私が君のためにできること
そこは音もなく色もない、荒れて寂れた悲しい空気に満ちた場所だった。
激しい大雨も荒れ狂う暴風もそこにはなく、空はただ静かに太陽を鎮座させて白い雲をその周囲に泳がせている。けれど太陽の温もりは不気味なほど感じず、この地を照らす事など無意味だと悟っているかのようだ。
地面は土の柔らかさなど皆無に等しいほど乾ききっていて所々ひび割れている。無造作に転がった石や岩は風化して朽ちていくのを待っているように見えた。
雑草の類も見つからず、雑草どころか可憐な花も見慣れてしまった青々とした木々もない。唯一葉のない枯れきった木々が、あるものは立ち尽くし、またあるものは倒れ伏している。
それ以外は何もない。しん、とすべてが死に絶えたような空気が耳に痛いほど響く。この場に立っているだけで冷や汗が噴き出す。まるで、この世の終わりにでもいるかのような錯覚に陥った。
――ここが、ワールドエンド……。
得体の知れない恐ろしさを肌に感じながら、希美は心の中で呟いた。
この地のどこかに災禍が封印されていて、この地のどこかにクレナハーツが居る。
そこで、はたと重大な事に気付く。
――クレナさんは、どこに居るの?
地面の起伏が激しく地平線が見えるほど見通しのよくない地理だが、どこまでもどこまでも永遠に続いていそうなほど広く感じるこのワールドエンドで一人の人間を探す。勿論、当ても目印も目標もない。
見つけられるハズがない。
とにかく虱潰しに歩いて回るしかないのだろうかと頭を抱えてうんうん唸る希美を見兼ねて、カカが彼女の足を軽く尻尾で叩いて自分へ注目させると真っ直ぐ歩き出した。
『こっちだよ』
振り返り、希美に付いて来るよう促した。
思わぬ先導者に希美はほっと安堵の息を吐いて、何の疑いも持たずにカカの後に続いてワールドエンドの大地を歩き出す。
その背後で、カルディア城へと繋がる時空の裂け目は静かにその大口を閉じた。
乾燥して干からびた土、というよりも砂利を踏み締める普段なら些細な音が、死に絶えたような静寂の中に響き渡る。
延々と続く現実感の欠如した景色に、次第に焦りと怯えが心の中に溢れ出して歩を進める足を重くした。
ロウロの森へ一人と一匹で向かった時には、薬草を必ず採って帰るのだという使命感と魔物は最近掃討されているという安心感があってこそ、見知らぬ土地で見知らぬ場所へ一人で向かう事への恐怖心に耐える事が出来ていた。けれど今回は違う。クレナハーツを止めなければという使命感はあるが、話し合いで止められる問題なのか、もし止められなかったら自分は殺されてしまうのだろうか、それとも自分が彼を殺して止めなければならないのだろうか、という底知れぬ不安と繰り返すだけの自問ばかりが降り積もり、使命感など既に埋もれてしまった。
心細さに両手を胸元で固く握り締めると懐に仕舞ってある短剣に触れた。受け取ってしまった彼の命を奪う手段は一歩、また一歩と彼へと近付くたびにその重さを増していく。
臆する足を叱咤してカカの後に続いて小高い丘を登り終え、荒い息を整えつつ眼前の景色を見る。
やはり、見渡せる範囲は延々と音も色もない世界が続いていた。
『あそこが、災禍が封印された場所だよ』
カカが尻尾で指し示した所を見ると、一ヶ所だけ、隕石でも落ちたのかクレーターのように円環状に盛り上がった地面に囲まれた円形の盆地があった。円形の盆地は岩の凹凸もなく真っ平らで周囲の地面より明らかにへこんでおり、天変地異でそうなったというよりも人為的な何かで抉られたかのような、あるいはその部分だけ綺麗に切り取られたかのような印象を受ける。
その盆地の中心辺りに、一つの人影。
こちらに背を向けて立つそれが誰なのか、希美にはすぐに分かった。
希美は二、三度深呼吸をすると、震える唇をきゅっと引き結び、クレーターへと向かった。
円環状に盛り上がった地面まで行き崖になっているギリギリの淵から下の盆地を覗き込むと、遠目では分からなかったが飛び降りられない事はないもののそれなりの高さがあった。
飛び降りる以外に方法はないかと辺りを見回した時、足場にしていた箇所の崖が崩れてバランスを崩した希美はそのまま盆地へと落ちてしまった。
「ふぎゃっ」
干からびてひび割れている地面は見た目通り固く、まともに受け身を取れずに打ちつけた身体が普通に痛い。希美はしばらくそのままの体勢で痛みに悶える。
『……ノゾミ、こっちに階段あったけど……』
希美が盆地を覗き込んでいたそのすぐ隣にあった人の手で綺麗に整えられた階段を下りてきたカカが気まずそうに言った。
「――オマエ、やっぱりバカだよな」
盆地に立つその人、クレナハーツはそう言って希美の方を振り向いた。
そこまで大きな声ではないのに音のない世界では十分過ぎるほどよく響く。
希美は痛む身体を摩りながら立ち上がり、向き合う事が怖かったのでいつもの癖で前髪を手櫛で梳いて視界を遮ろうとしたが、そこで前髪を切られてしまっていた事に気付き慌てて視線をそらした。
そして視線をそらした先、クレナハーツの背後に遠目では分からなかった何か黒い靄のようなものがある事に気付く。
靄は夏場の炎天下に晒された地面で見かける陽炎のように揺らめいて、その先の空間を歪ませている。黒い、と形容したが靄自体は無色透明で、揺らめいて歪んだ景色が岩と枯れ木の色しかないこの場には無いハズの真っ黒な色をしているようだ。その歪んだ景色の向こうから、何かが這い出そうともがいているかのように見える。ぞっと身の毛がよだつほどの恐怖を感じた。
「オマエの髪の毛使っただけで、ここまで復活したんだよ。本当に、生贄なんだな」
希美の視線が背後に向いている事に気付いたクレナハーツが言った。
立っているのがやっとな程の重苦しく息苦しい気配を放つ陽炎の中で蠢く黒い靄が、災禍。
髪の毛はカルディア城でクレナハーツに掴まれた際スティが切り落としたものだろう。それだけで復活の兆しを見せる災禍に、自分は間違いなく災禍の生贄なのだと二番目に受け入れたくなかった現実を突き付けられた。
「あ……あ、の……く、クレナ、さん……その……もう、やめま、せんか……?」
地面に視線を落として控え目に言った。
「やめる? 何を?」
「さ、さいか、の、ふっかつ……です」
「あぁ、死にたくねぇって訳か」
「ち、ちがい、ますっ! その……さ、さいか、が、ふっかつしたら……えと……」
確かに死にたくはない。それは本心だ。元居た世界で死んだハズの自分は何の因果かこの世界では生きている、折角命拾いしたというのに死にたいなどと考えられるわけがない。
けれど、この世界が滅んだら、自分はどうなるのだろうか。
自分だけじゃない。スティにホロにアーニャにデュラン、そしてクレナハーツはどうなるのだろうか。
それを考えるのが、何よりも、自分が死ぬ事よりも、辛くて苦しい。
「……世界を滅ぼすな、か……じゃあ訊くけどよ、この世界を救う価値ってあるのか?」
「え……」
魔王を倒して世界を救った勇者にあるまじき発言に希美は言葉を詰まらせた。
その価値を最も知っているハズなのは、つい最近この世界に突然来てしまった未だ右も左も分からないような異世界人の自分ではなく、目の前にいる勇者と讃えられたクレナハーツではないのか。
クレナハーツは淡々と続ける。
「俺はあると思ってた。だから、ミリィが死んでもロランが死んでも、魔王を倒す為に戦った、戦えた。魔王を倒して、カルディア国に凱旋して、優秀な騎士団長も有用な精霊使いも死なせたクセに英雄なんていい御身分だって皮肉られても、それでも世界が平和になるなら、それが死んだ二人の願いなんだから、なんて言われても耐えられた。なのに――」
拳を固く強く握りしめた。
「なのに、今度は戦争だぁ!? ふざけんなっ!! 俺は、俺達は、戦争始めさせる為に魔王を倒したんじゃねぇ!! 平和になるって、そう信じて戦ったんだ!! これじゃあ、魔王を倒した俺達が間違ってたみたいじゃねぇか!! 旅も戦いも、ミリィが、ロランが死んだのも、全部間違いで、意味のねぇ事だったのかよ……?」
最初は荒々しく強かった語気も次第に弱くなっていく。
希美は何も言えず、ワールドエンドが再びしんとした空気に包まれた。
「……だから、こんな世界、ぶっ壊すんだよ。これは、俺の家族を殺した世界への、復讐だ」
その言葉で決意を固めたクレナハーツは一気に希美との距離を詰める。
武道や戦いの心得など持ち合わせていない希美は当然反応する事など出来ず、胸倉を掴まれてようやく危険だと呆けた頭は気付いたが、そのまま足払いをかけられバランスを崩してしまい背中から地面に押し倒された。
先程したたか打ちつけたばかりの身体に追い打ちをかけられ、息が詰まり、痛みに涙が滲んだ。
胸倉を掴んだまま地面に押さえつけて希美に馬乗りになり、クレナハーツは怯えた表情を浮かべる彼女を冷酷に見下ろしながら剣を抜く。彼の表情は逆光でよく見えない。
「俺は、魔王になるんだ……魔王になるのが、間違っちまった俺の、唯一の贖罪なんだよ」
抜き身の刃が首筋に当てられ、金属特有の冷たさに身震いした。
希美は結局何も言えなかった。何も答えられなかった。話し合える余地など最初から無かったのだとようやく痛感する。それと同時に、酷く悲しくなった。
その悲しさは彼を止める事が出来ない無力な自分に対するものなのか、復讐や贖罪という言葉で奮い立たせるしか全てを敵に回す決意を固められない彼に対するものなのか、それともそんな彼を生み出した非情な運命と無慈悲な世界に対するものなのか、判断がつかない程に深く、短剣を手に取り彼に突き刺す気など微塵も湧かなかった。
――このまま、クレナさんに殺されたら、災禍が復活して、この世界は滅ぶんだよね……。
もし復活しなかったとしても、彼は晴れて魔王への道を一歩踏み出す事になる。そしていつか新たな勇者によってその命を終えるのだろう。勇者クレナハーツではなく、魔王として。
魔王へと堕ちていく彼を、命の恩人を止める術を持たない自分がとても歯痒かった。
何度も何度も絶対なる天啓から守ってくれた、助けてと零れた声に気付いてくれた彼に、何一つ恩を返せていない。それなのに死ぬなど御免こうむりたい。けれど彼の決意は固く、ここに至るまでの悲しみも苦しみも他人には計り知れない程に深く暗い。
――私は、なんでこの世界に来たのかな?
災禍の生贄となる為だけにこの世界へ呼ばれたのだろうか。
災禍の生贄となる事が私に課せられた宿命なのだろうか。
もし、そうだとするならば。遅かれ早かれ災禍を復活させてしまうのならば。
――それなら、今、クレナさんに殺された方が、クレナさんの願いを叶えられるなぁ。
世界が滅ぶ、それはこの世界の消失を意味する事なら、この世界に住まう人々の命が尽きる事なのだろう。その人々の中には災禍を復活させたクレナハーツも例外なく含まれる。そう考えると災禍を復活させるという事は全世界を巻き込んだ無理心中のように思えてきた。
全てが等しく命を刈り取られる。その一瞬に恐怖を感じる暇はないのかもしれない。
それならいっその事、彼の復讐したい、贖罪したいという願いを叶えて、世界が滅ぶその一瞬の間だけでも彼の心を満たしてあげては駄目だろうか。
幾度も幾度も自分を救ってくれた彼へ、自分が出来る最初で最後の恩返し。
彼を止める力を持たない無力な自分に唯一与えられた、世界を滅ぼす鍵。
――あげたら、クレナさんは救われるかな?
クレナハーツに会わなければ、この世界へ来た瞬間に絶対なる天啓に奪われていた命だ。
今さら、何を惜しむ必要がある。
「――いい、ですよ」
決意とは裏腹にみっともなく震える小さな声で希美は言う。
「さ、さいか、を、ふっかつ、させて、えと、せかい、を、ほ、ほろぼし、ちゃって、いい、ですよ」
言葉にして改めて死を決意すると、身体が震え出して死にたくないと脳が心臓が叫ぶ。
それら全部を押し殺すように拳をぎゅっと握りしめた。
「わ、わたしが、く、クレナ、さんの、ために、で、できる、ことって、これくらい、しか、な、ない、ですからっ」
これ以上話したら情けなく泣いてしまいそうだった。
きゅっと唇を引き結んで、振り下ろされる剣を見ないように目を瞑る。
太陽が雲に隠れて翳り出した世界で、揺らめく陽炎の中に蠢く黒い影が嗤ったような気がした。




