中編
次の日はとても良い天気だった。
教室の窓から外を眺めていたあたしは、名前を呼ばれて振り向いた。
何人かの女の子たちが手招きしていて、その中に香織の姿も見えた。
「今度の日曜日、サッカー部の試合なんだって」
「ね、さくらも一緒に見に行かない?」
ちらりと香織の顔を見たら、香織はにこにこしながらあたしを見ていた。
「あたしは……べつにいいよ。興味ないし」
「え、西森も出るってよ? さくら、西森と仲いいじゃん?」
「いつも一緒に帰ってるしね」
「それは……」
もう一度気になって香織を見る。香織はやっぱりあたしを見ている。
「もう一緒に帰るのやめるもん」
「えー、なんで?」
「付き合ってるとか思われたらやだし。あたしべつに西森のこと好きじゃないし」
「そうなのぉ?」
しつこいけどまた香織を見る。香織はなんとなく満足そうにあたしに笑いかけてこう言った。
「そうだよねぇ? 付き合ってもいないのに、一緒に帰るなんてヘンだよねぇ?」
香織の声に笑ってうなずきながら、視線を上げる。あたしの目に、教室の隅で固まって騒いでいる男子たちが映る。
そしてその中に、あたしのことを真っすぐ見つめている、西森の顔が見えた。
部活が終わって校舎を出る。サッカー部はまだ練習をしている。
だけどあたしは立ち止らずに、友達と一緒に校門を出た。
約束をしたわけじゃないし。付き合ってるわけじゃないし。
『また明日』って、言われてないし。
だけど友達と並んで歩きながら、あたしはずっと、胸の奥がチクチクと痛かった。
次の日は土曜日で、その次の日は日曜日で、だからあたしは西森に会わなかった。
日曜日の朝、香織から電話があった。
「ホントに試合見に行かないの?」
「うん」
「あたし今日ね、西森に言おうと思うんだ」
「え、なんて?」
少し間があって、香織が答えた。
「西森のこと、好きだって」
香織の言葉が胸に沁みこむ。どんどん、どんどん……そうしたらどうしてだか、西森の背中を思い出した。
学校からの帰り道。夕陽に照らされた西森の背中。真っ白なシャツがオレンジ色に染まっていて、それがすごく綺麗で……。
だけどそんなことより、あたしは西森に振り向いて欲しかった。
振り向いて、あたしを見て欲しかった。
あたしを見て、笑って欲しかった。
『うん、また明日』
西森はもう、そう言ってくれない。あたしたちはもう、明日会えない。
「いいよね? さくら?」
香織の声に返事をする。
「もちろん。うまくいくといいね?」
あたしはすごい嘘つきだ。
月曜日。教室の窓から外を眺める。空は雲ひとつない青空だ。
昨日の日曜日。西森に告白した香織がフラれたって話は、別の友達から聞いて知っていた。
――西森には好きな子がいるんだって。だから香織とは付き合えないんだって。
香織は今日、学校に来ていない。
「佐倉」
突然名前を呼ばれて振り向いた。あたしの机のそばに西森が立っていた。
「これ、先週出し忘れたやつ。お前美術係だろ?」
西森があたしにスケッチブックを差し出す。クラスみんなのスケッチブックを集めて教科の先生に届けるのは、あたしの役目だった。
「あ、うん」
西森の手からスケッチブックを受け取る。あたしの手が緊張しているのがわかる。
「……ごめんな?」
ざわついた教室の中、西森の声だけがあたしの耳に聞こえた。
「一緒に帰ろうとか言って……迷惑だったよな?」
心臓がドキドキと音を立てる。西森はあたしから目をそらしていて、あたしも西森の顔を見ることができない。
だけど『迷惑』って言葉だけが、あたしの胸に強く残った。
迷惑だなんて……思ってない。なのにあたしは、それを西森に伝えられない。
「じゃあ……」
西森があたしに背中を向ける。いつも見ていた西森の背中。振り向いて欲しかった西森の……。
「西森っ!」
あたしの声に西森が立ち止る。そしてゆっくりとあたしに振り返る。あたしは椅子から立ち上がって、そんな西森の顔を見る。
「どうして……あたしのこと、誘ったの?」
西森がさりげなくあたしから視線をはずす。
「どうしてあたしに……一緒に帰ろうなんて言ったの?」
あたしの声は震えていた。おかしいほど震えていた。
ほんの少し間が開いたあと、西森が静かに顔を上げて、もう一度あたしを見てこう言った。
「好きだったから」
西森の声も震えていた。
「おれ、佐倉のこと、ずっと好きだったから」
教室の中に、チャイムの音が響いた。誰かの笑い声が遠くに聞こえて、それきり頭の中が空っぽになった。
――おれ、佐倉のこと、ずっと好きだったから。
西森がそっと視線をそらす。あたしはその場に立ち尽くしたまま、声も出せない。
教室に先生が入ってきた。生徒たちがバタバタと動き回り、机や椅子を引きずる音が、教室のあちこちに響く。
あたしはそのまま椅子に座って授業を受けた。
だけど教壇に立つ先生の声も、黒板に書かれたチョークの文字も、あたしの中には入ってこない。
あたしの頭の中にはただ、西森の震える声だけが、ずっとずっと残っていた。
一学期、西森と話したのはそれが最後だった。
そのまま学校は夏休みになり、あたしは塾の夏期講習と志望校の見学に行って、二学期が始まったら周りはなんとなく受験モードになっていた。
「西森ってどこの高校受けるんだろ?」
「どっか遠くの私立だって言ってたよ?」
「マジで? そこ頭いい? あたしも行けるかなぁ?」
放課後教室に残って、友達と塾の宿題をしながら、あたしは彼女たちのおしゃべりを聞く。
一学期、西森にフラれて学校を休むほど落ち込んでいた香織は、今ではみんなの中で、普通に西森の話をしている。
廊下で西森と向かい合って、しゃべっている香織の姿を見たこともある。
だけどあたしは……あの日以来、一度も西森と言葉を交わしていない。
「そういえばさ、香織、できたの? アレ」
「うーん、もうちょっと」
「アレって何よ?」
「手編みのマフラー。クリスマスにプレゼントするんだって、西森に」
机を並べた女の子たちがキャーキャー声を上げる。
「でもさ、嫌われないかな? あたし一度フラれてんだよ?」
「大丈夫だよぉ。西森、いまだに付き合ってる子、いないみたいだし。ねぇ? さくら?」
急に振られて、あたしは曖昧に返事を返した。
「う、うん。そうだね。いいんじゃない?」
香織がちらりとあたしを見る。あたしはそんな香織の顔を見ることができない。
ふうっと息を吐いた香織は、ぼんやり天井を見上げながら、独り言みたいにつぶやいた。
「行けたらいいなぁ、西森と同じ高校。そしたらまた毎日会えるのに」
香織の声を聞いてあたしは気づく。
そうか。受験が終わって卒業したら、もうあたしは西森に会えなくなるんだ。
クリスマスが終わって、勉強漬けの冬休みが過ぎて、いよいよ試験日が迫ってきた三学期の放課後。あたしは昇降口で西森に会った。
「あ、西森……」
先生と面談していたせいで、帰りが遅くなったあたしは一人で、マフラーを首に巻いた西森も一人だった。
思わず立ち止まったあたしの前で、西森もちょっと困ったように一瞬だけ立ち止る。
「じゃあ……」
だけど西森はそう言って、あたしを追い越すように足を踏み出す。
「ま、待って!」
白い息と一緒に、思わず口を出たその言葉。
「い、一緒に帰らない? たまには」
ゆっくりと振り返った西森の視線が恥ずかしくて、あたしはそっと目をそらした。
凍りつくような空気の中、西森の少し後ろをあたしは歩く。
なんで……なんであんなこと言っちゃったんだろう。
黙って歩き出した西森は、やっぱりあたしに話しかけてはこない。
夏の初めのあの頃とは違う空の色。冬服を着た西森の背中。首に巻かれたマフラーは、きっと香織にもらったものだ。
涙が出そうだった。なんでだかわからないけど……すごく涙が出そうだった。
「もうすぐだな……受験」
あたしの耳に西森の声が聞こえた。背中越しの、小さい小さいつぶやくような声。
「う、うん。そうだね」
あたしの声が、涙声になっていたら恥ずかしい。
「受かると、いいよな」
「西森もね」
立ち止まった西森の向こうにあたしの家。静かに振り返った西森があたしを見る。
「じゃあ」
西森はあたしにもう言わない。『また明日』って、もう言わない。
「うん。じゃあね」
遠ざかって行く西森の背中に夕陽が当たる。耐え切れなくなったあたしの目から涙が落ちる。
なんで泣いてるの? バカみたい。そう思うのに、やっぱり涙が止まってくれない。
西森はそんなあたしに、二度と振り向かなかった。
そしてそれから一か月後。
あたしは地元の県立高校に受かって、西森と香織は遠くの私立高校に合格した。