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後編

「さくらー」

昼下がりのカフェの、明るい窓際の席で、香織がわたしに手を振った。

「ごめん、待った?」

「待ちくたびれたよぉ」

そう言って笑う香織の白い肌に、午後の柔らかな日差しが当たる。

香織……また綺麗になったみたい。

高校が別々になったわたしと香織は、しばらく会うこともなかったけれど、偶然同じ大学のキャンパスで出会ってからは、社会人になった今でもこうやって時々会っている。

そして次の日曜日、香織は高校時代に知り合った先輩と、結婚式を挙げる。


「さくら、あの営業マンの彼とはもう会ってないの?」

香織がアイスティーをカラカラとかき混ぜながら、わたしに聞く。

「会ってないよ。三か月前に、大阪に転勤しちゃったし」

「じゃあ今、全くのフリーなわけね?」

香織がやけにニコニコしながらそんなことを言う。

「悪かったわねぇ、どうせ毎週暇してるわよ。香織が羨ましいわ。もうすぐ六月の花嫁さんだもんねぇ」

ため息交じりのわたしの声に香織は少し笑って、そして遠くを見るような目つきでつぶやいた。

「でもわたしは羨ましかったよ? 中学生の頃、さくらのことが」

「え?」

「だって両思いだったじゃない」

香織がそう言っていたずらっぽく微笑む。

「両思いって、誰と誰が?」

「もう、とぼけちゃってぇ。わたし気づいてたんだからね?」

香織は時計を確認してから、「そろそろ行かなきゃ」と席を立つ。

「ごめん、さくら。このあと彼と待ち合わせしてるの」

「うん、それじゃまた」

「日曜日、来てくれるよね?」

わたしの顔をのぞきこむようにして香織が言う。

日曜日、小さな教会で結婚式を挙げたあと、地元の友達が集まって、香織たちのウエディングパーティーが開かれるのだ。

「もちろん」

「必ず来てよ?」

香織はわたしに笑いかけると、柔らかそうな茶色い髪をふわりと揺らして店を出て行く。

わたしはそんな香織の背中を見送りながら、中学生の頃いつも見ていたあの背中を、なんとなく思い出していた。


六月最初のよく晴れた日曜日。

彼の隣で微笑む香織は、今までで一番綺麗に見えた。

「あ、さくらー」

立食パーティーのレストランで、ブーケを持った香織がわたしに駆け寄る。

「おめでとう。香織」

「ありがと」

香織はにっこり笑ったあと、すぐに目をそらして、周りをきょろきょろと見回す。そしてちょうど入口から入ってきた人に気づくと、わたしの前で大きく手を振った。

「あ、来た来た。こっちだよ、西森ー!」

心臓がとくんと音を立てる。忘れかけていた甘酸っぱい想いが、じわじわと胸の奥からあふれ出す。

ゆっくりとゆっくりと顔を上げた。隣に立つ香織の視線を追いかける。

お酒を飲んで盛り上がっている人たちをよけるようにしながら、真っすぐこちらに向かってくるスーツ姿の男の人。

それは十年ぶりに会う――あの西森だった。


「西森もね、今フリーなんだって」

わたしの耳元でそうささやくと、香織は小さくウインクしてから、他の友達に呼ばれて去って行った。

残されたわたしの前に立っているのは西森。だけどわたしはその顔をまともに見れない。

なんなの? なんなの、もう。これじゃまるで、中学生みたいじゃないの。

「佐倉……さん?」

西森の声が聞こえた。

「で、いいんだよな?」

「え?」

顔を上げたら、西森がわたしに言った。

「ほら、女の人は、結婚すると苗字変わるから」

「も、もちろん、わたしは佐倉のままだよ?」

わたしが言ったら西森がほんの少し笑った。

ああ、なんだろう。なんだかすごく胸が熱い。

「香織の彼氏、あ、もう旦那か。おれのサッカー部の先輩なんだ」

「そうなんだ」

「すっごくいい人だよ」

西森が視線をはずして香織たちを見る。わたしはそんな西森の横顔を見る。

高校時代、西森と香織と香織の彼氏に、どんなことがあったのか、わたしは知らない。

決して忘れたわけではないけれど、わたしの中で西森はもう、過去の思い出のひとつになっていたはずだった。

「今日このあと……なんか用事ある?」

西森がわたしを見ないままつぶやいた。

「え?」

「一緒に、帰らない?」

そう言って西森はわたしに振り返って、少し照れくさそうに笑う。

「うん。一緒に帰ろう」

そんな西森に、わたしもぎこちない笑顔を見せた。


パーティー会場のある駅前は、十年間でずいぶん変わった。

大きなショッピングセンターができて、高いマンションが建って……だけど駅から離れた中学校の周りはまだそんなに変わってなくて、そして学校から家までの道は、なんにも変わっていない。

「佐倉は今、何してるの?」

パーティーが終わった後、約束通り、わたしは西森と一緒に帰った。

「普通に実家から会社行ってる。西森は?」

「おれは大学からずっと、都内で一人暮らし」

「都内で? すごい」

「べつにすごくないよ。普通のサラリーマンだし」

そうか。こんなに近くに住んでいたのに、西森と全然会わなかったのは、東京で一人暮らししていたからなんだ。

「わたしなんかと帰ってきちゃってよかったの? 久しぶりに地元の友達と会ったんでしょう?」

「いいんだ、べつに。佐倉と話したかったから」

心臓がまたとくんと動く。少し前を歩く西森の背中を見つめる。

空は夕焼け色だった。あの頃と同じ色だった。二人を包む空気の匂いも、通り抜ける風の音も、西森との近くて遠い距離も――全部全部、あの頃と同じだった。

「ごめんな。佐倉」

背中を向けたままの西森がつぶやく。

「あの頃、すごくそっけない態度とってたよな、おれ」

西森の声がわたしの胸に沁みこむ。

「なんか佐倉の前だと上手くしゃべれなくて……今だったらもう少し上手に、できそうな気がするんだけど」

そう言った西森が立ち止る。そしてゆっくりと振り返ってわたしのことを見た。

制服を着ていない西森。少し声が低くなって、少し背が高くなって、そしてネクタイが似合うようになった。

「わたしも……」

そんな西森の前でわたしが言う。

「わたしも今だったら……もう少し上手く伝えられるような気がする」

いくつかの出会いがあって、いくつかの別れを経験して、わたしもあの頃より少し大人になった。

「ごめんね? 迷惑なんて思ってなかったよ」

ずっと踏み出せなかった一歩を踏み出し、わたしは西森の隣に並ぶ。

「明日もあさってもずっと……西森と一緒に帰りたいって思ってた」

西森が黙ってわたしを見ている。すごく恥ずかしかったけど、わたしも黙って西森を見た。

やがて夕陽の中で、西森が優しくわたしに笑いかける。

「それ、十年前に聞きたかったなぁ」

笑い出した西森を見て、なんだかとても幸せな気分になれた。

「西森こそ。十年前に、そうやって笑いかけてくれればよかったのに」

ずっとずっと背中を見ていた。振り向いて、笑いかけて欲しかったのは、わたしが西森を好きだったから。


「あの雨の日覚えてる?」

「雨の日?」

「西森がわたしのこと、待っててくれた日」

「ああ、靴がびしょ濡れになった日な」

西森と並んで帰り道を歩く。もっともっと歩いていたかったけど、わたしの家はもうすぐそこだ。

「じゃあ」

家のそばで立ち止まる。いつもわたしたちが別れた場所。

「うん。じゃあ……」

『また明日』なんて西森は言わない。そんなことはわかっている。

軽く手を振って西森が歩き出した。わたしはその背中を黙って見送る。

いいの? これで終わりでいいの? 胸の奥がざわざわ音を立てる。これではまるで、十年前と同じ。結局わたしは、なんにも成長していない。

「佐倉っ!」

名前を呼ばれて顔を上げる。少し歩いた先で立ち止まって、西森がわたしを見ている。

西森は照れくさそうに笑って、ポケットから携帯電話を取り出しながら、わたしに言った。

「メアド教えて! 連絡するから」

そのひと言で、見慣れた景色が別世界に変わる。

「うん!」

バッグから携帯を取り出しながら、西森に駆け寄る。バカみたいに慌てているわたしを見て、西森が笑っている。

「メールする」

「わたしも」

アドレスを交換し合ったあと、西森はもう一度わたしを見て言った。

「じゃあ……またな」

――じゃあ、またな……またな。

西森がそう言ったから、わたしたちはきっとまた会える。


***


「やっぱりさ、『佐倉』って呼ぶの、ヘンだよな?」

晴れた六月の空の下。わたしの隣にいるのは、タキシード姿の彼。

「今日から『佐倉』じゃないんだし」

あらためてそんなことを言われても、まだ全然ピンとこない。

「じゃあわたしが『西森』って呼ぶのも、やっぱヘンかな?」

「うーん……」

真面目な顔をして考え込む、西森がなんだかおかしい。

「西森。もしかしてわたしの名前、知らない?」

「知ってるよ! 知ってるけど……」

西森がわたしを見て、それから照れくさそうに笑って言った。

「初めて会った時から、今でもずっと……『佐倉』はやっぱり『佐倉』なんだよな」


夕暮れのグラウンドを、校舎の陰から眺めていた。

わたしの前に転がってくるのは、わざとはずしたサッカーボール。それを追いかけてきた、泥だらけの体操服を着た男の子。

――おれ、佐倉のこと、ずっと好きだったから。

遠い日に聞いたあの震える声を、わたしはきっと忘れない。


「じゃあ『さくら』でいいよ。わたしも『西森』って呼ぶから」

「やっぱそれ、ちょっとヘンだろ」

友達からの拍手と歓声。笑いながら西森の腕を組み、フラワーシャワーの中を並んで歩く。

耳に聞こえた教会の鐘の音に、学校のチャイムの音が思い浮かんだ。

あの頃のちょっぴり甘酸っぱい、オレンジ色の思い出を胸に抱え、わたしは明日もあさっても、この人と一緒に歩いて行く。

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