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前編

家から中学校まで、歩いて二十分。

三階の教室の窓から見慣れた景色を見下ろして、同じ制服を着た友達とおしゃべりをする。

そんな狭くて代わり映えのない毎日に差し込んだ、かすかなオレンジ色の光。

甘くて切ないこの気持ちが恋なんだってこと、十五歳になったばかりのわたしは、まだ気づいていなかった。


***


校舎の陰から見る、夕暮れのグラウンド。

サッカー部より、いつも美術部は少し早く終わるから、あたしは毎日この場所からグラウンドを眺めていた。


「蹴って」

足もとに転がってきたサッカーボール。顔を上げると、同じクラスの西森があたしを見ている。

右足を少しだけ動かしてボールを蹴った。ひょろひょろと弱々しく転がったボールを、西森の右足が受け止める。

「もうすぐ終わるから。待ってて」

汚れた体操服姿の西森は、あたしから目をそらしてそう言って、くるりと背中を向けた。


制服に着替えたサッカー部の男子たちが、大声でふざけ合いながら校門を出て行く。

隠れているつもりはないけれど、なんとなく校舎の陰に身を寄せながら、あたしはそんな男子の姿を見送る。

教室ではいつも、あの騒がしい輪の中に西森がいるんだけど……。

楽しそうにみんなの中で笑っている西森の顔がどんなだったか、あたしは頭の中で思い出す。

「佐倉」

振り向いたら西森が立っていた。男子たちの声は、もう遠くに消えている。

「帰ろ」

「うん」

誰もいなくなったグラウンドの隅で、あたしたちの声だけがやけに大きく響いた。


「今日、一人?」

美術室の掃除をしていて、少し帰りが遅くなったあの日。あたしは突然西森に声をかけられた。

「うん」

いつも一緒に帰る友達は、その日は先に帰っていなかった。

「一緒に……帰れる?」

なんで西森がそんなことを言うのか、あたしには意味がわからなかったけど、断る理由も特にない。

「べつに、いいけど」

そう答えたら、西森は何も言わずに歩き出して、あたしは小走りでその後を追いかける。

二人の間にはたいした会話もなくて……だけどその日からなんとなく決まりのように、あたしたちは一緒に帰るようになっていた。


「進路希望出した?」

いつものように西森の少し後ろを歩きながら、あたしはその背中に声をかけてみた。

夏服に変わったばかりの白いワイシャツが、西日でオレンジ色に染まっている。

「ん……」

西森は教室の中とは別人みたいに、ボソッと答える。

「どこ?」

あたしが聞いたら西森は、サッカーが強くて有名な、私立高校の名前を言った。

「そこって遠いんでしょ?」

「電車とバスで一時間半くらい」

「へぇ」

「佐倉は?」

あたしは西森とは違う、自宅から自転車で通える県立高校の学校名を答える。

「受験なんか、早く終わるといいのにね」

何気なく言ったあたしの言葉に、西森の返事はなかった。


いつもと同じ帰り道。同じ空気の匂い、同じ空の色。

あたしと西森の間の微妙な距離は、同じ制服を着た生徒の姿が見えると、少し遠ざかったりする。

そしてその姿が見えなくなると、またどちらともなく距離が縮まる。

へんなの。少し前を歩く西森と、その後ろをついていくあたし。

「それじゃあね」

あたしの家の近くで立ち止まる。同じように足を止めた西森が、ゆっくりとあたしに振り返る。

あ、やっと目が合った。

「うん。また明日」

いつものように西森が言った。

――うん。また明日……また明日。

エナメルバッグを肩にかけ直して、西森が歩き出す。

あたしはその場に立ち止ったまま、そんな西森の背中を見送る。

また明日って西森が言うから、また明日も会えるって、その次もまたその次の日も会えるって、なんとなくあたしはそう思っていた。


お風呂上がりに電話が鳴った。受話器の向こうから聞こえてくるのは、同じクラスの香織の声。

「さくらって、西森と付き合ってるの?」

付き合う? 付き合うってどういうこと?

同じクラスに『付き合ってる』男の子と女の子がいるけれど……二人が教室で仲良さそうにしゃべっている所は見たことあるけど……。

だけど『付き合ってる』二人が、それ以外にどんなことをしているのか、あたしは知らない。

「付き合ってないよ?」

「よかった」

なんで『よかった』んだろう?

「だってさ、西森っておもしろいし、けっこうカッコいいじゃん? サッカーやってる時とか」

そういえば、サッカーやってる西森がカッコいいっていうのは、同じ美術部の真奈ちゃんも言っていた。

だけどあたしといる時、西森は全然おもしろくないよ?

「だからね、ちょっといいなって、思ってるんだぁ。告っちゃおうかなぁ、なんて」

耳に残ったその言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返す。

ああ、そうか。香織は西森のことが『好き』なんだ。


次の日は午後から雨が降ってきた。

サッカー部の練習が休みになったってことは、クラスの男子の会話からそれとなく知ったけど、西森は教室であたしに話しかけてはこない。

あたし以外の女子とは冗談交じりで楽しそうに話しているくせに……。


美術室で絵を描いて、友達や後輩とおしゃべりをして、なんとなく放課後の時間を過ごす。

窓の外に降る雨は、さっきより強くなっているみたいだった。


部活が終わって、友達と一緒に昇降口を出た。

ふと振り向いた校舎の陰に、黒い傘を差した男子の姿が見える。

――西森だ。

なんだか急に心臓がざわざわし始めた。隣を歩く友達の声が、すごく遠くに聞こえる。

「ごめん。あたし忘れ物しちゃった。先に帰ってて」

友達にそう言って教室に戻るふりをする。

ヘンな嘘。何やってるんだろう、あたし。バカみたい。

友達の花柄の傘が視界から消えた後、あたしは黒い傘に近づいた。


「あたしのこと、待ってたの?」

西森は、さっきからのあたしの行動に気づいていたみたいだけど、特に変わった様子もなく答えた。

「いつも待たせてばかりで悪いから」

そして水たまりの中に一歩を踏み出し、校門に向かって歩いて行く。

西森のびしょ濡れのスニーカー。いつからここに立っていたんだろう。


雨の中を二人で歩く。傘を差している分、西森とあたしの距離はいつもより遠い。

「昨日、香織に聞かれちゃった。『西森と付き合ってるの?』って」

雨音にかき消されないよう、少し大きな声で西森に言う。西森の背中がかすかに動く。

「もちろん『付き合ってない』って言ったけど。いいんだよね? それで」

西森は何にも答えない。

何でよ? 何で黙ってるのよ?

あたしといると、どうしてしゃべらないの?

どうして笑わないの?

どうしてこっちを向いてくれないの?


「さーくら!」

聞きなれた声に顔を上げる。私服姿の友達が二人、傘を振りながらあたしに駆け寄ってくる。

「今、帰り?」

「うん」

「あたしたちね、今、ゆっちゃんち行ってきたんだけどぉ」

立ち止まって友達の話を聞く。西森の姿がどんどん遠くなっていく。

傘の陰からその背中を見ていたら、なんだかすごく悲しくなった。


友達と別れて一人で歩いた。立ち止まろうとしなかった西森の姿は、もう見えない。

バカ、バカ、バカ。西森のバカ。

あたしといても楽しくないなら、どうしてあたしを誘ったりしたの?

家の近くで立ち止まる。黒い傘の陰から、西森があたしを見る。

「佐倉……」

そうつぶやいた西森と目が合った。だけどあたしは無視して西森の前を通り過ぎる。

びしょ濡れになった西森のスニーカーが、視界の隅にちらりと見えた。

「佐倉っ。待てよ」

西森があたしを呼んだけど、やっぱり振り返らずに家に入って、玄関のドアをバタンと閉める。


あたしは今日――西森の『また明日』を聞かなかった。

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