一筋の光明
希美は突然の事に身動きを止める。
近付かないようにと避け続けた花壇と花壇の隙間から覗く、満月のようにまんまるとした瞳。
長く柔らかな真っ白い毛並みの猫がそこにいた。
毛艶はよく痩せこけている訳でもなく、とても野良猫とは思えないが首輪はしていない。
城内の誰かが飼っているペットなのだろうと結論付ける事にし、いい加減寝転ぶのをやめて上体を起こす。
猫は希美にすり寄り、顔を見上げて、にゃあ、と愛くるしく鳴いた。
希美は恐る恐る手を伸ばし、壊れ物でも扱うかの様に怖々と猫を撫でる。
「……ネコさん、は、ここに住んでるんですか?」
猫は一声鳴いて、希美を見つめる。
動物に対して問いかけるなど意味のない事だと分かっていてもつい訊いてしまった。
昔、人と話すのが今以上に苦手な時、野良猫相手に話す練習をしていたが為の癖である。
「……ネコさんはいいですよね。自分の生きたいように生きられて、自分の思うままに、やりたいままに、行動できて……」
動物は好きだ。
見ているだけで癒される不思議な魅力をもっている。
それに言葉が通じないから、どんな弱音も吐いてしまえるし聞き流してもらえる。
「私、本当に何やってもダメなんだなぁ……どれだけ、物壊せば気が済むのかなぁ……迷惑かけたく、ないのになぁ……」
滲む視界に映る折れた箒。
情けなくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、自己嫌悪ばかりが頭の中をぐるぐる巡る。
涙が零れそうになる前に服の袖で乱暴に拭うが、そう簡単に溢れる涙は止まってくれない。
『――いつまでめそめそ泣いてるの?』
突然の声に希美は肩を跳ねらせた。
驚きのあまり引っ込んだ涙を駄目押しでもう一度服の袖で拭い、慌てて周囲を見渡した。
しかし、人影はちらりともしない。
幻聴だったにしては、あまりにもはっきりと明確に聞こえた。
ずっと希美が触れたままだった猫が彼女の手をすり抜けて箒に近寄る。
『万物に宿る精霊よ、形を失いしものに、再びあるべき姿を与えよ』
またも先程と同じ声が響く。
すると箒が光に包まれ宙に浮き、折れて二つになった箒を元の形に組み合わせようとするかの様に独りでに動いた。
呆然とする希美を置き去りにして箒は宙を泳ぎ、そして一瞬光が強くなったかと思うと光は消え失せ、一つになった箒は乾いた音を立てて地面に落ちた。
「……へ?」
ようやく口から出たのは間抜けな声だった。
確かに真っ二つに折ってしまった箒が、今はすっかり元通りになっている。
箒の前に居た猫が希美を振り返った。
『ほら、直ったよ』
先程と同じ声は、確かに猫から聞こえてきた。
正確には、猫が喋っていた。
「え……え? ネ、ネコさん、喋れ、るんですか?」
『……あなたがあんまりにも情けないから、仕方なくね。まったくもう……喋るつもりも、精霊術を使うつもりもなかったのに……』
やれやれとため息交じりに喋るさまは、人間を相手にしている様で緊張してしまう。
「あ、え、ご、ごめんなさい、ネコさん」
『その"ネコさん"っていうのやめてよ! わたしにも名前ぐらいあるもん!』
「ご、ごめんなさい、ネコさ、じゃなくて……えぇっと、何とお呼びすれば……」
猫は即答しようと口を開けたが、何かまずい事でもあるのか口ごもり、暫く何事か思案した。
『……。……。……カカ』
「カカさん、ですか? ……あ、わ、私は希美、です。えと……えぇっと……」
『自己紹介とかはいいから、さっさとここの掃除を終わらせちゃおうよ』
「あ、で、でも……掃除、終わらせて、も、他に、出来る事、ないです……」
『わたしが手伝うよ。物が落ちないように浮かせるたりするぐらいでも充分だよね? 壊しちゃっても直せるし』
「た、大変ありがたい、提案、なんです、が……ネ、じゃなくて、カカさんにご迷惑が……」
『これ以上ノゾミの情けない姿なんて見てらんないの! ノゾミだってこれ以上迷惑かけたくないんでしょ?』
「う……は、はい……」
『分かったら掃除、掃除!』
カカは野良猫なのか飼い猫なのか、飼い猫だとしたら飼い主は誰なのか、そもそも何故カルディア城の庭園に居たのか、何故喋れるのか、何故精霊術を扱えるのか。
名前以外にも訊きたい事は山ほどあったが、結局希美は訊けないまま押し切られてしまった。
異世界なら当たり前の出来事なのかもしれない、と考えるのを止めた。
――アーニャさんに、何て言えばいいのかな……。