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井戸の底はどこまで続く。

 

■□井戸の底はどこまで続く。



 シャキシャキと鋏を動かす音が響く。アパートの庭にある、井戸のすぐ側に一組の男女がいた。鮮やかな金髪を持つ女が、見るからに安そうなパイプ椅子に座り、その女の後ろに、男が鋏を持って立っていた。

 椅子の下に敷かれた、青いビニールシートの上に散らばる金色。男は慣れた手つきで髪を切っていた。


 男は言った――月に一度の逢瀬だ、と。

 女は答えた――ちゃんと練習しなさいよ、と。


 甘さを含んだ男の言葉に、女の答えはにべもなかった。

 それもそうだ。付き合いがなまじ長いばかりに、色恋沙汰になりようがないのだ。

 それでも、男の言葉に女は嬉しそうな顔をする。

 まるで、恋を遊ぶかのように。


 傍から見ると軽妙な会話をしているこの男は、近所で有名な美容師だ。

 ただ相手を持ち上げるだけの言葉は吐かない。どうして髪を切りに来るのか、何処かへ行くためか、はたまた恋人に会うためか。如何に相手に一番似合うかを考え、そのための会話を行なう。寡黙な姿で仕事に取り組むが、適切なコミュニケーションは怠らない。


 常連客からは、〝髪切り紳士〟と少し微妙な呼ばれ方をしている。

 当の本人は、なんだが変質者みたいだ。と、落ち込んでいたが。

 その寡黙な男が、熱の篭もった瞳で恋人にでも囁くようなことを話していると知ったら、一体どう思うのだろう?


 男と女の付き合いは、かれこれ十五年以上にも及ぶ。


 男がこの女に会ったのは、まだ〝小学校に上がったばかりの時〟だった。

 当時から存在していた日だまり荘。この時はまだ恵助の祖父が管理人をしていた時だ。

 男が小学生と呼ばれる子供の頃、放課後の学校帰り。出来たばかりの友人達と遊びながら帰っていたときだ。一人、また一人と、自宅へ帰っていく友人。子供の住んでいる場所は、友人達よりやや遠くにあった。


 茜色に変わっていく空の下、一人で歩いていく道。決められた通学路は、家までぐるりと大回りをしなければならなかった。歩いているのは自分一人だ、当然心細さもあった。

 日だまり荘の前まで来て、子供はキョロキョロとあたりを見回した。今日は玄関に誰も居ない、ひょこりと手入れのされた庭を覗く。

 その庭の向こう側に、空き地と細い道が見えた。その細い道は子供の通学路で、家に帰るための近道でもある。前から何度か、こっそり通り抜けている所だ。時々一階に住んでいる住人に見付かりはするものの、早く行けと言われるだけで、怒られる事は無かった。


 だからきっと、今日も大丈夫。そう思って子供は庭を、音を立てないように歩き出す。



「ねぇ、あんた鋏持ってない?」

「――っ!?」



 誰も居ないと思っていた中、突如かけられた声に、子供は全身の毛を逆立てて硬直した。それも普段と違う、高い女の声だ。パクパクと声にならずに口を動かし、子供は目を見開く。

 子供に声をかけた主は、庭の一番奥にあった古井戸に腰掛けていた。


 なぜか女は全身ずぶ濡れだった。着ている服も同様に濡れていた。黒いブラウス、薄く縦にストライプの入ったパンツは肌に張り付いている。踵の低い靴が地面に転がり、磨かれた爪が見えた。

 何よりも子供の目に入ったのは、長い金髪。たっぷりと水を吸って重そうに見えるその髪は、女の着ている服の影響か、ことさら強烈に映った。

 女は荒っぽく髪を纏め水を絞る。雫の落ちた地面の色を変えていく。



「ねぇ、聞こえてるんでしょ? 鋏、持ってんの?」

「ひっ!? あ、はい!」



 きつめに言われた言葉に、子供は反射的答えた。慌ててランドセルを引っくり返し、工作道具の箱を開ける。

 今日図工の授業があってよかった。まだ真新しい鋏を持って、恐るでき女に近付き渡した。



「ふぅん。ちゃんと躾は出来てるのね」



 持ち手のほうを向けて渡してきた子供に、女は感心した。

 そんな女の言葉に、子供は少しだけ肩の力を抜いた。家に帰れば、さんざん母と祖母に言われていたからだ。


 刃物を人に渡す時は、決して刃の方を人に向けてはいけないよ、と。

 他者に貸す機会が、家族以外に無かったため確認できなかった行為。すっかり身に着いたそれは間違っていなかったと、思わず子供が安堵したのは無理もない。



「あっ!」



 受け取った鋏で、女はザクザクと自身の髪を切り出した。それも綺麗にではない。あのまま切ったらざんばらになってもおかしくない勢いだ。

 ただよく見れば、女の髪は井戸のつるべに使っている綱に絡まっていた。ほどこうと暫らく奮闘していたのだろうか?

 水を含んだ事も災いしてか、それは酷くグチャグチャに絡まっている。女がほどくのを諦めたのも無理はないのかも知れない。



「き、切っちゃうの?」

「そうね。この綱を切ると後がウルサイし」

「う、うるさい?」



 無残な切り口を作り出しながら、だんだんと綱と髪は離れていく。

 なかなか切れず、何度か鋏を通したせいか?細かい髪が日の光を受けて、地面の上でキラキラと光っていた。


 女は棒立ちになっている子供を見た。胡乱気に動かされた目は、青い瞳。

 近所では見かけない髪と目の持ち主に、子供の好奇心が警戒心を上回った。



「お、おねえさん。外国の人なの?」

「外国の人? 残念ね、私は生まれも育ちもここよ」



 好奇心を隠しもせず、けれどぎこちなく問う子供に、不機嫌そうに女は答えた。

 小さく鼻で笑わらう姿が少しだけ怖く感じて、子供は一歩後ろへ下がった。


 やがて髪が切り離されると、女は立ち上がり服を軽くはたく。綱に残る、巻きついた金髪を引っ張るが取れる様子はない。

 掴んだ綱を見たまま、女は口を開いた。



「ねぇ。あんた街中でこの金髪と、青い目の人間とすれ違ったらどうする?」

「んー、キレイだなって振り返る」



 子供はほとんど間を開けずに答えた。

 そんな答えに、女はほんの少し驚いた表情を見せ、それからすぐに眉間に皺を寄せた。

 答えた子供に他意などなかった、ただ素直に思ったことを答えただけ。それなのに、なぜ女が驚いた顔をしたのか子供には分からなかった。それとどうして、そんな泣きそうな顔になるのかも。



「ふん。ほら、鋏」

「あ、うん」



 ぱらぱらと鋏についた髪を落とすと、女は子供に持ち手を向けた。ずいっと押し付けるような感じではあったが、素直に受け取った。



「それとさ、あんた。歩くときもう少し静かに出来ないの?」

「へ?」

「結構そういう音、下って響くの。近所迷惑」

「ご、ごめんなさい」



 脈絡のない会話に戸惑いながらも、反射的に子供は謝った。

 女は井戸を覗き込むように縁に両手をかける。



「……鋏、貸してくれてありがと」



 それだけ言うと女は、なんの躊躇いもなく井戸に飛び込んだ(・・・・・・・・)

 目の前で起きた出来事は、子供はすぐに理解できなかった。


 いま、なにがおきた?

 ――おんなのひとが、いどにとびこんだ。


 ただ呆然と、井戸に女が入って行く姿を見るだけで。

 井戸の中を上がってきた大量の水飛沫の音に、慌てて駆け寄り中を覗き込んだ。



「お、おねーさーん!」



 微かに見えた、水に沈んでいく金髪に、子供は叫ぶように声を出した。けれどその声は何重にもなって反響し、自分に返ってくるだけだった。



「どうしようどうしようどうしようっ」



 頭の中でさっきの光景がグルグルと繰り返される。子供の自分が井戸の中に入っていっても、助けるには力が足りない。どの道一人で上へあがる事が出来ない。

 井戸の水は冷たいはずだ。どうしよう、おねえさんだって寒いはず。早く、早く助けないと。

 でもどうしたらいい。アパートの人に助けてもらう?


 だめだ、だってぼくは、だまって庭を通ったから。かってに人の家に入るのは、ふほうしんにゅうってこの間テレビで言ってた。

 考えれば考えるほど纏まらず、横へとそれていく思考。



「おねーさーん……」



 もう一度、井戸の中を覗く。あの金髪は見えなくなっていた。


 だれかが言ってた。水にしずむ。うかんでこなければ、水死、でき死っていう。


 ガクリと膝の力が抜けて、しりもちをついた。がちがちと奥歯が音を立てた。

 目の前で人が飛び込む光景を見た恐怖と、これから訪れる結果に、今頃気付いて震えが起こる。



「ど、どうしよう……」



 呆然と、出てきた声が掠れる。目の前がぼやけてきて、鼻の奥がツンとする。



「そこで何をやっている――」



 背中にかけられた声は、時々聞くアパートの住人のものだった。

 子供に声をかけたのは、アパートの一階3号室に住むいつも眠そうな顔をしている男だった。

 半ばパニックを起こしかけていた子供を宥め、男――天城は話を聞くとさして驚く事もなくこう言った。



「少年、あれは河童だ」

「……へっ!?」



 唐突な展開に、子供はポカンと口を開け天城を見る。

 かっぱ、とはアレか? 背中に甲羅、頭に皿のある水に住む、妖怪?

 僕は冗談でも言われているんだろうか?

 そう思ったが、天城の真剣な顔付きに口をつぐんだ。



「あれは、河童だ。悪戯好きの」



 そんな子供の両肩に手を置いて、もう一度、言い聞かせるように天城はゆっくりと言った。



「あれ、カッパ、なの? 妖怪の?」

「そう、河童だ。お前がいつもこそこそ通っているから、悪戯しようと思ったんだろう」



 河童は水に住む妖怪だ。なら井戸に入っても溺れるようなことはないハズ。悪戯好きだというのなら、あの女の河童に遊ばれたのだ。

 自分に言い聞かせるように、子供は何度も頷いた。

 そしてハタと、思い出す。



「あのカッパ、僕の歩く足音がうるさいって言ってた」

「ならそれが原因だな。ちょっと驚かせて反省させようとしたんだろう」



 天城は子供の頭に軽く手を置くと、眠そうな目を向けて言った。

 そして出てきたのは、ちょっとした遊び心。



「まぁあれだ、反省したんだったら、河童の好きなものでも持ってきて謝ればいいんじゃないか? ほら、お礼参りってよく言うだろう」

「お礼まいり……。うん、確かに聞く! 分かった、明日キュウリ持って謝りにいくよ! おにいさんありがとう!」



 お礼参り。その本当の意味を知らない子供は無邪気に笑うと、元気よく日だまり荘の庭を駆け抜けた。



「あり。マジで信じちゃったっぽい」



 一人残された天城は頭を掻くと、子供が走り去った方を見た。

 まだあの世とこの世の境が曖昧な場に、立ち入ることを許される歳。このくらいの年の頃にこちら側に深く関わると、のちのち厄介になる場合がある。

 足を踏み入れ、記憶がなくなった状態で戻る程度ならまだいい。まれにそのまま戻れなくなり、生きながらにしての死を迎え、生きて逝く者もいる。大抵本人の時は止まっていることが多い。


 所謂、神隠し――と言ったものだ。


 また、自らの足で境界を何度も行き来することで、気付かない内に視えて感じる体質に変わってしまうこともある。

 知らぬ間に繰り返し体調を崩すことが多く、そしてやがて足が遠のくが常だ。

 それは元々生者が持っている防衛本能に近いものが、死者の汚れに触れ反応するからだ。


 まだ、あの子供は戻る事が出来る。

 天城は目を据わらせると、下駄を履いた足で思い切り井戸を蹴った。当然積み上げられた石はビクともしないわけだが……



「うっさいわね! いっつもいっつも、あんたなんなのよ!」

「それはこっちのセリフ。悪霊(・・)が生者に迂闊に近付くんじゃねぇっての」



 水も滴る不気味な姿で、今しがた沈んだばかりの女が井戸から出てきた。今が昼間で、金髪の持ち主だからまだいいが、これが黒髪だったら悲鳴の一つも上げられておかしくない。

 もっとも、井戸を蹴った天城には関係ないらしく、冷えびえとした視線を女に向けている。



「うっ……。し、仕方ないじゃない! 髪の毛絡むなんて思わなかったし、見える子だとも思わなかったし……」



 天城の視線に気付いた女は怯みつつ言うも、後半はどこか尻すぼみだ。



「管理人さんは優しいし、理解がある方だからいいけど、御前(ごぜん)に知られたら説教どころじゃないでしょ。キミ、お情けでここに居させてもらってるんだから」

「……そんなこと、言わなくたって、言われなくても……分かってるわよっ!」



 淡々とした口調で改めて突きつけられた現実は、自分ではどうしようもないことで、女は叫ぶように言い返す。

 腹立ち紛れに天城の頭の上から大量の水をかけると、ずぶ濡れ姿を見ることなく素早く井戸の中へと逃げ込んだ。



「……あー、もう。濡れたら飛べなくなるの知っててやるかなぁ」



 ばたばたと大量の水滴を落としながら、天城は困ったように苦笑した。井戸を覗けばもう姿は見えない。

 服の水を軽く絞りながら、天城は二階の一室――8号室を見上げた。

 あそこの部屋の地縛霊を見習って欲しいものだ。月に一度しか現れないし、騒ぐ訳でもない。なんと謙虚な霊だろうか。



「やれやれ。悪霊からただの幽霊にでもなれば話は別なんだけどね」



 そう。だからあの子供に言ってみた。時としてその無邪気な純粋さに、救われる者がいるのを天城は知っているから。それは少し意地悪な悪戯で、ささやかなきっかけになればと。

 ――これが天邪鬼と言うものだろうか?

 天城は一度、井戸に住む女のことを、御前と呼ばれる存在に訊ねた事がある。


 聞いて出てきた感情は、憐憫。

 女の境遇を一言で言ってしまえば、理不尽によって起こされた悲劇の結果。


 女の名はまり。だが家族はマリアと呼んでいたらしい。父親はごくごく普通の、小さな染物職人。母親は、商船に乗って来た外の国の者だった。

 仕事で二人は出会い、夫婦となって、娘が生まれた。娘は母親に似た金髪と青い目、整った容姿を持っていた。

 ただ村人達とは違うその容姿から、通りを歩く母娘(おやこ)を見ると小さな声で口々に何かを言った。


 悲劇が起きたのは、ある日照りが続いた年で。前の年から続いた日照りから不作となり、飢饉が起こったのがきっかけだ。まりの住んでいた村も同じで、一人また一人と死んでいく者が出ていた。

 幸いな事に父親の染物は高く売れるので、まりの家族は何とか食料を得る事が出来た。

 だが、他の家は違った。そして村人達は思った。


「何故、あの家族だけはこの飢饉の中で平気なんだ」



 小さな、それこそ小骨のように引っ掛かった疑問が、やがて疑念に変わり――

 村人達は、父親を襲った。各々が持っている、鉈、鍬、斧、そして包丁。畑を耕し林を切り分ける、生活に必要な道具を使って。

 村人達に当初、罪悪感はあった。だが、一人が言った。



「化け物の父親を殺しただけだ」



 その一言が村人達の罪悪感と、理性を奪った。

 父親が買ってきた食料を奪い取り、懐に入れていた僅かな、それでも村人からしたらそれなりの額の金を奪った。

 地面に倒れた血まみれの父親の姿を見て、村人達は決めた。


 村人達はまりの家を襲撃した。

 慌てて母親が娘の手を引き家から逃げ出した。



「化け物が逃げたぞ! 追え!」



 また、誰かが言った。全ての罪を意識しないですむ、まじないのような言葉。

 逃げるさなか、母親は背中に矢を受け息絶えた。

 弓を構えた村人が声を上げた。



「いたぞ! 化け物の母親を仕留めたぞ!」



 ぞっとした。歓喜とも狂気ともとれるその声に。

 恐怖を感じながら、まりは村人を見た。


 ――狂ってる。


 そうとしか言いようが無かった。月明かりに照らされた村人達。狂人のように声を荒げながら(せま)る姿。


 ゆらゆらと揺れるかがり火が作る影が、村人達を何か別な生き物に見せていた。

 そう、それこそ村人達が言っていた化け物のように。

 雑木林を抜けた先には打ち捨てられた一軒家に、この日照りで枯れた井戸があった。そこでまりは村人達に囲まれた。



「なんでおまえ達は、この飢饉の中で平気なんだ」



 理由を述べるなら、きっとたったその一言で。

 まりが食べた物は父親が稼いだ、正当な報酬で得た糧。それは村人達に言いがかりをつけられる、理由にはなり得ない。

 ましてそれで殺されるなど……。


 ――理不尽だ。


 わずかに、他より金銭に余裕があったから襲うなど。まるで盗賊ではないか。

 ゆっくりと、足を前へ動かす。向かう先は枯れた井戸。



「きっと我が家は今頃、盗賊に家捜しされてるんでしょうね」

「なっ!? おれ達を盗賊扱いするのか!」

「奪った我が家の家財道具を売って、糧を得るのね……」



 ふらふらとした足取りで、けれど笑みを絶やさずまりは進んだ。その不気味さに、村人達は各々武器を構えるものの、どこか及び腰にまりと距離を取った。

 ゆらりと、まりは枯れ井戸の側に立つ。



「それのどこが、盗賊じゃないって言えるの? 人を殺して金品を奪っておきながら、自分達は人殺しじゃないって言えるの?」



 母親と娘の容姿が違うから、化け物と言って、追いかけましておきながら。いけしゃあしゃあと何を言う?

 あの者達は、殺す事になんら抵抗を感じている様子はなかった。

 ほんの一欠けらでも罪悪感を持っていれば、あんな風に狂気染みた顔をしない。


 井戸の縁に手を掛けた。中を覗くも暗闇で、底は見えない。水が汲めたのだから、きっと深い井戸だろう。



「――私から、村人みんなにお祝いの言葉を送るわ」



 こんな奴等に殺されるくらいなら……



「祟ってやる! この村の人間全て! 一人残らず祟り殺してやる!」



 浮かべていた笑みを消し、それこそ般若のような顔で睨みつけ叫ぶ。誰一人たりとも逃がしはしない。許せるものか。ほんの少しの金銭で、家族を奪った者達を。



「お父さん、お母さん。待っててね、すぐに逝くから」



 その呟きを聞いていたものは、果たしていただろうか?


 まりは縁にかける手に力を入れると、その身を井戸へ投げた。

 止めるものは誰もいなかった。

 程なくして伝わる音は、皮肉にも水飛沫のように聞こえてきた。



 それからひと月しないうちに、村から生きている人は居なくなった。


 それはまりが引き起こした結果なのか、誰にも分からない。ただその呪いのような言祝(ことほ)ぎから、まりは悪霊として井戸に縛り付けられ、両親のもとへ逝けなくなった。

 呪い殺す相手などもう存在しないのに、井戸から出ることができない。


 月日が流れ、やがてその井戸を塞ぐことになったとき、異変が起きた。あまりにも続く怪異に困り果てた人たちは、ある人物に相談し、まりはその人物の所有している土地の井戸へと移り――そして今は、日だまり荘の庭にある井戸にその身を落ち着けている。



「ホント、人間って理不尽だよねぇ」



 顔に張り付いた髪を掻き上げながら天城は言う。口調はほのぼのとしたものなのに、目は、恐ろしいほど冷え切っていた。口元だけへらりと笑うと、天城は軽い足取りで部屋へと戻る。


 翌日、子供は胡瓜を持って井戸の前に立っていた。

 井戸から出てきたまりは、顔を引き攣らせながら、つとめて冷静に、また極めて落ち着いた声を出す。

「ねぇ。なんであんた胡瓜持ってきてるわけ?」

「え? だってカッパってキュウリ好きなんでしょ?」

「ちょっと待って、河童って何のこと?」

「おねえさん、この井戸に住んでるカッパなんでしょう?」

「誰に聞いたのかしら、その河童ってのは?」

「えっと、あの部屋のおにいさん」



 そう言って子供はおずおずと一階の3号室を指さした。

 示された部屋を見た瞬間、女の目がカッと見開かれた。同時にばきっと豪快に手元の胡瓜が真っ二つに折られた。それも三本同時に。



「あ〜まぁ〜ぎぃ〜っ!!」

「ひぃっ!」



 叫ぶや否や、手元の胡瓜が猛スピードで宙を切り、天城の部屋の窓を叩き割ったのだった。



 翌日、今度は子供はなぜか――菊の花束と線香を持ってきた。

 井戸に立てかけるように置かれた、菊の花と線香を半眼で睨みつけまりは口を開く。



「ねぇ、何で今度は菊と線香なわけ?」

「え? だっておねえさん悪霊なんでしょう?」

「うふふふふふ。そっかぁ、どーりでふわっと意識が遠のく感じがしたわけねー」



 寒気を感じる微笑に、本能が鳥肌を立てた。

 もしやこれは、自分はあのおにいさんにからかわれている……? のではないのかと思った。



「誰から、聞いた、のかしら?」



 目の前から来る威圧感にダラダラと汗をかきながら、子供はそっと視線を逸らし――猛ダッシュで逃げ出した。

 背中越しに聞こえる、「天城!」と叫ぶまりの声に、子供は心の中で天城に謝った。

 同時に、やっぱり自分はあのおにいさんにからかわれていたんだと確信した。


 それから数日後、やはり子供はやってきた。半ば日課になってしまった子供の来訪。まりもまた来たのかと言うように、井戸の縁に腰掛け子供を見た。

 今日の子供は胡瓜も菊の花も持っていない。代わりに手にしていたのは、薄い桃色の小さな花をつけた枝。



「何よ、それ」

「えっと、桃の花……。管理人さんに聞いたら、日だまり荘のひな祭りって四月だって。だから、その……ひな祭りは女の子のお祭りだから……」



 子供の持っていた枝は、全ての花が綺麗に咲いていた。よくもまあ、これだけ見事な枝ぶりのものを見つけてきたと感心する。

 遠慮がちに出された桃の枝を、まりは手に取った。



「ふん。ま、貰っといてあげるわ」



 素直にありがとうと言えない自分に、内心沈みながらも、自分が出せる言葉を使う。

 気位の高い物言いになったものの、子供はまりが初めて受け取ったことに、嬉しそうな顔をした。



「あんた、名前は?」

「立花樹!」

「そ。ま、気が向いたら覚えておいてあげてもいいわ。私の名前はマリアよ」



 久しく呼ばれていない方の名を名乗ったのは何故か。理由は自分でも分からなかった。ただ、自然と口から出ていた。

 自覚していなくても、心のどこかで普通の人間(・・・・・)と関わりたかったのかも知れない。



「マリア、さん?」

「なんで疑問系なのよ」

「えっと、マリアさん」

「なによ」

「あ、言っただけです。ごめんさない」

「用が無いなら呼ばないでよ」

「ご、ごめんなさい」



 言い方がああなってしまったのは致し方ない。あれは、その……そう! 舐められたら負けだからだ!

 一体子供相手に、何と勝負をしている気になっているのか。そこを気にしたらそれこそ負けだと、無理やり自身を納得させる。

 気恥ずかしさから、その日はさっさと子供――樹を追い帰した。


 樹の姿が見えないのを確認して、桃の枝を水を張った桶に入れ眺める。

 こうやって花を活けるのなど、初めてだった。

 まして花を貰った事など無い。


 桃の花にそっと指先をつける。あまりの嬉しさに、顔が熱くなったのはきっと陽射しのせいで、頬が緩く感じるのもきっと気のせい。

 桃の花に邪気を払う力があると、樹は知っていただろうか?

 もし、マリアから邪気が無くなれば、今度は無事に逝くことができるのか?



「はい。終わったよ。今考えてる新しい髪型」



 ぼんやりとしている内に、どうやら樹は髪を切り終えたらしい。

 後ろから鏡を手渡され、鏡面を覗く。樹も鏡を持ち、合わせ鏡でマリアに見えるように動いた。



「ふん。まあ、いいんじゃない。もう少し短く切っても、逆に活発そうに見えるし」

「お褒めに預かり光栄にございます」



 つっけんどんなマリアの言葉に満足そうに頷くと、樹は片付けを始めた。その間、マリアは邪魔にならない様に、井戸の縁に腰掛けるのが決まりだ。

 少し前は見られていた側が、逆に今度は見る側になる。不思議な気分になりながらも、マリアは目で樹の姿を追う。



「ねぇ、マリア。今年はいつ行く?」

「は? 何がよ」

「やだな、お花見だよ。お花見。昨日の夜通ったら、公園の桜、もうじき咲きそうだったから」

「あー。もうそんなじきよね。行ってもいいけど、休暇取れんの? 人気の髪切り紳士さん」



 嫌味たっぷりにそう言ってやれば、樹は渋い顔をする。やはりいつまでたっても、その呼ばれ方は慣れそうにないらしい。

 ひとしきり笑ってから、マリアは口を開いた。



「じょーだん。で、樹あんた休暇どうなの?」

「マリアが行くって言うなら、辞表を出してでももぎ取るよ」

「あら、頼もしいお言葉だこと」



 その前に辞表を出したら、頼まずとも休みになるだろうに。ずいぶん気合の入った休暇の取り方だと、マリアはクスクス笑う。

 それでも、樹が高校に入ったときからの年中行事だ。すでに楽しみでない訳がない。


 そして樹は気付いているだろうか?

 以前は井戸の側から離れることすらできなかったこの身。

 あの桃の花を毎年貰うようになってから、マリアが井戸から遠く離れて動くことができるようになったのを。



「行く?」

「ええ、行くわ。楽しみね」

「明日、早速辞表を持って休暇申請してくるよ」

「頑張ってちょうだい」



 よしっ! と、樹がガッツポーズを取っていたのをマリアは見なかったことにして、まだ見ぬ美容室の店長に心の中で合掌した。

 今年も休暇で押し問答をするんだろうなと、ポツリと思う。

 マリアのセリフの9割が、主に店長に向けて言われていたことを彼は知らない。


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