ただひたすらに
夜の帳が下り、仕事も終わり床に就く準備を済ませてベッドで横になったものの、希美はいまひとつ眠れず意味もなく寝返りをうっていた。
同室のアーニャは「まだ仕事があるから」と言って部屋を出て行っており、今この部屋に居るのは希美と、彼女の足元で布団の上に丸まって眠るカカだけである。
カカについてはアーニャにもメイド長にも了承済みだ。
精霊術や言葉を喋る事に関して嘘をつくのも憚られたので、そんな事あるわけないと笑われるのを覚悟で洗いざらい説明したところ、意外にもあっさりと分かってくれた。
なんでも、動物が精霊術を使う事も言葉を喋る事も確かに珍しいがない事ではないらしい。
むしろ動物の方が自然と密接に関わっており、人間よりも精霊とコンタクトをとり易いそうだ。
かつて"災禍"と対峙した勇者もそんな感じの動物を連れていたという。
そういう事で、カカはめでたく希美のペットとして認定され、希美もカカの精霊術によるバックアップのおかげでまともに仕事をこなす事が出来始めている。
猫に助けられなければまともな仕事が出来ないという現実に情けなさは痛感しているが。
しかし、希美が眠れないのはその事ではなく、クレナハーツらの事である。
複雑な事情のある人間関係も気になるし、クレナハーツやデュラン騎士団長が兄妹を亡くしている事も気になるが、こればっかりは希美が何か行動を起こして解決出来る問題とは思えない。
その事情に関して詳しいところが分かっていない自分が励ましの言葉をかけたところで、一体何の力になれるというのだろう。
――ホロさん、大丈夫かな……。
今頃、スティは寝る間も惜しんでホロの看病をしている。
世界を救った英雄たる勇者の仲間が倒れたとなれば色んな人達が心配したりお見舞いに行ったりするのではと思っていたが、皆の反応は予想以上に薄情だった。
話す内容は違っていても、大体の理由は「魔王を倒した勇者の仲間がこの程度で死ぬわけがない」というもの。
特別視するのは理解出来るが、それとこれとは別の問題なのではないだろうか。
それとも、そう考えてしまう自分がおかしいのだろうか。
――でも、私に出来る事って、ないもんな……。
スティに代わって看病を買って出たとしても、更に悪化させてしまうに決まっている。
そして、そうやって何もしないという事は、自分も「この程度で死ぬわけがない」と思っている一員と大差ない事になる。
そんな考えがぐるぐると頭を巡って、寝付けない。
自分は彼に助けてもらったのに、自分は彼を助ける事が出来ない。
何か、よく効く薬とかが分かれば、それを探してくる事も出来るのに。
――そ、そうだ! 薬!
思わず飛び起き、カカを起こしてしまったかと思って足元を見たが相変わらず眠っているようで少し安心する。
何故今までこの考えが思い浮かばなかったのか。
看病も出来ない、医学の知識もない、魔法も精霊術も使えない、そんな人間でも薬を見つけて持ってくる事は可能ではないか。
薬学も製薬も技術はないが、薬草ぐらいなら本で生息域を調べてそこへ行けば見つけられる。
思い立ったが吉日、希美はカカを起こさないよう慎重に布団から出て、寝間着でうろつくのは良くないと思い仕事着であるメイド服に着替えると、静かに扉を開けて廊下へ出た。
静寂に包まれた薄暗い城内に少し怖じ気づきつつ、ゆっくりと音をたてないように歩いていく。
等間隔に置かれた燭台の明りは既に消されているが、希美が元居た世界よりも明るめの月明かりが照らしているおかげで真っ暗ではないのが救いだ。
まずは書庫で薬草に関する本を探さなくてはいけない。
ここカルディア城にも、ツァラトゥストラ書院には遠く及ばないものの立派な書庫があり、魔術書や戦術書、それに医学書といった需要の高いものが蔵書されている。
そこを案内された時に本の背表紙にこの世界のものであろう文字で書かれた題名を何の気なしに読めていた事につい最近気付いたので文字は読める。
――それにしても、薄暗い城って結構怖いなぁ……おばけとか出ないよね……びっくりしたら花瓶とか割っちゃいそう……。
昼は鮮やかな色彩溢れる煌びやかで絢爛な世界なのに対し、夜になるとその鮮やかな色彩はくすみ、煌びやかな輝きもない世界に変わった。
唯一ガラス細工の花瓶は月の光を反射して淡く輝いている。
現在の王様と王妃様と王女様が描かれた絵画の目が光るんじゃないかとか学校の怪談じみた怪現象を想像し、また更に震え上がった。
心細い思いをしながら進む廊下の先にようやく書庫が見えてきた。
ほっと安堵の息をつこうとしたが、開けっ放しの扉から明りが漏れている。
つまり、人が居る。
本を読みに来た程度の事でこそこそしなければならないわけがないのは重々承知しているものの、目立ちたくないし、人見知りだし、とにかく対人関係については下の下である。
そっと中を窺ってみると、黒い外套を纏った人が入口に背を向けて椅子に座り、机の上に五、六冊程積み上げられた本の一冊を読んでいるようだった。
椅子の背もたれに隠れてよく見えないが、外套には赤い模様、恐らく幾何学模様を複雑に組み合わせた魔法陣が描かれているのだろう。
希美には覚えがある、あの外套は魔道兵団のものだ。
アーニャに城内を案内してもらった際に、言い方は悪いがやたらと目立っている怪しい外套を身に付けた人をちらほら見かけ、思わず何者なのか訊ねた際に教えてもらった。
騎士団が武道の心得を持った人材で構成された組織ならば、魔道兵団は魔道の心得に精通した人材で構成された組織である。
怪しい外套は制服のようなもので、これを着ている人は主に治安維持を担当しており、その為この場に魔法を使える存在が居る事を周囲に知らせる為に着用しているらしい。
そして外套を着ているのが魔道兵団であると認識させる事で、彼らの主目的である諜報活動が行いやすくなるのだそうだ。
しかしそれ以外は騎士団と似たり寄ったりな仕事なので、このカルディア国の二大組織は仲が非常に悪い。
デュランとアーニャの仲が悪いのも、彼女の親戚が魔道兵団にいるからだとか言われているが所詮噂なので真偽の程は定かでない。
――ここまで来て部屋に戻るのも嫌だし……こっちに気付かない、よね……?
扉から入ってすぐの左手側に本棚がずらりと並んでいる。
読書に勤しむ魔道兵団員が振り返る気配はない。
希美は気配というものを消せるよう息を殺して、そっと書庫に足を踏み入れ、足早に本棚の影に隠れた。
隠れた本棚が丁度医学書のコーナーで、早速薬草の事典を探し始めた。
魔法や精霊術があってもやはり医学は発達するようでそれなりに充実している。使える人ばかりではないようなので当然といえば当然だ。
本を探し始めて数分、ようやく題名に薬草の文字が入った分厚い本を見つけた。
雪崩を引き起こしてしまわないよう慎重に取り出し、見た目通りずっしりと重い本によろめき、立ったまま読むのは困難そうだったので近くに机か椅子か無いかと探したが無い。
希美は心の中で本に謝りながら床に本を置き座り込んで読む事にした。
切り傷に効く薬草、解熱作用のある薬草、低下した体力・免疫力を回復する薬草、魔力を増強する薬草、それぞれの植物や動物や魔物の毒を無毒化する薬草各種……。
希美ははたとある重大な事に気付き、ページを捲る手を止めた。
――ホロさんの症状って、なに?
確か足の古傷が毒とかで痛んで高熱が出ていた、はずだ。
なら熱を下げる為の解熱薬が良いのだろうか、はたまた消耗しきった体を癒す体力回復薬が良いのだろうか、いや古傷とはいえ傷薬が効くのではないだろうか、そうなると毒を見逃せないから解毒薬の方が重要かもしれない、だがその毒は植物だったか動物だったか魔物だったかさえ分からない。
そもそも薬草と言えど薬、飲み合わせとか用法要領とか決められたものがあるのかもしれない。
さっきまでの勢いは萎み、希美は項垂れてため息をつく。
結局自分にできる事などないのだ、知っていた、分かっていた、でも諦めきれなかった、力になれるのなら力になりたかった。
鈍臭くて人見知りで他人に迷惑ばかりかける自分でも出来る事があるのなら、それに全力で取り組む覚悟はいつだってある。
自分だって誰かの役に立ちたい、でもその思いに力量が応えてくれない。
――また、何も出来ないのかぁ……。
自分がこの上なく惨めに思えて鼻の奥がつんとする。
『この薬草が効くはずだよ』
誰か声を出して叫ばなかった彼女を褒めて頂きたい。
読書をしていた人かオバケかすぐに判断できず、しかしこんな夜中に悲鳴を上げて現在就寝中の方々を起こしてしまってはいけないと微妙に冷静な思考でとにかく喉元まで出かかった悲鳴を噛み殺し、反射的に本から間合いをとる。
早鐘を鳴らす心臓を両手で押さえ声の発信源をばっと見た。
声の主は床に広げた薬草事典のすぐ脇に居たのだが、完全に自己嫌悪の海に沈んでいた希美は声を掛けられるまでそこに誰かが居ると気付けなかった。
声の主たるカカは耳を垂れ下げ、悲しそうな表情をして尻尾で本を軽く叩く。
『そんなに驚かないでよ。ちょっと傷つく……』
「ご、ごめんなさい……」
小声で謝り、おそるおそる開きっぱなしの薬草事典に近付く。
カカはその長く白いふさふさの尻尾で本に書かれている一つの薬草を指した。
『あのホロっていう人の状態はちゃんと確認したから、この薬草があれば少しはマシになるはずだよ』
その薬草は薄い緑の細い茎と葉から成り、一年を通して多くの小さな白い花を咲かせる愛らしいもので、魔力や体力を回復する効用があるようだ。
「あ、あれ? どこに生えてるのか、書いて、ない、です……」
『この近くならロウロの森にあったと思うよ。わたしが案内してあげる』
「すみません……あ、ありがとう、ございます」
希美はこの薬草の形状や特徴を細部まで目と脳に焼き付ける。
十分憶えたところで本を閉じ、床に置いた所為で汚れたかもしれない表紙を軽く払い、本棚の元々あった位置に戻す。
そして最初と同じように息を殺してそっと書庫を後にした。
目指すは、ロウロの森。