旅路の果てに僕ら
白猫のカカに急かされて庭園の掃除を終えた希美は報告の為にアーニャを探して城内を歩いていた。
希美の隣を優雅な足運びでカカが歩く。
未だ得体は知れないが、真っ二つに折れていた筈なのに繋ぎ目も分からない程完全に修理された箒を見て、悪い人、もとい悪い猫ではなさそうだと希美は思った。
辺りを見回しながら廊下を歩き、ある扉を横切ろうとして立ち止まる。
扉の向こうから微かにアーニャと思しき声が聞こえたのだ。
思しき声であって確かに彼女だと断定出来ない上に扉はしっかり閉じてあり、わざわざ開けなければ中を窺う事も出来ない。
ここはノックをして扉を開けるべきだろうか。
だが部屋からは複数の人の会話が聞こえるので、お取り込み中だと判断して邪魔になってしまう行為はやめておくべきだろうか。
『……開けないの?』
カカが訊ねる。
目立つ事は避けたいが、このまま仕事をせず城内を歩き回る事も避けたい。
希美は意を決して扉に近付いた。
――小さくノックして、静かに扉を開けて、こっそり中を見て、アーニャさんが居なかったらそっと扉を閉めれば大丈夫だ。うん、大丈夫。きっと大丈夫。絶対大丈夫。
大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせ、扉を叩こうとした。
「オレはぜってぇ許さねぇからな!!」
「ふぎゃ!?」
内側から勢いよく開かれた扉は、目前に立っていた自己暗示に専念し周囲の観察力に欠けた希美を巻き込み壁に叩きつけられた。
扉を開けた犯人は扉を開いた手の感触がいつもと違う事に怪訝な顔をする。
そっと手を離し、押し付ける力が無くなったので希美はふらふらと扉と壁の間から這い出した。
「わ、悪い! 大丈夫か?」
明るく活発そうな印象を受けるオレンジの髪をした彼はようやく希美の存在に気付き慌てて謝る。
「ほ……箒は無事です……」
「は? ホウキ?」
「あ、い、いえ、なんでも、ない、です! 平気、です。大丈夫、です。すみません……」
冷静に考えて、箒の安否を気にする問い掛けではなかった事に気付き赤面した。
彼が心配そうに見る希美は、金属製ではないもののそれなりに丈夫な扉にぶつかった手や鼻の頭は赤くなっている。
たんこぶは出来ていないが、そのままの勢いで壁にぶつけた後頭部に痛みもある。
こんなにも勢いよく扉を開いていたら、いつか絶対壊すのではないだろうか。
「ちょっと、何やってくれてんのよ!」
彼の頭を部屋の中から全力投球されたトレイが直撃し鈍くも軽い音が鳴る。
希美は驚いてどうすればいいのかオロオロしながら、丁度足元に転がってきたトレイと彼とを交互に見て、とりあえずトレイを廊下に転がしておく訳にはいかないと思い持ち上げておいた。
相変わらず調度品は高級そうなものばかりで、今回投げられた哀れなトレイも銀細工で出来ている。
余程の事があったとしても、希美には投げる事など出来そうもない。
「扉壊したら誰が修理すると思っているの? だらん騎士団長様の分際でこっちの仕事増やさないでくれる?」
トレイを投げつけた張本人であるアーニャが、腕を組み憤然とした態度で言った。
頭を抑えて彼はアーニャの方へ振り返った。
「だーかーらー! オレはだらんじゃなくてデュランだっつってんだろ! 人の名前もロクに憶えらんねぇのに仕事が出来てんのか?」
「仕事もしないサボり魔が何をほざいていらっしゃるのかしら」
「へー、とうとう耳も遠くなったみてーだな。お・ば・さ・ん」
「レディに対して随分と無礼な言葉を吐ける素敵な口をお持ちだこと。僭越ながら、あたしがその口を縫い付けて差し上げましょうか?」
顔を突き合わせ、売り言葉と買い言葉の応酬を繰り広げるアーニャとデュラン。
騎士団長と仲が悪いらしい、との噂を聞いただけの希美は、初めて実際に目にする件の仲の悪い口喧嘩に困惑するしかない。
仕事の報告とカカの説明とをしなければと思ったが、とても言い出せる状況ではないのは一目瞭然だ。
「……ノッちゃん?」
部屋の中からいつか聞いた事のある中性的な声が呼んだ。
希美が部屋の中を覗くと、ベッドの脇に置かれた椅子に座るスティの姿があった。その近くにはクレナハーツも居る。
思い出す、この部屋は勇者クレナハーツらに宛がわれた部屋だったと。
「スティ、さん」
名前を呼んだ後に、さん付けでも呼び捨てでもなく"スティちゃん"と呼ぶように言われていた事を思い出し、慌てて言い直そうとするも、スティは特に訂正させる素振りがない。
普段の元気がないのは明白だ。それどころか、どこか憔悴しきっているようにも見える。
心配になり、希美は未だ言い合いを続ける二人の脇を静かに大回りで抜けてスティに近付いた。
そこでベッドに見知った人物が横になっている事に気付く。
「ホ、ホロ、さん?」
ホロに意識はないようで、息遣いは荒く額には汗が滲んでいる。
「今日、いつも通り本を読んでもらおうって思ってね、館長室に行ったらね、ホロホロが倒れててね……」
心配そうな面持ちでスティは手に持ったタオルでホロの汗を拭きながら言った。
ホロに本を読んでもらうのはスティの日課らしく、なんでもエステルダストの言語以外で書かれたいわゆる異世界の本が彼には読めるようで、異世界に興味のあるスティが頼み込んで了承を得たものらしい。
そして今日もその日課の為にツァラトゥストラ書院の館長室を訪ねたところ、ホロが倒れていた。
慌てて精霊術で治療を施したが、館長室にはベッドがなく、もしもの時に頼りになりそうな人も居ない。
そこでカルディア城まで運んできて、今に至るとの事。
「だ、大丈夫、なんです、か……?」
「大丈夫だと思うわ。いつもの事だもの」
答えたのはアーニャだった。
「充分な治療が出来なかったみたいだから、毒とか傷とかで滅茶苦茶になった足がこうやって痛むらしいわ。今までにも何回もあったし、魔力馬鹿様なら数日もすれば自分の魔力で自然治癒なさりますわよ」
「そ、そんな言い方しなくてもいーじゃん、あーにゃんの人でなし! 悪魔! 魔王! それに、ホロホロはバカじゃないもん、天才だもん!!」
「……そんなにムキにならないで下さる? 言葉のアヤじゃないの……」
ここまで過剰反応され言い返されるとは思っていなかったのか、アーニャは少し引き気味に悪かったわよと言う。
「え、えと……え? 足が、痛んで……?」
「あら、知らないの? 彼の左足、動かなくなってるのよ」
平然と告げられた衝撃的な事実に希美は目を見開いた。
確かに杖を突いて歩いていたが、それは足の踏み場のない本の海を歩くためのものだと思っていたし、何より"魔法使いなら杖は必需品"なのだろうという理由のない勝手な思い込みをしていた。
知らなかったとは言え、何か失礼な言動をしてしまった事はなかったかと希美はしばし今までの記憶を省みる。
「……へぇ、その様子だと"あの事"も聞いてねぇみたいだな」
デュランが不敵に笑いながら続ける。
「そこの周りから勇者勇者言われてるヤツはな、自分の妹もオレの兄貴も見殺しにしやがった、無力でみじめな死神だってな!!」
あまりの言葉に息を呑み、思考が止まる。
クレナハーツの妹、確か聞いた事があった。
この世界に来た最初の日、ホロに強引ながらもカルディア城へ行かされたクレナハーツとそこで待っていたスティと話していた時、スティが"みーちゃん"と呼んだ妹の話題が出た瞬間、クレナハーツからただならぬ拒絶の空気を感じ取った。
触れてほしくなかったのは、亡くしていたからだ。
その上、デュラン騎士団長の兄が亡くなっている事にもクレナハーツが関係しているかのような口ぶり。
希美はおそるおそるクレナハーツの方を見た。
「…………」
すぐに手を出してしまうのではないかという心配は杞憂に終わり、彼は言い返すこともなく、その場から動く事はなかった。
ただその表情は怒りとも悲しみともとれない苦しげなもので、泣きたいのに泣けない、怒りたいのに怒れない、何か言いたいのに何も言えない、希美にとってどこか既視感を覚えるもので。
「デューくんのバカッ!! みーちゃんのことも、らんらんのことも、ボクたちだって辛いんだよ!? 苦しいんだよ!? なのに、なんでデューくんはそんなことばっかり言うの!?」
スティがクレナハーツを代弁して叫ぶがデュランは特に意に介さず、クレナハーツを睨みつけ、彼が何も言い返してこない事に苛立つもこれ以上言っても意味がないと思い、一度舌打ちをして部屋を後にした。
バンッ、と思い切り扉を閉める轟音が響き、部屋はしんと静まり返る。
アーニャが額を押さえてため息をついた。
「ノゾミ、行きましょう。早く仕事に戻るわよ」
「え、あ、で、でも……はい」
後ろ髪を引かれながら、希美はアーニャの後に続いて部屋を出た。
「あ、あの、アーニャ、さん」
「なに?」
「え、えぇっと……その……」
クレナハーツの事も、ホロの事も、スティの事も、あのままにしていていいのか、言い逃げしてしまって本当にいいのか。
色々言いたい事はあったが、どうしても口ごもってしまい。
「……に、庭の、掃除、お、終わり、ました」
結局希美は"何も言わない"を選択してしまった。
クレナハーツのあの苦しげな表情が頭にこびり付いて離れないまま。