そして勇者は、
目を瞑り、刃が振り下ろされる瞬間を待ってどのくらい経っただろうか。
恐ろしいと死にたくないとがなり立てる心臓を、一度死んだというのに何をそんなに怖がる必要があると半ば強引に言い聞かせて落ち着かせる。けれど、そういえば死ぬ瞬間の記憶は覚えていない事を思い出し、一度目の死など経験したようでしていないも同然だと気付いた。
痛みも何もなく、もしあの時のフラッシュバックがなければ自分が死んだ事など気付けなかっただろう。つまり、今も自分は死んだ事に気付いていない可能性があるのではないか。もう既に死んでしまっているのではないか。
そんな疑問を抱き始めた時、頬に温かい水のようなものが一つ、二つと触れた。
目を瞑る前の景色は確か曇り始めていたから雨でも降りだしたのだろうか、しかし雨にしては冷たくなく人肌に近い温度だ。この世界の雨はこのぐらいの温度なのだろうか。考えている間にまた一つ水滴が触れる。
希美は悩んだ末、おそるおそる目を開く。そして目の前の光景に思わず目を見開いて息を飲む。
剣は、既に振り下ろされていた。
希美の顔のすぐ隣、何もない乾いた固い地面に剣は深々と突き刺さっている。
けれどそんなものに彼女は気付いていない。そんなものものに気付けないほど、視界を覆う前髪のない開けた眼前の光景は彼女にとって衝撃的なものだった。
地面に深々と突き刺した剣の柄を震える両手で強く強く握り締め、それを支えとして凭れかかるように項垂れたクレナハーツ。下唇を噛み締めて必死に嗚咽と涙を堪えようと肩を震わせている。そして限界まで溜まった涙が重力に従って、俯く彼の目の先にある希美の顔に落ちてきていた。
希美は今、初めてクレナハーツの顔を見たのだ。
前髪で隠し、視線をそらし、恐怖と逃避から見ないようにとしていた今まで、ずっとクレナハーツはこんな表情をしていたのだろうか。
「っ……くそ……っ、な、なんで……なんでっ、殺せねぇんだよ……っ!」
嗚咽を押し殺した苦しげな声で自分の甘さを嘆く。
剣を引き抜こうと両手に力を込めても、持ち上げられずにただ柄を握り締める事しか出来ない。
ぱたぱたと頬に零れ落ちてくる涙の熱が呆然としていた希美に伝わっていき、自分の胸が苦しいぐらいに熱くなる。
――そっか、私は、また間違えてたんだ。気付けなかったんだ。
怖いから、そう言い訳をして目をそらし続けて、気付けたハズの彼の涙を、彼の苦しみを見逃していた。あれほど自分に出来るがあるならそれに全力で取り組むんだと意気込んでおいて、心のどこかでは関わりたくないと思って、知らない内に目を隠して耳を塞いで気付かないフリをしてしまっていたのだろう。
その上、自分は彼に殺していいと、災禍を復活させていいと、世界を滅ぼしていいと間違った事を言ってしまった。考える事をやめて、信じたくない今から逃げたくて、それが彼の為になるのだと彼の気持ちを分かったつもりになって、自分勝手な事を言ってしまったのだ。
クレナハーツがどれだけ優しい人なのか、自分は知っていたというのに。
この世界に来たばかりの時に訳が分からないまま絶対なる天啓に殺されかけていた自分を助けてくれたのも、面倒臭そうに文句ばっかり言いながらもカルディア城で働けるようにしてくれたのも、自分勝手に突っ走ってロウロの森でまた殺されそうになった自分の声に気付いてくれたのも、自分が死んでいた事を思い出して言い知れぬ不安に押し潰されそうだった時に声を掛けてくれたのも、全部、クレナハーツだった。
彼がどんな思いで助けてくれていたのか自分には分からない。けれど、彼に助けられて自分がどう思ったのかは分かる。その時の思いに嘘はないし、その時の思い出も嘘ではない。
――なんで、気付かなかったのかな……。
死んでしまった家族の復讐、間違いを犯してしまった贖罪、彼が口にしたここまでに至る理由の中にクレナハーツ自身の思いや願いはあっただろうか。災禍を復活させる事が家族の為であり世界の為であるとしても、そこに彼の為だと明言出来る何かはあるのだろうか。
優しい彼の事だから、彼の妹が亡くなったのも、デュランの兄が亡くなったのも、戦争が始まろうとしている事も、きっと何もかもを自分の所為だと思い込んで、何もかもを背負わなければと思い詰めたのかもしれない。
――クレナさんのせいじゃないよ。
口から出かかった言葉を慌てて飲み込む。勇者として魔王討伐の旅に出ていた頃の彼を知らない自分が言う権利などないと思った。
それでも、苦しげな表情で嗚咽と涙を堪える彼が消えてしまいそうなぐらい弱々しく見えて、いても立ってもいられず彼の頭に手を回して抱き寄せた。他人に触れている手が心とは裏腹に震えても、彼を離したら何処かへいってしまいそうに思えて、離してしまわないようぎゅっと抱き締める。
「なんの、つもりだよ……っ!」
何か言わないと、でもさっき飲み込んだ言葉では駄目だ、何か、何か。
焦って真っ白になる頭で必死に希美は考えた。
「わ、私は、今日、ここには、来てませんっ!!」
「……はあ!?」
咄嗟に口をついた言葉にクレナハーツが訳が分からないと言いたげに声を上げた。
それでも希美は必死に続ける。
「わ、私は、今日、ここに、来てません、来てないんですっ! だから、だから――クレナ、さんが、何をしたのか、私は、知らないんですっ!」
かつて彼がくれた言葉を返す事しか出来ない自分の無能っぷりに呆れを通りこして悲しくなる。
それでも、あの時もらった言葉を、あの時もらった温かさを、今のクレナハーツへ返したかった。
「クレナ、さんが、ここに、居た事も、何か、しようと、してた事も、何か、言った、事も、泣いたり、した事も、全部、何も、知りません、からっ!」
涙が込み上げてきて、どうしても情けない声になる。
泣きたいのはクレナハーツのハズなのに、何故自分が泣きそうになってしまっているのか分からなかった。
「だ、だから、だから――」
「……オマエ……それ、俺が前言ったヤツ、まんまじゃねぇか」
当然の指摘。瞬間、希美はいたたまれなくなる。
「第一、オマエ、ここまでどうやって来たんだよ。どーせ、ホロの転移魔法で来たんじゃねぇのか? ホロに頼んでおいて、オマエはここには来てないって言い張っても意味ねぇだろ」
「そ……それ、は……その……」
的確で鋭い指摘の数々が希美に突き刺さり言葉を詰まらせて怯むが、ここまできたらもう自棄だ、怯んでなどいられない。
「そ、それでも来てませんっ! き、来てたと、しても、何も聞いてませんっ!」
支離滅裂で自分でも何と言っているのか分からなくなってきた。
他人に触れて震える腕、口から心臓が飛び出そうなほど早い鼓動、正直なところもうそろそろ限界である。緊張でぐるぐる回る頭では碌な言葉が思い付かない。彼を抱き締めている腕の力を緩めようかどうしようか悩み始めた。
「わけわかんねぇ……」
クレナハーツは呆れたような疲れたような声でそれだけ呟くと、力無く項垂れて希美の肩に顔をうずめた。希美は小さく肩を跳ねらせてどうすればいいのか未だ混迷する頭で考えている時、ぐすっと彼が鼻をすする音が耳に届いた。
うだうだと考える事をやめた希美は、かつて彼がしてくれたように黙って静かに彼の頭を撫でる。彼の金糸の髪は見た目通りサラサラと滑らかで、太陽が隠れて曇った空の下でも輝いて見えた。
「……皆と、約束したんだ。魔王を倒して、絶対、平和を取り戻すんだって……」
しばらくの沈黙の後、クレナハーツはぽつりぽつりと話し始めた。
「それが、ミリィとロランとの約束だったんだ……なのに、今度は戦争があるって、偶然聞いちまって……どうすりゃいいのか、分かんなくなって……俺が、魔王を倒したせいだって思って……なら、俺が魔王になれば、平和を取り戻せるんじゃねぇかって……」
震える声。掛けたい言葉をぐっと飲み込んで希美は彼の言葉に耳を傾ける。
「けど……っ……そう、考えてたら、なんで俺ばっかり、辛い思いしなきゃなんねぇんだって、苦しまなきゃなんねぇんだって……この世界が憎くて憎くて仕方なくなって……どうせ魔王になるなら、こんな世界ぶっ壊してやるって……それしか、考えられなくなって……」
彼の肩が小刻みに震えているのが分かった。
「たぶん、俺らが倒した魔王も、それしか考えられなくなった勇者だったんだ……その前も、その前も、きっと……なら、怖い事なんてなにもねぇ……前がそうだったんなら、俺が魔王になっても、それが当然なんだ……っ」
押し殺しきれずに漏れ出た嗚咽に、胸が締め付けられるように痛んだ。
「なのに……なのにっ、怖いんだよ! 憎くて、憎くて、壊してやりたいって思ってんのに、なんで、出来ねぇんだよ……っ! ミリィも、ロランも、俺が殺したのに……これから、戦争で、他の奴らも殺すのに……知ってるヤツが居なくなるのが、怖いんだ……いつも、飽きるぐらい聞いてた声が、また無くなるのが、嫌なんだ……もう、嫌なんだっ……誰かが死ぬのは、もう見たくねぇんだっ!」
希美が薬草を採りにロウロの森へ行った時、助けに来てくれた事が純粋に彼女は嬉しかったが、彼は一体どんな思いで森まで走ったのだろうか。自分が救えたハズの誰かがまた死ぬかもしれないという恐怖を抱きながら一心不乱に駆けたのだろうか。
自分が前髪で隠して見えないフリをしていた間に彼が抱えていた苦しい胸の内を聞くたびに自分の胸も苦しくなって、涙が目尻から零れ落ちる感触にようやく自分も泣いていた事に気付いた。
貴方は十分過ぎるほど頑張った、貴方は何も悪くない、悪いのは気付いていながら見て見ぬフリをし続けた自分達の方だ、彼に掛ける言葉はいくらでも思い浮かぶが希美は頑として口に出さず全て飲み込んだ。当時を知らない自分は何も言うべきではないと思った。これは彼が自分自身で折り合いをつけて、彼が最も恨んでいるものを許さなければ解決出来ない事だ。
――それでも、クレナさんの話を聞くだけなら、私にも出来る事、だよね?
言葉の代わりに、嗚咽を押し殺して泣く彼を今までよりも強く強く抱き締めた。
こうして、悪にも正義にもなりきれなかった勇者の小さな反抗は終わりを告げた。




