絞り出した声はあまりにもか細かった
息を切らせながら、希美は土と木の根と草花が氾濫する闇夜に包まれた森を走る。
何度も躓き、転ばないように近くの木の幹に手をつき、立ち止まる事なくまた走る。
手にはしっかりと薬草を包んだハンカチを持ち、胸の辺りで強く握り締めた。
もう、自分がどこを走っているのかも分からない。
混乱した頭では、森を案内してくれていたカカといつの間にかはぐれてしまっている事に気付けず、道を照らす明かりがないここでは空を覆い隠す木の葉の隙間から僅かに零れる月明かりだけが頼りだった。
ただひたすら、後ろから聞こえる自分以外の人の足音から逃げ続けた。
早くもなく遅くもない、走っているとまでは言えないその足音は今の状況を楽しみ、逃げれるものなら逃げてみろと言っているようだ。
風に揺られた木々が闇雲に逃げ続ける彼女を嘲笑う。
息苦しさと足の痛みと恐怖と不甲斐なさと自己嫌悪が混ぜ合わさったものが胸に大きな塊として圧し掛かり、更に胸が苦しくなって視界が滲む。
どこまで走ればいいのか、森を抜ければすべてが終わるのか、一つも答えが分からないまま踏み出した次の一歩は、地面を踏まなかった。
「え?」
一歩先も十分見通せない暗闇の中、伸ばしっぱなしの前髪が遮る滲んだ視界では、その先が急な傾斜になっている事など気付けやしなかった。
バランスを崩し、ふわりと体が宙に投げ出される嫌な浮遊感が身を包む。
希美は咄嗟に薬草を失くしてはいけないと思いハンカチを庇うように両手で握り締め、ぎゅっと目を瞑った。
無論そのような体勢で受け身がとれる訳もなく、体を地面や木々に打ちつけながら転がり落ち、傾斜が終わり平坦な地面になった所でようやく止まった。
足をとられ続けた柔らかな土だった事が幸いし、転がり落ちた事は大きな怪我に繋がらなかったようで希美の意識ははっきりしている。
だが、したたか打ちつけた体には鈍痛が走り、起き上がろうと腕に力を込めるだけで痛みに顔が歪む。
なんとか上体を起こす事は出来たが、走るどころか歩く事も、立ち上がる事さえ難しい。
どうにかしなければ、という思いだけが先走ってしまい焦る。
「追いかけっこは、もう終わりか?」
声の主は急斜面の上から飛び降りて、希美のすぐ近くに悠々と着地した。
希美は思わず後ずさりするが、走り続けた疲労と全身の痛みからそれ以上動く事は出来ない。
「な……なん、で……ころす、の……?」
もう逃げられないと悟った希美は何も理由を知らないまま殺されるなど嫌だと思い、掠れた声で小さく訊ねた。
「なんでって、生贄ちゃんを殺したら災禍が復活するからに決まってるじゃん」
訊ねる意味が分からないとでも言いたげに首をかしげて、さも当然のように答える。
奇しくもホロが上げた一番有力な憶測は当たってしまっていたらしい。
「さ、さい、か? を、どう、して、ふっかつ、させたい、の……?」
「……さあ? なんでだろうね?」
とぼけている訳ではなく、本当に今まで考えた事がないような言い方だった。
「教主様が復活させたいって言ってるから、っていうよりは……災禍が復活したらこの世界がどうなるのか楽しみ、って感じかな」
心底楽しそうな笑顔が、身に纏った黒い外套が闇に溶け込んでいる中で嫌というほど際立っていた。
楽しいから、面白いから、特に明確な理由は必要ない。
――元の世界と、おんなじなんだ……。
鈍臭いから、目障りだから、それだけの理由で冷酷になれた同級生達。
その同級生らと今目の前にいる男、希美には同じ存在にしか見えなくなっていた。
自分の命を軽んじて、自分の生死を面白がって、自分を傷付ける事しか考えていない、自分に向けられる楽しさに歪んだ目の恐ろしさ。
自分がどれだけ辛く苦しい思いをしていても、周りを見れば今そこにいる男と同じ笑顔を浮かべた皆が居た。
今の状況をようやく呑み込めたのか、昔を思い出したからか、ようやく体がカタカタと震え始め、呼吸が上手く出来なくなる。
ザクッ、ザクッ、と男が一歩また一歩と希美に近付く。
どれだけ叫んでも、どれだけ泣いても、誰も自分の声に気付いてはくれず、周りはいつもの笑顔を浮かべていた。
どうせ誰も気付いてくれないのならば、叫ぶのも泣くのもやめて、全部自分が悪いのだと自虐と自己嫌悪の殻に閉じ籠った。
ザクッ、ザクッ、と男が近付くたび、男の笑顔がより深く、より鮮明になる。
その笑顔をとても見ていられず、希美は目を瞑り、記憶から聞こえてくる笑い声に、両手で耳を塞いだ。
叫んでも、誰も気付かない。
泣いても、誰も気付かない。
分かっていても、声に出さずにはいられなかった。
「だれかっ……たすけてよぉ……」
恐怖に震え、嗚咽に溺れ、呼吸もままならない状態で絞り出した声はあまりにもか細く、闇に沈んだ静かな森へと溶けて消えた。
しかし、先程の転落の音を聞きすぐ近辺にまで来ていた、幼い頃から野山で狩猟をしてきた彼にはそれで充分だった。
「ノゾミッ!!」
彼は茂みから飛び出し、鞘に収めたままの剣で男に殴りかかる。
突然の襲撃者に対応出来なかった男は防ぐ間もなく腹を打ち据えられ、その勢いのまま背後の木に叩きつけられた。
お腹を押さえて呻く男を、彼は剣を鞘からは抜かずに構え、希美の前に立ちはだかり肩で息をしながら睨みつける。
呼ばれた名前に弾かれるように目を開けた希美は、呆然と彼の背中を見た。
金髪碧眼の勇者、クレナハーツがそこに居た。