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非日常に紛れる日常的光景。

 

■□非日常に紛れる日常的光景。



 けたたましい音で自身の存在を主張する目覚ましよりも先に、恵助は目を覚ました。朝早くだというのに隣人迷惑を考えず、隣の倉庫はガタゴト音が鳴っている。二度寝をしたら起きられない恵助としては、耳に煩わしいこの音に朝だけは感謝していた。そう、朝だけは。

 緩慢な動きで顔を洗い、身支度を整えると、一杯の水を一気に飲み干す。朝に一杯の水は、一気に意識を覚醒させる。顔を洗っただけでは、いまいち目が覚めたような気がしないのでちょうど良い。

 こちら側(・・・・)で生活をするようになってから付けた習慣だ。故に二重扉にし、内扉の鍵をかけている。硬くなった身体を解すように一度大きく伸びをすれば、



「ふにゃあぁぁ」



 気の抜けた猫みたいな声が出てきた。回せば面白いくらい音を立てる肩に苦笑しながら、恵助は廊下に出た。

 夕刻とうって変わって物音のしない静かな廊下。けれど人が動き出しそうな気配はある。静かではあるが、動き始めている空気。朝の、このもうじき人が動き出すであろう前の空気が特に好きだ。この僅かな時間を楽しむように、恵助はゆっくりと歩いた。


 管理人である恵助の朝一番の仕事は、原則として夜間は施錠をしている内扉の鍵を開錠する事から始まる。日だまり荘の表玄関は、ポストの都合から鍵をかけることは無い。である。

 この裏玄関の鍵は恵助曰く〝金をかけた〟だけあって、住人の部屋の鍵で開ける事が出来る代物だ。

 だがしかし、この裏玄関、側にある井戸がネックなのだ。


 この井戸、一時期ブームになった、某呪いのビデオに写っている女性が住んでいそうな雰囲気そのままなのだ。夜の薄暗い照明の庭、部屋から漏れる僅かな明かり。

 闇夜に浮かびあがる井戸――。

 いつそこから手が出てくるのかと恐怖心が煽られる。


 そんな訳で大半の住人は前半二つを選択する。

 実際は、この井戸に住んでいるのは件の女性ではなく、ド派手な金髪を持つ別の女性だ。夏場はスイカや胡瓜といった夏野菜に、ビールなどの缶飲料と共に井戸に沈んでいたりする。

 そして最後は、裏玄関に向かう住人を発見した、一階の住人に中へ入れてもらうことだ。裏玄関の選択肢を選ぶ住人が少ないのでめったに無いが、二階6号室の住人がよく世話になっている手段だ。


 まだ少し寒さを感じていた恵助だったが、耳に入る蒸気が上がる音に眉をひそめた。真冬に毎日聞いていた音だ。ストーブの上に置かれた、やかんの湯が沸いている音。それは、寝る前に片付けたはずの物だ。

 よもや片付け忘れたか!? と慌ててたまり場を覗けば、



「ほ、ほー」



 小さなフクロウの鳴き声が恵助を迎えた。声の主、京一郎はたまり場の定位置でもある止まり木の上にいた。伸びでもするように何度か翼を広げると、京一郎は恵助をじっと見た。



「……おはよう、京一郎。って、なんでここにいるんですか? 飼い主の所に……、ああ、荻野目さん帰ってきてないんですね?」



 京一郎の飼い主、二階8号室の荻野目優里。どうやら昨日、と言うかすでに今日にもなっているがまだ帰宅していないらしい。荻野目は若干どころかかなりの仕事人間で、一歩間違えれば社畜レベルだ。……すでに社畜に足を踏み入れかけているかも知れないが。

 京一郎は一般的なフクロウに比べて、かなり飼い主に懐いている一風変わったフクロウだ。こうして玄関まで来ては、送り迎えをするのだから。下手をすれば午前様どころか、朝帰りな飼い主をひたすら待っている。まるでどこぞの駅で像になっている犬のようだ。


 普通のフクロウはそんな事はしない。そして普通のフクロウは、ネズミやゴキブリが出たら本気で逃げたりはしない。

 飼い主を待つ――そんな京一郎の行動が暇会の何人かの琴線に触れたらしく、飼い主と管理人双方に許可を取らずに、勝手に猫用ならぬフクロウ用玄関を8号室に作り、一悶着したのはそう古い話ではなかったりする。


 羽音をさせずテーブルの上に着地をすると、京一郎はそのすぐ側の毛布の塊をじっと見て起こすように何度か鳴く。それも普段鳴くような低い一定の音ではなく、きぃきぃと耳に来る甲高い音で。



(フクロウってこんな鳴き声だせるんですか……)



 長く続く騒音に毛布の塊がモゾモゾと動き出すと、中から何かが素早く動いた。そして――



「ぴぎぃっ!!」

「きょっ、京一郎っ!?」



 なんとも言いがたい悲鳴のようなものが上がり、ぎょっとして京一郎を見れば、毛布の中から伸びた腕に押し潰されていた。その腕は明らかに女性の腕で。もそもそと何かを探している様に動く手の中で、抜け出そうとする京一郎の翼がバタバタと動く。

 恵助が慌てて京一郎を救出すれば、このフクロウには珍しく、ぴぃぴぃと鳴きながらガタガタ震えていた。大型のネズミに廊下で遭遇した時以来の光景だ。落ち着かせるように身体を撫でながら、毛布の塊を一瞥。そしてため息。



(大方目覚し時計と間違えたんでしょうねぇ。)



 ずり落ちた眼鏡を元に戻すと、恵助は毛布の塊を起こす訳ではなく、京一郎を離れた場所にある椅子の上に乗せ、内扉を開けだした。

 滑るように動く扉を押せば、ひやりとした風と共に外玄関が見えてくる。最近新聞配達の係りが変わったらしく、来客用の下駄箱の上に新聞が重ねて束ごと置かれていた。各部屋のポストに入れるのが面倒だったのだろうか?

 高層マンションならば、こんな事にはならなかっただろう。と言うか、あったら即苦情が行くはずだ。恵助は自分のぶんの一部だけを引き抜くと、あとは放置した。読みたい人物が購読しているのだから、ポストに入れずとも勝手に持っていく。が持論の恵助であった。管理人としての対応としては如何なものかと思うのだが。いちいち気にしていたら、この日だまり荘ではやっていけない。


 たまり場に振り向けば、毛布の固まりから飛び出た片手が怪しくテーブルを這い回っている。そこに目覚まし時計は存在していない。

 頑なに起きることを拒否しているのがありありと見て取れる。


 新聞を小脇に抱え、二次被害を避けるため京一郎を肩に乗せると、恵助は新聞を丸める。その新聞で毛布の固まりを勢い良く叩くのかと思いきや、軽い調子で一定のリズムで叩き出した。しかも――般若心経つきで。

 見知った相手だ、多少の嫌がらせには動じないだろう。一階2号室の扉を見て恵助は思った。それに、部屋の主が食事もそこそこに籠っている原因でもある。

 今回はこちらに落ち度は全く無い事は判明している。原稿の締め切りがいきなり早まるなど、寝耳に水の事態だろう。いくら普段早目に仕上げる彼にしても限度と言うものがあるはずだ。……彼の代わりに憂さ晴らしをしておいておこうとも思う。


 般若心経一周目の半ばに差し掛かった頃、控えめに戸を引く音がした。表玄関のカーテンが揺れると、背の高い青年の姿が現れた。どうやら何かを背負っているらしい。



「ちょっ、なんすか!? お経なんて! 誰か何かあったんですか!?」

「木魚の代わりにしているだけです。お気になさらずに」

「いや、でも、明らかにいつもの人ですよね? 右京さんのお客さんですよね? てか、(めぐみ)さん神道じゃなかったでしたっけ?」



 矢継ぎ早な質問の中にあった、すでに住人からのあだ名となってしまった呼び方に、恵助はわずかに眉間にシワを寄せた。青年に首だけぐるりと向けると、おきまりの言葉を吐く。



「…………恵助です」

「ほー」



 追従するように京一郎が鳴いた。

 あ、しまった。とした表情でばつが悪そうに頭を掻いた青年は、一階四つ葉号室の住人、小松直虎(こまつなおと)

 数字にすると四で縁起が悪いので言葉で号をつけた、日だまり荘に一つしかない部屋だ。空くとなかなか入居者が決まらない四号室に、「四つ葉だって縁起イイ!」と、嬉々として入居した人物でもある。


 やたらポジティブ思考の健康優良児と言う印象を恵助は持っている。実際そうで、早朝ランニングにでも行っていたのだろう。彼女がいる時は恵助が起きるのを待つ必要が無いのだから。

 ところで、本日の直虎はランニングで何かを拾ってきたらしい。シワのある細い二本の腕が両肩にだらりとかかっていた。やたら見たことがあるような気がする腕だが、そこは気付かなかった事にする。



「何拾ってきたんですか? うちは基本的にそこら辺は寛容な部類ですが、拾ったのが人間だったら交番に捨ててきてください」

「いやいやいやいや、交番だからって人間捨てたらだめでしょが! 柳のじーさんですよ! 柳の! 犬や猫じゃないです!」

「当たり前でしょう。犬猫のように人間がそこら辺に落ちているワケがないでしょうが」

「管理人さん、一番最初のセリフ思い出してください。人間も道端に落ちてる的なコト言ってませんでしたっけ?」



 もっともな直虎の意見に、恵助の表情は変わらない。ぽすぽすぽすと、気の抜ける音が聞こえるのは未だ恵助が毛布の固まりを叩いているからだ。その手を止める事なく数回瞬きをすると、ゆっくりと口を開いた。



「年末年始には駅前や公園で良くある光景です。まれに自宅前に奥さんから閉め出された結果、哀愁漂う後ろ姿に進化することもあります」

「それ進化じゃない。むしろ状態異常」

「精神異常系ですか? 暗闇沈黙麻痺。それとも混乱や石化?」

「……閉め出されたらそのどれもになると思います」

「小松君、経験あり?」

「縁起でも無いこと言わないでください! 俺が美佳子に追い出される訳ないでしょ!」

「うっさい、リア充――」



 ややヒートアップしかけたところで、地を這うような低い声が二人の会話を止めた。明らかに女性の声なのだが、何故ここまで低く、かつドスが効いたような声が出せるのか。

 ギクリと動きを止めた直虎とは正反対に、恵助は軽快に叩いていた手を止めて、やや下がった眼鏡を押し上げた。やがて毛布から顔だけを出してきたのは、直虎が言っていた右京の客人の三葉巴(みつはともえ)

 今現在は眠たげではあるが、普段は気の強そうな目元が印象的な妙齢の女性である。



「おはようございます。みっちゃんさん」



 なんでここで寝てるんだ? 等と聞くことなく、普段と全く変わりない挨拶をした。それも、本人が気にしている呼び方で。



「みっちゃん言うな。私はもう可愛く呼ばれる年は過ぎたんだよ、(めぐみ)ぃ」

「恵助です。三葉(みつは)さんも人のこと言えないと思いますけど……。妙齢(・・)の女性は何かと気を使わなければならないので、面ど――いえ、大変です」

「てめぇ今面倒って言ったよな?」

「起き抜けですからきっと聞き間違えたんですよ私がそんな事言うワケないじゃないですか」



 明後日の方向を向きながら、さらりと恵助は言った。しかもノンブレスで。慇懃無礼とはこの事か? そんな恵助をギロリと効果音が付きそうなくらい据わった目つきで三葉は睨んだ。寝起きは最悪と評判の彼女を相手に、ここまで言える恵助はある意味すごい。

 さすがにこれは特殊事例だろうが、何故この時の女性対応スキルが元彼女に活かされなかったのか謎だ。今のやりとりが出来るのならば、送信ボタンくらい楽に押せそうなものだろうに。

 しばらく睨みを利かせていたが、恵助には効果なしと判断したのだろう。三葉は何度か瞬きをしてその据わった目を元へと戻すと、大あくびをした。



「はあ〜。おはよう、恵ちゃんにリア充」

「恵助です」

「リア充じゃないです。小松です」

「彼女いる時点でリア充なんだよ。イイネ! ボタンなんざ絶対押さんぞ私は」

「なんて横暴!」

「いっそ、爆発してくれればいいのになぁ……」



 憂いを帯びた表情で直虎を見ながら三葉は言う。背筋を這う悪寒に、直虎は思わず震えた。そして直感した――その言葉に軽さを感じさせない何かがある、と。



「恵さーん! 助けてぇ! 三葉さんが怖いんですけど!」

「恵助です。大丈夫ですよ。彼女と別れればすぐにでも優しくなりますから。三葉さんの一割は優しさで出来ているハズです」

「ハズってなんすか!? ハズって!?」

「あらー。さすが恵助くん。私の事分かってるわねぇ」

「だてに長い付き合いがある訳じゃないですしね」

「そうねぇ。気が付けば結構長い付き合いよね」



 「しかも一割って少なすぎだろ!」と小声で言った直虎の言葉は、二人には聞き流された。



「初めてお会いした時のこと、今でも覚えていますよ。なにせ開口一番に『今時こんなボロ屋あるんだ』でしたから」

「あら、そんな事言ったかしら?」

「おや、ほんの数年前の事ですよ。よもやお忘れになられたと? ああ、もう結構な(・・・)お年でしたっけ。申し訳ありません」



 どこぞの物語に出てくる猫の如くニンマリ笑いながら、恵助は一部を強調しつつ言う。如何に名実共に年数の経ったアパートでも、恵助はそこの管理人だ。ボロイを連呼されれば腹も立つ。しかも初対面で。若干棘を含んだ言葉で、さり気なさの欠片も無い反撃をする。

 ささやかな反撃に、三葉は頬を引き攣らせた笑顔で迎え撃つ。自分でも分かっているそれは、触れて欲しくない現実だ。何時の間にやら職場では長年勤める頼りになる先輩という名のお局で、実家に帰ればいつ結婚するのだと両親の攻撃。

 やかましいわっ! と、いっそ怒鳴ってしまいたい。年下の男を! と夢を見るのは諦めている。何故あの時、上司が持ってきた見合いを断わってしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。


 そんな荒んだ心境の中、三葉に訪れた出会い。ちらりと一階2号室の扉を見る。その部屋の住人、右京。知っているのはその名のみで、それが名字なのか名前なのかも判らない。住人達も〝右京〟としか呼んでいない。

 外見だけなら自分よりも五つ以上年下であろう、何年経っても姿の変わらない青年。寿退社した先輩から紹介され、引き継いだ仕事相手。


 ――決して踏み込んではいけないよ。


 先輩から、絶対に守るようキツく言われた一言。

 だらりとテーブルの上に両腕を伸ばし、三葉は剣呑な瞳で恵助を見た。うだつの上がらない地味男と思える管理人は、どうしてか掴み所の無い男だ。

 時として恐ろしいほど自然に、自分に牽制をしかけてくる。まるでこちらの考えが分かっているかの如く。



「いやだわ。若いくせに干物を通り越して、干からびてる子に言われたくないわぁ」

「干からびてはいませんよ。物理的には」

「いつまでも昔の事を引き摺る男は女に嫌われましてよ?」

「時には過去を振り返ることも大切ですよ?」



 うふふ。あはは。と白々しい笑い声が響く。ストーブがついているのに、若干温度が下がったような気がするのは気のせいではないはずだ。

 頬をひきつらせながらも、直虎は二人の会話にあえて入らない。不用意に入ろうものならナイフの如く鋭い言葉が突き刺さる。これ以上ダメージは受けたくない。まだ早朝だというのに直虎のライフは順調にゼロに近づいている。


 隣の南極大陸を視界に入れないように、直虎は背負っていた人物、柳のじーさんと呼ばれた老人をゆっくりと降ろす。たまり場に置いてあるマッサージチェアに座らせた。これだけ騒ぎが起きていたというのに、老人の目が覚める様子はない。近づかなくても分かる酒の匂い。泥酔したのち道端で寝たらしい。



「年寄りがこの時間帯に泥酔したあげく、道に寝っころがってるってマズイじゃん」



 前夜に酒飲み仲間と飲みに行くと言っていたのだ。夜中にしろ朝方にしろ、よく凍死しなかったものだと感心する。

 本人は強運の持ち主と自称していたが、どうやらそれは本当らしい。こういった方面で発揮してほしくないものだ。よく考えてみれば分かる。早朝、道端に倒れている老人の姿……。あまり心臓にいいものではない。



「直くん? 帰ってきたの?」



 廊下の奥から女性の、少し高めの声が直虎を呼ぶ。開いた四つ葉号室の扉から、たまり場を覗き見る一人の女性。恵助を管理人と呼ぶ数少ない存在だ。

 直虎の姿を確認すると一つに縛った髪を揺らしながら、ひょこりと姿を出した。直虎より少し年が上らしい女性が、エプロンをつけたままたまり場へ来た。



「はーい。帰ってきましたよー」

「帰ってきたならさっさと私に顔見せてよね。いつもより遅いから、何かあったのかって心配してたんだから」



 腰に手を当てて表情と共に不満げに言う女性に、直虎は思いきり抱きついた。



「美佳子ー! お前だけだ! 俺の心配をしてくれるのは!」

「はぁ? 何よいきなり」



 自分より背の高い年下の男を、美佳子は眉を八の字にして見た。ここは人目もはばからず抱きつく直虎に怒るべきだろうに、何故か必死な姿にその気がみるみる萎んでいく。どうしてだろう? 甘やかしてしまうのは。年下の特権とでも言うべきか。

 微笑ましいというよりは、若干生暖かい視線を感じる。抱きつく直虎の頭を軽く押しながら、美佳子は背中がむず痒くなる思いだ。



「朝からお熱い事で」

「若いっていいですね」

「おお。ワシのプリンちゃん!」



 上から順に、三葉、恵助、柳のじーさんである。

 大きく口を開けながら伸びをする柳のご老人は、背中からバキボキ音を鳴らしていた。だいぶ凝っていたらしい、盛大な音に思わず直虎は苦笑する。

 それもそうだろう。何時間寝ていたのかは知らないが、硬い地面の上に横になっていたのだから当然だろう。そのまま棺桶の世話にならずに良かったものだ。



「こ、これは直くんがいきなり抱きついてきて……」



 ほんのりと赤く染まった頬を見せながら、しどろもどろに美佳子は言った。もっとも抱きつかれたままの状態に、あまり説得力は無い。

 険のある目で美佳子を見る三葉に気が付いて、恵助はその目に思わず引く。ここはあえて見なかったことにすべきか? それとも、さり気なく指摘すべきか? どちらにしろ自分にとって良いことにはならなそうだ。

 肩に止まっていた京一郎も気付いたらしい、悲鳴の如く小さく鳴くと恵助の反対の肩へと移動し、三葉と距離をとった。猛禽類のフクロウですら避ける視線か? 触らぬ神に祟りなしとして、京一郎と同じ様に恵助も一歩離れる。



「朝っぱらからイチャイチャとまー、ようしとるのぅ。そーゆー事は夜中にせんか、夜中に。揉み放題じゃぞ」



 ふひひと笑いながら、柳は両手をワキワキと動かす。その動作とセリフはただのスケベじじいの姿だ。また始まったかと、思わずした頭痛に恵助はこめかみに指を押し当てた。



「なんじゃ、直虎。揉まんと言うなら、ワシが代わりにプリンちゃんの――ぐへあ!」



 スパンと軽快な音に柳の呻き声が重なる。少し前まで三葉を叩いていた新聞が、今度は柳の頭部に直撃した。長いため息を吐きつつ、恵助は丸めた新聞を手の中で軽く叩く。



「じーさん。そんな事言ってるから奥さんに家を追い出されるんでしょうが」

「ぐっ……! お、追い出されたわけではない。ちょっと自宅をリフォームするから、その間借家住まいをしろと……」

「もう数年経ってますけど……。随分長いリフォームですね」



 低い声で柳に言う恵助の、据わった目は冷ややかだ。些か所かかなりとうが立ち過ぎている好色家は、妻にさんざん説教を――しかも物理的にもされたと言うのに一向に反省の兆しが見えない。

 むしろ追い出されてからの方が、監視の目が無くなった為かハメを外しすぎている。



「おじいちゃんの奥さんって、心が広いのねぇ。私だったら三下り半を叩きつけるわよ」



 しみじみと呟く三葉。それは違うと、恵助は心の中で言う。

 確かに昨今の熟年夫婦の離婚率を鑑みれば、柳の態度はいつ離婚届を送りつけられてもおかしくない状態だ。仮に離婚するならば理由は性格の不一致か、それとも著しく問題のある性癖か。後者な気がするのは恵助だけだろうか?



「まぁのぅ。ちぃと昔は周りがうらやむ似合いの夫婦と言われとったわ」

「おしどり夫婦?」

「そうじゃ」



 小首を傾げながら問う美佳子を見ながら、柳はふんぞり返った。どうだと言わんばかりだ。

 おしどり夫婦かどうかの判断は恵助には出来ないが、月に一度は必ず柳の妻から電話は来る。何も思わない相手なら、そんなことはしないだろう。しかも本人には隠して欲しいと念押しされたうえで。

 もっとも内容は、柳がまたやらかしてないか、住人達に迷惑をかけてないか、洗濯ものはためていないか、ゴミ出しはきちんとしているか、汚部屋になっていないか等々。


 前半は夫を気にかける妻の言葉だが、後半は思わず母親か? と言いたくなる。

 和気藹々と夫婦論を語り始める柳に、恵助は呆れ半分のため息をつく。のろけを含めた長話になるだろう事は容易に想像がつく。新聞を脇に挟むと、京一郎を連れたまま管理人室へと向かう。着実に腹は減っていくのだ。

 そして京一郎の飼い主はまだ帰宅していない、フクロウの餌も用意しないとならない。生憎とフクロウになら率先して世話を焼く右京は、現在自室に缶詰状態だ。



「あー。京一郎、朝食は鶏肉で良いですね?」

「ほっほー」

「ん。異論なしと言うことで」

「ほー」



 微妙に異種間での会話を成立させる恵助たちに、美佳子は驚きの視線を向ける。来ればよく見る光景ではあるが、毎回不思議に満ちている。



「あ、あの管理人さん。朝食がまだでしたらご一緒しません? 三葉さんの分もと思って、豚汁大量に作ったんですよ」

「ぴるるるるるる!」

「ちょっ、京一郎! 耳元でいきなり鳴き出さないで下さいよ」



 自分の好みだったのか? 京一郎は恵助の肩を強く掴んで翼を動かす。バサバサと動く翼が数回、恵助の頭にヒットするがお構いなしだ。



「……はー、分かりました。京一郎共々、お言葉に甘えたいと思います」

「はい。すぐ持ってきますね。あ、柳のおじいちゃんの分も用意しないと」



 フクロウが豚汁を食べて大丈夫なのか気にすることなく、美佳子は四つ葉号室へ戻っていった。扉の向こうから直虎を呼ぶ声がし、直虎が慌てたように自室へと走る。横を通り抜ける直虎を見送ると、恵助はたまり場へ踵を返した。



「ところで京一郎。君は豚汁を食べると塩分過剰摂取になるのでは?」

「ぴゅーぃ?」



 口笛を吹くように鳴くと気まずそうに顔をそむける。仕草だけで見るなら、まるで人間のようだ。

 指先で京一郎の嘴を撫でると、恵助は安いパイプ椅子へと腰をおろした。




 急遽朝食会となったたまり場で、全員で美佳子お手製の豚汁を食べる。徐々に暖まる身体に、自然と顔がほころぶ。具材に油揚げが入っていないのが心残りだが、家ごとに違うものだ。口にいちょう切りの人参を入れながら、恵助は納得する。

 因みに美佳子の家は、かまぼこを入れるらしい。椀の中に浮かぶ白と桃色を見て、目元を綻ばせる。確か京一郎の飼い主は、インゲンを入れていたような気がする。

 美佳子に険を持っていた三葉も、豚汁を食べて落ち着いてきたらしい。三葉――右京の担当編集らしい当人は、買った食事が多いのだろうか? 以前何気なく家事の話をしていた時、視線をそっとそらした覚えがある。


 触れぬが仏だ。それにそろそろ頃合だろうか? 恵助は右京の部屋の扉を見て、柳へと目を向けた。一瞬視線が合うだけで、柳は理解したらしい。にっと笑うと、軽く頷く。

 そしてまったりとしている三葉に、恵助は「ところで」と話を切り出した。



「三葉さん、原稿いいんですか?」



 あまり気にしている様子もなく、まるで明日の天気の話をしているように恵助は言った。その一言にお椀を口元へあてた状態で、三葉がピシリと動きを止めた。

 視線だけを壁に掛けられた時計へと持っていき、一度目を閉じ、もう一度確認のため時計を見る。何故だろう? 彼女から冷や汗のようなものが出てきているのは。



「…………右京さぁぁぁん! 原稿ギブミィィィ!」



 暫らく無言でいたが、突如大声で叫ぶやいなや三葉は、お椀片手に右京の部屋、一階2号室の扉に駆けだしたのだった。



「お前さんも性格悪いのぅ。分かっておって言わんのだから」

「今回は右京さんが悪いワケじゃないですからね。多少の時間稼ぎぐらいはしますよ」

「あの娘っこも報われんのぅ」

「相手が右京さんじゃ、見込みゼロですからね」

「荻野目の嬢ちゃんがおるしな。解っとってもあれじゃ、人はなんと面白いものか」

「そんな一途なところが人間なんですよ」

「まぁ、浮気性な所もあるが……。その一途さをこよなく愛すことができればいいんじゃがな。ワシ等にはまず無理じゃ」

「ええ。一途さは時に哀れです」



 恵助の言葉ににんまりと笑う柳。扉を叩く大きな音を聞きながら、恵助は豚汁をすすった。



「美味しいですねぇ」



 お椀の中身を軽く回しながら、彼は寄り添う直虎と美佳子を見た。


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