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ネガティブ戦線  作者: 楽夢智
前編 「もう終わりにしよう」と闇が囁いた
3/60

森の中の逃避行

自分の現在地も分からない森の中を、希美は青年に手を引かれ走り抜ける。

運動の苦手な彼女は青年のペースに合わせるのが難しく、走っているというより引っ張られていると表現したが正しいかもしれない。

後ろから聞こえてくるのは獣の唸り声や吼え声。

迫る恐怖が希美の背中を押して走らせる。

息が苦しい。足が痛い。

――でも、今立ち止まったら、この人に迷惑かけちゃう……!

持ち前の鈍臭さから数え切れないほど他人に迷惑をかけてきた希美にとって、それだけは嫌だった。

脳裏にこびり付いた、迷惑をかけられた時のうんざりしたような、苛立ちを浮かべた表情。

不甲斐なさから自己嫌悪に陥った。

だから、苦しいのも痛いのも我慢して走るだけで迷惑をかけないで済むなら良いじゃないか。

希美は気力だけで足を必死に動かし続けた。


「きゃっ」


しかし、慣れない森の中。

木の根に躓き顔面から地面に倒れ込んだ。

口の中に土の味が広がる。

「おい、早くしろ! 追いつかれるぞ!!」

青年がすぐに駆け寄り起こしてくれた。

けれど希美の体力も気力も、転んだ拍子にぷつんと切れてしまっていた。

ぜぇぜぇと肩で息をし、足はがくがくと震えて上手く立ち上がれない。

「さき、に……さきに、行ってくだ、さい……」

顔を覆う乱れた黒髪の隙間から、希美のか細い声が漏れる。

これ以上は親切な青年に迷惑をかけてしまう。

「わ、わたし、は……だいじょ、ぶ、です……だ、から――っ!?」

早く逃げて下さい。

そう言いかけて、驚きで息が詰まった。

青年が両腕で希美を抱き上げた――いわゆるお姫様だっこをしたからだ。


「明らかに狙われてんのはオマエだろ!!」


至近距離から聞こえる声にびくりと肩を跳ねらせた。

声も近いが顔も近い。

前髪を間に挟んではいるものの希美は気が気じゃなくなった。

青年が端正な顔をしているから、ではなく至近距離に他人の顔があることと、他人に触れられていることへの恐怖。

それから手を煩わさせてしまった事に対する自己嫌悪。

青年はそのまま先程と変わらない速度で走り出すので落とされないよう服にしがみつく。

不可抗力ながらも他人へ触れることに手が震えた。

青年から目をそらして彼の肩越しに後ろを見た。

そこには今まで唸り声しか聞いていなかった複数の獣の姿。

希美は目を疑い、ひっと息を呑む。

その姿は狼に似ていた。

しかし希美の知っているそれよりも大きく、全身を覆う真っ黒な体毛からギョロリと真っ赤な双眼がこちらを狙っている。

牙は人間の腕ほどもあり、爪は走るたびに地面を深く抉り傷つけた。


こんな生き物を、希美は知らない。


あんな化物が追ってきていたのだと初めて知り凍り付いた。

きっと自分の足で走っていたら恐怖のあまり足が地面に縫い付けられて動かせなくなっていただろう。

化物は速く、追いつかれるのは時間の問題だ。

しかも未だ森は深く広がっており、追いつかれる前に森を出ることは不可能に思われた。

――結局私は、人を巻き込むだけ巻き込んで、迷惑をかける事しか出来ないんだ。

不甲斐なさと申し訳なさが鼻の奥をつんと刺激した。

無情なまでの木々の色彩を見ている事が辛くなり、きつく目を瞑る。


「ホロ!!」


何事かを青年が叫んだ。

希美は驚いて青年を見上げ、そして青年の見ている前方を見た。

バチバチっという音がどこからともなく聞こえた次の瞬間、眼前の景色に突如青白い光を伴った一筋の線が走る。

線は上下に大きく裂け、その中の景色はいい加減に見飽きた森ではなく、本が机にも床にも山積みになった屋内だった。

驚く希美をよそに、青年は躊躇うことなくその裂け目に飛び込んだ。

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