光が弾けて正常な視界を取り戻した時にはもう陽炎は揺らめいておらず、先程まで感じていた恐怖が嘘だったかのようになくなっていた。

「あ、あの、クレナ、さん……えと、災禍、は……?」

腰に提げていた鞘に剣を収めて戻ってきたクレナハーツに希美は訊ねる。

「封印……まぁ、でっかい錠前とでも思っとけ。それが外れかかってただけだから、魔力ねじ込んで無理矢理鍵を閉めたんだよ。前、ホロから一方的に聞かされただけだから、あんまり自信なかったけどな」

薄々考えてはいたが、クレナハーツはホロ程まではいかずとも相当魔法が扱えるのではないだろうか。使い方が少々荒いというか乱暴というか力任せな節はあるが。

「絶対にホロには言うなよ。魔法は力技じゃねぇって散々説教されてんだから……」

「は、はい! き、来てません、し、き、聞いてません、し、みて、見てませんっ!」

力任せなところは自覚があるようだ。

ホロとは幼馴染みだと聞いた覚えがあるので、魔法についてはアーニャ曰く魔力馬鹿様のホロに教えてもらったのではないだろうか。魔力の使い方に向き不向きはありそうだが、それでもここまで魔法を扱えるようにしてしまうのは流石としか言いようがない。

――でも、私が知らないだけで、魔法を使える人にとってはこのぐらい当たり前なのかもしれないよね……。

身近に規格外の魔法使いが居るとこの世界の普通は何なのか分からなくなってくる。


「で、どうやって帰るんだ?」

「へ?」


クレナハーツの唐突な問いが理解出来ずに思わず聞き返した。

「転移魔法使うにしても、俺は自分だけしか出来ねぇからな。それに、さっきので魔力のほとんどは使っちまったから、魔法は何も使えねぇぞ」

そこまで言われてようやく希美はカルディア城に戻らなければならない事を思い出した。

クレナハーツは確か転移魔法でここまで来ているから魔法が使えないとなると彼は自力で戻る事は出来ない。

希美は自分がどうやってワールドエンドまで来たかを思い出す。

「えと……わ、私は、ホロ、さんの、て、てんいまほう? で、ここまで、きて――」

そこではたと思い至る。

ホロの転移魔法特有の時空の裂け目は、今もまだそこにあるのだろうか。

繋いだままにしておくとも、何か合図があればまた繋ぐとも言われていない上に取り決めもしていない。歩いてきた道は覚えてはいるが特に目印など付けていないし目印になりそうなものもない、似たような色のない景色が続くここでは最初に降り立った場所など明確に分かりそうもない。


――……まさか……戻れない、とか……?


可能性に気付いた瞬間、さっと血の気が引いた。

あわあわとする希美を見て色々と悟ったクレナハーツはため息をつく。

「最初、どの辺に居たかは覚えてるか?」

「は、はい……じ、自信は、ない、ですけど……」

「あいつの事だ、一応、魔法陣は張ったままにしてるだろ。無かった時は気張って歩くぞ」

「は、はい……ごめんなさい……」

魔法陣が張ってあり時空が繋がったままならば有難い限りだが、無かった時はやはり歩くなり何なりでカルディア国を目指さなければならないようだ。

クレナハーツを止めると言っておいて帰る手段を確保していない、肝心なところで抜けている自分の鈍臭さが恨めしい。

すっかり落ち込んでいる希美の頭をクレナハーツが軽く撫でた。

「オマエとならのんびり帰るのも悪くねぇし、別に気にすんな」

気を遣われてしまった事に情けなくなるが、とにかく最初に降り立った場所へ行かない事には状況を把握出来ない。少し気が重いけれどここまで来るのに通った道順を思い出しながら希美は歩き出した。

「? カカ、さん、行きます、よ?」

何かが足りない事に気付いた希美は周囲を見渡し、先程まで陽炎が揺らめいていた場所をじっと見つめるカカに気付き声を掛ける。カカは振り返って悲しげに一つ鳴くと希美の元へと歩み寄った。


悲しげな猫の声の意味も、カルディア国へ戻ると告げた彼の本当の決意も、彼女は気付いていない。

これで全てが元通りになると、希美だけが信じて疑わなかった。

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